ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『80年代 その危機と展望』

2015-07-20 22:32:35 | 徒然の記

 山川暁夫氏著『80年代  その危機と展望  』(昭和54年刊 (株) 技術と人間)、を読了した。

 氏は昭和2年に福岡県で生まれ、昭和29年に東大の経済学部を卒業した。職業は、政治・軍事・労働問題に関する評論家であると紹介されている。存命なら今年で88才だ。

 同じ年代の政治家を調べてみたら、上田耕一郎、三塚博、森山眞弓氏がいた。作家で言うと、北杜夫、吉村昭、藤沢周平氏らがいる。何のため同時代の人物を調べるのか。

 物好きからでなく、これほど頑な左翼が育つのは、時代の特徴かと思ったからだ。頑迷な左翼信奉者を、私はこれまで「反日・売国の徒」と呼んで来たが、その伝で行くと氏は一段上の「憎日・棄国の徒」だ。死ぬまでそうだったのか、途中で脱党したのか明らかでないが、長く共産党員であったのは間違いない。要するに、一筋縄でいかない左翼ジャーナリストだということだ。

 読後の感想は、複雑だった。片鱗も受け入れ難い氏の意見だが、知らないことを沢山教え、正論もたまに述べている。有意義な書物だったと、それなりの評価をせざるを得ない。

 これほどの知識と情報を持ちながら、どうして、国を捨てるような思想の呪縛から逃れられなかったのか、不思議でならない。

 「国家が、非和解的な階級対立を土台として形成され、国家が、階級対立の権力的統合の機構、および理念体であるとするならば・・」。

 「世界戦争を阻止するのは、国家群の力ではなく、世界の労働者階級と、民族解放勢力、世界の人民の、戦闘的連帯の強化によってのみ、果たし得るのである。」「戦争に対するのは、正義の立場を口にする国家の行動でなく、階級としての労働者の、解放闘争の強化と前進であり、プロレタリア国際主義の貫徹でなければならない。」

 これが、著書の全編を貫く思想の根本、つまり妄想だ。

 学生の頃だったら左翼用語に惑わされ、何となく黙り込んだのだろうが、国の成り立ちが、和解できない階級の対立を土台にしているなど、あまりに単純なレッテル貼りでないかと、今の自分は反発する。

 貧乏人の息子だった自分は、彼の分類によると、「プロレタリア」、「人民」、「民衆」などの括りに入れられるのだろうが、不愉快この上ない。「プロレタリア」や「人民」「民衆」などという造語は、マルクスの本からの訳語にすぎない。わざわざ言い換えなくとも、「庶民」とか「民草」とか「貧乏人」とか、日本には昔からの言葉がある。

 貧乏人と言われれば癪に触るが、それでも、人民とか民衆、プロレタリアなどと呼ばれるより、ずっとしっくりくる。

 国を越えた、プロレタリアの国際的連携が、労働者を解放し、新しい社会を作ると彼は言うが、世界のどこにそんな社会主義国があるのだろう。民族主義を前面に出し、力ずくで国民を束ねる社会主義国のどこに、国際的連携を見ると言うのか。

 中ソは戦火を交えようとしたし、中国はベトナムへ進攻した。社会主義国相互の中傷合戦や争いを見ていると、「一国平和主義」のスローガンと同様、「プロレタリアの国際的連携」が、現実には存在しない妄想だと分かる。

 だが私は、彼の率直さを評価する。「マスコミ批判の原点」と題し、次のように述べている。

 「逆説的な言い方ですが、私は、マスコミに真実を求めたくないのです。」「マスコミが、真実を報道してくれないので困るとか、真実を報道して欲しいとか、そんな立場から批判したくないのです。」

 「新聞労連などが、一時 、[ 新聞・放送を国民のために ]というスローガンを、掲げていましたが、これは部分的に妥当するところがあるにしても、本来的にはないものねだりではないか、甘えていることになりはしないかと思います。」

 「それよりも、マスコミがぶつけてくる、認識に対する緊張関係を、常に持ちつつ、マスコミ批判を展開しなければならないのでないか。マスコミに騙されるのか、騙されないのかという緊張感ですね。 」

 「それを持ち続けることによって、民衆自身が、自己を確認するということ、それが、マスコミ批判の原点にならなくてはならない、と思うわけです。」

 マスコミ ( 彼が指しているのは主として新聞 ) が、真実など伝えるはずが無いと、36年前に断言している。騙されないぞという緊張感を持って、常に対峙しなければならないのだと、ジャーナリストが語るのを初めて聞いた。

 朝日新聞の大ウソに騙されたと、怒っている私だが、36年前にこの本を呼んでいたら、認識がが変わっていたのかもしれない。更に彼は言う。

 「もともと政治は、支配と被支配のたたかいの総体だ、と定義づけられますが、その意味では誰しも政治の中に生きているわけで、政治から離れた事象は無い。そういう、支配と被支配のたたかいの総体のメカニズムとして、マスコミの報道がある。」

 「もう少し図式化すると、政治と報道がかみあいながら、大衆に影響を与えるという一面がある。」「一方、大衆と政治が結びつきながら、報道に影響を与えるという一面がある。」「さらに今度は、大衆と報道が結びつきながら、政治に影響を与えるという面もある。この三つの相互関係の中で、報道が作られ、生きている。」

 その絡み合いの実例を彼が詳述する。

 「たとえば私が昔、国会で仕事をしていた時代、三木武吉などが、よく記者と碁をやって負けていた。あえて負けた形にしておいて、金を渡すわけです。」

 「こういうことが、記者クラブ、あるいは自民党の控え室などで行われてた。運輸省のクラブの記者には、国電の無料パスが出るとか、建設省詰めの記者には、住宅公団に優先的に入れるといった利益供与がありました。」

 「お中元、お歳暮、旅行の時の、同行記者に30万とか50万とかのお金。ダンヒルのライターなど、いろんな話がある。」

 「すべての記者諸君が、それを受けているということではありませんが、やろうとすればやれる、という条件があるということは、見ておかねばならない。」「記者は、深く入らなければ取材できないし、深入りしすぎると、ミイラ取りがミイラになってしまう。」「とくに政治部の記者が、どう対応するのかは難しいところだと思います。」

 永田町の論理とか、霞ヶ関の論理とか、世間の常識とかけ離れた話が、今でも、そういう表現で婉曲に表現される。

 大きなことから、小さなものまで、様々な形の贈収賄が満ちあふれている政治とマスコミの世界だ。想像はしていたものの、実際に説明されると、やはり驚きだ。政治家も記者たちも、氏の書く事実を知っているし、経験者でもあるが、正直に語らない。

 こんなことを暴露する人間は、その世界から放逐される。

 だから私は、山川氏の本を評価した。素晴らしい人物とは思わないが、ここまで正直に徹した氏に、敬服もする。自分に真似のできないことをされると、そんな人物は無下に扱えなくなる。

 と言って、氏を過大に評価しているわけでなく、自民党を嫌悪する気もない。
金に絡む汚い話は、共産党にもあり、社会党にも、公明党にもある。政界だけでなく人間の世界にはどこにでもある。70年も生きていれば、少年のような義憤に駆られず、事実を眺めることはできる。

 こんな時にこそ、「理想は高く手は低く」だろう。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もし、北朝鮮の理屈が通るのなら

2015-07-19 16:07:36 | 徒然の記

 人権を擁護する新聞やテレビが、拉致被害者のニュースは、何故か報道しない。

 国民に向け、ニュースを提供するという使命を捨てた、隣国の代理人ばかりのマスコミ界だから、不思議も無い現象だ。みんな、反日・売国の腐れマスコミだと、正体を知って以来、腹を立てる気がしなくなった。

 次の疑問は、どうして他国の報道代理人が、大きな顔をし、日本に居座っているのかという点だ。国を憎悪するしか出来ない、反日・売国思想の人間なら、疑問を持たないだろうが、国民の多くはそうでない。日頃はもの言わぬ、多数の庶民が、我慢の限界点を意識した時、その時から、敗戦後の清算が始まると私は思っている。

 敗戦後の日本の歪みが、70年後の今になり、やっと人々の前に明らかになりつつある。

 そこで私は、我慢の限界を超えている事実の内の、一つについて語りたい。
拉致家族の情報を、一年を目処に取りまとめ、日本政府に誠意をもって返事をすると、昨年北朝鮮が約束した。一年とは、何時までなのか。

 相変わらずバカな外務省は、期日の確認を取らず、あるはずのない北の誠意を信じた。早々と制裁の一部解除をしたというのに、北朝鮮が今になって、報告のとりまとめが遅れそうだと伝えて来た。解除した制裁を元に戻すかと思いきや、「相手を刺激しては行けない」と、北の通告を外務省が黙認してしまった。

 腐れマスコミ同様、害務省には、日本人がいないのだと私は思っている。怒る気にもなれないが、害務省と違い、日本人である私は、ここに正直な意見を述べる。

 「戦争中に日本は、朝鮮人を何千人も強制連行して、殺した。」「それに比べたら、拉致被害者など、何の問題があるのでしょう。」

 北朝鮮では、学校で、生徒たちがこのように教えられているらしい。「戦時中の、北朝鮮の国民の受けた被害に比べたら、拉致は優先度が低い。」と、元社民党員で、今は民主党に鞍替えした、辻元清美氏が言ったと聞く。

 「拉致なんて、北朝鮮がするわけが無い。」と切って捨てたのは、故人となった元社会党委員長の、土井たか子氏だった。

 ウソかほんとか知らないが、民主党も旧社会党も、議員の多くが帰化した在日が大半だと、そんな話もあるから、さもありなんと思う。北の政府や、日本に住む、北の代理人たちが、拉致被害者についてそのように言うのなら、無用な怒りを彼らに向けず、私は政府に提案したい。

 「70年前の戦時の話で、無関係な日本人を不法に拉致し、監禁同様にしている北の理屈が通るのなら、」「政府も、同じことをしましょう。」「北まで出かけて行き、人間を引っ張って来なくても、」「日本にいる在日北朝鮮の人間を、無差別に逮捕し、刑務所へ入れましょう。」

 「拉致被害者と同じ数の人間を、有無を言わさず逮捕しましょう。」「北が、拉致家族を放置するのにあわせ、面会もさせず、」「生死の消息も知らせず、20年でも30年でもそのままにしておく。」

 北がやっているのは、そんな理不尽なことなのだ。私の提案を、非難できる人間が、日本にいるのだろうか。罪の無い人間を、突然、底なしの苦しみへ蹴落とした、北の行為を、日本人なら、どうしてこうも長い間見過ごしておれるのか。

 もし北朝鮮の理屈が、このまま通るのなら、日本の政府が、私の提案を無視するはずがない。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まるごとわかる「中東経済」

2015-07-08 22:08:47 | 徒然の記

 日本経済新聞社編 「 まるごとわかる" 中東経済" 」 (平成21年刊 日本経済新聞出版社)を、読み終えた。

 一人の著者が書いたものでなく、駐在員だったなど、中東と何らかの関連を持つ、記者たちの主張を、ひとまとめにした本だ。昭和61年に、読売新聞が出版した「戦犯」という文庫本は、記者たちの調査記録を、一冊に編集したもので、今回と同じ形だった。読売とと日経と、会社が違うとこうも内容が違うのかと教えられた。

 粗末な文庫本だったが、「戦犯」の読後は、込み上げる涙の始末に困ったが、この本には、そうした心配が皆無だった。世界を席巻したオイルマネーが、今はどのような使われ方をしているのか、急速に近代化する中東で、日本にはどんな出番があるのか。

 農業、環境、新エネルギー、人的資源など、わが国で十分に知られていない、ビジネスチャンスを徹底解説する・・・、これが本の売り文句だ。

 結論を言ってしまえば、金儲けに無縁な人間には、詰まらない中身だが、知らないことを教わるという点に着目すれば、有意義な本だった。イラン、イラク、トルコ、サウジアラビア、イスラエル、クエート、スーダン、リビアなど、名前は頻繁に聞くが、さて地図上の、どこにあるかと問われると、私はたちまち窮する。

 ターバンを巻いた人々が、砂漠で暮らしているとか、とてつもないオイルマネーを持った王様たちが、とてつもない贅沢をしているが、国民は貧しいとか、そうした断片的な知識しか無い。イスラム教が支配する地域で、ユダヤ教であるイスラエルは、敵対する国々に囲まれているとか、テロや誘拐を繰り返す、過激派集団が沢山いるとか、心を暗くする、こんな話題しか思いつかない。

 こんな危険な国々の中東だというのに、記者たちが、日本の経済進出を促すのだから、驚いてしまう。本を読むと、一方では、別の思考が生まれてくる。

 もしかすると、中東はそれほど危険満載の地域でなく、あんがい人々が、それなりに日々を送っているのかもしれない。新聞やテレビでしか知識がない私たちは、ここでも、いわゆるマスコミの、大袈裟、偏向報道に染まっているだけなのかも知れない、という気がしてきた。

 巻末には、各国の政治、経済、言語、面積、人口などの資料があり、在留邦人の数も記してある。どの国にも、平均して200名前後の邦人がいて、サウジアラビアにはなんと1000人を越す日本人がいる。政府や企業関係者がほとんどなのだろうが、それでも、これだけの日本人が存在しているという事実は、驚きだった。

 考えてみれば、こんな危ない国にはとても住めないとか、一日も早く日本へ帰りたいとか、そんな訴えをする邦人のニュースを、、私は目にしたことが無い。となると早速、マスコミに対する日頃の疑念が、頭をもたげてくる。火薬庫の中東と形容されるほどだから、平穏な国々ではないと思うものの、センセーショナルな報道を信じ過ぎるのは、間違いのもとだと分かった。

 ・と、詰まらない本だが、有意義だったというのは、こう言う意味だ。

 イスラム法(シャリア)では、2つのことが禁止されている。

 1. 貸した金に利子をつけること、受け取ること。 

 2. 教義でタブーとされている飲酒、豚肉、ギャンブルなどに関連する企業や

   プロジェクトに投資してはならない。

 これがイスラム金融と呼ばれるものらしい。イスラム教徒にとって、教義はいわば憲法に匹敵するものだ。しかし厳格に適用されると、中東諸国では金融業が成り立たない。巨額のオイルマネーがなかった頃は、それで良かったのだが、使い切れない金が手に入り、有効活用しなければ目減りするとなった時から、イスラムの富豪たちの、抜け道探しと、罪を逃れるための工夫が始まった。

 形を利子にしないで、「儲け」を受け取る方法や、禁止された企業等への投資方法などが、見つかり、今では、建前は建前として残し、実質で西洋型金融と変わらない運用がされているとのことだ。

 「ある程度のイスラムの知識さえあれば、西洋の金融は、」「イスラム金融に置き換えることが可能だ。」「営業活動の基本は、まったく変わらない。」という、イスラム銀行幹部の言葉が紹介されている。

 立派な教義でも、暮らしの必要が生じれば、変化せざるを得ない。建前と本音が、否応なしに、社会の底部に居座ってしまう。私にはここに、現在の日本が重なって見えた。

 戦争放棄という憲法を、大切にして来た日本と、イスラムの教義を守ろうとしている中東の諸国とにある、共通の真面目さと頑迷さと、妥協点を探るための困難な苦労だ。同病相哀れむとでも言うべきか、宗教と憲法の違いはあっても、国として抱える大問題である。こうなると、なんだか、イスラムの国々に親近感が湧いてきた。そして、現在の日本に、希望すら湧いてきた。

 2,500年以上の歴史を持つ、イスラム教を作り替えるのは困難極まりないだろうが、日本の憲法は、たかだか70年の歳月しか経ていない。

 日本国憲法は宗教でないし、敗戦後のどさくさので、マッカーサーが強要したものでしかない。国民の中には、憲法を神様みたいに信仰している者もいるが、多くの人間は憲法より大切なものが、「国そのものだ」と気付きつつある。いつか必ず、憲法は作り替えられるはず、という希望が生まれて来た。

 それやこれやを考えさせ、明日への希望も抱かせてくれた、この本は、貴重な資料として本棚に残しておく価値がある。・・くどいけれど、詰まらない本だが、有意義だったというのは、こう言う理由だ。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三橋氏の著作

2015-07-03 17:26:57 | 徒然の記

 三橋貴明氏著「本当はヤバくない日本経済」(平成21年刊 ( (株)幻冬社 )と、「国民の教養」(平成23年刊 扶桑社)、の二冊を読んだ。

 氏は、昭和44年に熊本県で生まれ、都立大学(現・首都大学東京)を卒業し、外資系企業等に勤務した後、中小企業診断士として独立する。平成22年に、自民党公認候補として衆議院選挙に立候補し、落選するという経歴も持っている。

 経済のみならず、学問・芸術の活動においても、政府が余計な干渉をしなければ、「見えざる手」の力で、すべてが巧く行くと、先日読んだフリードマンは、ケインズの「限りない自由主義」を讃えていた。

 三橋氏は、無制限な自由や、経済のグローバリズムを正しくないと言い、国や民族を破壊する、自由主義者に異を唱える。

 「膨大な借金を抱えた日本は、やがて財政破綻する。」、「日本の年金制度は、崩壊する」、「日本の公務員は、多過ぎる。」、「日本の治安は、悪化している」、「日本の貿易依存度は、大きい。」、「日本の国際競争力は、凋落の一途だ。」

 と、私たちは長年にわたり、こうしたマスコミの報道に接して来た。何をする術も無いのに、日本はどうなるのかと、一人前に心配だけはしてきた。

 三橋氏は、これらの意見がどのように間違っているか、数字データを元に分析してみせる。それによると、政府は、都合の良いデータだけ集め、やっかいな数字を引っ込め、マスコミと共に、国民を騙しているということらしい。そういうことができるのなら、氏にしても、自分に都合の良い数字を集め、自説を展開できると、卑しい推理ができなくも無い。

 しかし私は、そんなひねた疑問にとらわれず、素直な気持ちで本を読んだ。

 「日本は、右傾化している。」「日本は駄目だ。」「日本は、世界で孤立している。」「日本は、劣った国だ。」と、マスコミが日々政治面で掻き立てているが、そっくり同じことが、経済の報道でも行われていると、三橋氏が教えてくれた。

 日本の公務員は多すぎず、日本の犯罪発生率は、世界のどの国と比較しても、断トツに少ない。日本の貿易依存度は25%しかなく、韓国は87%、ドイツ70%、中国50%、イギリス42%、ロシア41%である。世界の主要国中で、日本より貿易依存度が少ない国はアメリカ(21%)とブラジル(18%)の二国だけだ。

 平成 22年度の数字だが、こうしたデータを示されると、確かに、マスコミの報道はおかしい。社会の木鐸として、早めに警鐘を鳴らしていると言い訳をしそうだが、マスコミの論調は、日本が破滅し、破綻することを望んでいるように聞こえてならない。

 どこまで氏の主張が正しいのか、今は理解できないが、日本を大切にする立場から、意見を述べていることだけは分かる。

 日本が、世界一の債権大国であることや、世界一の技術立国の一つであることなど、多くの長所を教えてもらった。日本の素晴らしさをドンドン発展させて行くと、やがて日本だけが世界一となり、中国や韓国・朝鮮は、劣等国になりかねない。氏の主張には危うさもあるが、これだけマスコミが、日本駄目論を展開している今は、希少価値がある。私のような感情論でなく、数字を元に、客観的な意見を述べるのだから、立派だと思う。

 フリードマンの著書もそうだったが、氏の本も、有価物回収の日のゴミとせず、本棚に残しておくこととする。

 いつかもう一度読み返して、どちらの意見が正しかったのか、確かめてみたいからだ。けれどもそんな日が果たして来るのか。その日が来る前に、自分の命の方が尽きてしまうのではないかと、かすかな不安がある。

 100才まで生き、本を読むと決めているが、強気の陰にある弱気、楽観の彼方に見え隠れする悲観、とでも言えば良いのか。本人の予定と現実は、常に乖離する。( 三橋氏の元気さと、前向きな思考に敬意を表したい。)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根気よくモグラ叩き(副題 思考停止の哲学者)

2015-07-02 13:13:04 | 徒然の記

 叩いても、限りなく顔を出すモグラのゲーム。敗戦後70年間、マスコミに登場したモグラたちが、「平和日本」の幻想を世間に振りまいて来た。

 冷戦時代が過ぎ、米国一強の時代が終わろうとしている今、中国の軍事強化が、アジアに不穏な空気をもたらしている。加えて、永らく中国に支えられて来た朝鮮が、核開発に成功し、弾道ミサイルの照準を日本に合わせている。

 夢見る少年でしかなかった鳩山氏が、友愛の海を作りたいと寝言を言って以来、沖縄の基地問題が白紙に戻り、米国との関係がギクシャクし始めた。
いったん政治のバランスに不均衡が生じると、国際社会の非情さが露呈する。尖閣諸島への中国の介入、竹島への韓国大統領上陸、北方四島へのメドベージェフ氏訪問と、矢継ぎ早に、近隣国が揺さぶりをかけて来た。

 この流れの中で、南京問題と慰安婦問題の日本攻撃が開始され、拉致犯罪を犯した北朝鮮までが、日本を弄んでいる。

 韓国と中国が、事実を歪曲した、荒唐無稽な、南京と慰安婦問題で、執拗に、残酷に、これでもかと、手前勝手な理屈を並べ立て、眠っていた日本人の愛国心に火を点けた。私が、歴史の見直しを始めたキッカケが、ここだった。中国・韓国・北朝鮮が、これほど難癖をつけなければ、憲法問題など考えもしなかったはずだ。

 ブログを始めた4年前を見れば、一目瞭然だ。当時の私は、金権腐敗の自民党に愛想をつかし、国民の暮らしを守るという、民主党に票を入れた。鳩山、菅、野田という反日の総理にも、好意的コメントを書き、小澤や岡田といった売国政治屋に、もエールを送っている。NHKにだって、日本の良識としての敬意を、シッカリ払っている。

 それほど中国・韓国、北朝鮮の挑発が大きかったということだ。まさに、「太平の眠りを覚ます蒸気船」だった。

 前置きが長くなったのは、長い前置き無しでは語れない、新聞記事に出会ったからだ。6月19日の千葉日報で、文化面に、信じられない寄稿をしている哲学者がいた。どのくらい著名なのか、とんと知らないが、西谷修という人物だ。記事の表題は、新聞社が寄稿文の中から、拾いだしたのだろうが、氏の主張の非現実生を良く表している。

 ルーピー鳩山氏と、遜色の無い寝言なので、煩わしいがコピーする。

「信頼の場を開く、非戦」「テロ出現で抑止論破綻」「安保法制という異常」「恐怖の均衡」「文民の暴走」と、賢明な人間なら、氏の文章を読まなくとも、内容の愚かしさが伺える。氏が言う非戦とは、現憲法が掲げている、日本の「軍事力放棄」を意味している。

 ここで何も引用しないのでは、せっかくの前置きが無意味になるので、私の独断で、最も愚論と思われる部分を抜き書きしよう。

 「憲法は押しつけと言われるが、その責任は、無謀な戦争を際限なく続けた、」「日本の指導者たちにある。」「 非戦は 、相手国との友好関係の入口になり、」「信頼の場を開く。」「交渉や仲介は、そこから始まる。」

 なんということはない、東京裁判史観そのままの意見で、大東亜戦争の敗北を契機として、日本の歴史や伝統を蔑視する、反日の思想だ。我慢強い自分だが、引用もここいらが限界だ。

 中国・韓国、北朝鮮の横暴さが、目立たなかった頃なら、氏の意見も、黙って見過ごしていただろう。しかしアジアというより、国際情勢が、ここまで不穏になっている今となっては、いかに呑気な私でも、隣国の横暴が看過できない。

 長い前段を述べた理由が、ここにある。私のような、一介の年金生活者でも、反応せずにおれなくなった現在なのに、哲学者の彼が、そこを何も言及しないという事実を、ハッキリと記録しておきたい。日本では、世間のことが見えない愚昧な人間でも、哲学者にはなれるということなのか。それとも数ある哲学者の中に、氏のような、「常識の欠落した」モグラが混じるということか。

 だから、氏の論文には、「思考停止した叙述」が、沢山出てくる。日本を敵国扱いして止まない隣国に、強く肩入れしているのだから、彼のやっていることは、利敵行為そのものでないかと思ったりする。

 もしかすると、隣国から送り込まれた工作者か? 。そうでなければ、私には、彼の真意が理解できない。こんな学者の記事を掲載するのだから、千葉日報社も、同類なのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和教育

2015-07-01 11:46:16 | 徒然の記

 NHKの「」あさいちで、平和教育の大切さについてコメンテイターたちが語っていた。

 この種の報道に接すると、テレビであれ新聞であれ、いつも強い違和感を覚える。子どもたちに、もっと戦争の悲惨さを語らなくてはいけないとか、平和の大切さを教えなくてはならないとか、こういう思考方式そのものに、苦々しさを感じてしまう。

 行くつくところは、戦争を経験した大人たちから、話を聞こう、本や新聞で戦争について調べようなどと、毎年繰り返される、不毛な結論に収束する。今朝の番組では、中学生だったか高校生だったか、女生徒三人が留学生たちに、インタビューしていた。

 国会で審議されている安保法案について、「今まで、武器が使えなかったのですが、これからは、使えるようになるのですがどう思いますか。」と、自分でもよく理解できていないことを、不要領に質問していた。

「武器が使えなかったら、攻撃された時、どうして自分を守るのですか。」
「日本の自衛隊は今のままがいいのです。今のままの自衛隊だから、世界で高く評価されているのです。」

 そんな答えを聞いて感心する、女生徒の話と、留学生に意見を聞くという、着想が素晴らしいと、彼女たちを誉めるコメンテーターの批評だった。こんな番組を提供するNHKに、今回も、情けなさと失望を感じた。

 こんな大事な話を、立ち話でやり、答えている留学生にしても、自衛隊が世界で高く評価されているなどと、どこからそんな意見が断言できるのか。もし私が、他国に留学していて、その国の女生徒に同じ質問をされた時、世界がその国の軍隊をどのように評価しているなど、即座に答えられるはずが無い。

 聞く方も聞かれる方も、いい加減としかいいようのない雑談なのに、このような会話を、どうしてNHKが評価したのか。平和教育の一つだと、大仰に取り上げたのか。不思議でならない。

 極め付きは、女性教師が、各種の新聞を材料にし、安全保障関連法案の授業を行い、これが平和教育であるとする部分だった。各種の新聞と言ったところで、産経を除く他紙は、この法律を戦争法案だとして反対しているのだから、教師の授業が、どんな方向で行われているのか、簡単に想像がつく。

 平和教育という名称からして、私には疑問符がつく。これまでの経緯を見ても、平和教育という名前で行われて来たものには、碌なものが無い。日本の軍国主義の過ち、というところから出発し、日本が他国を侵略した、残虐な行為をした、世界中から憎まれていると、自分の国を駄目なものとして反省させるだけの内容だった。

 本気で平和や戦争を考えるのなら、とってつけたような平和教育など止めにし、韓国の慰安婦問題や中国の南京問題、あるいは中国の海洋埋め立てなどについて、真正面から取り上げる記事を、マスコミが連載すれば良い。半年もすれば、国民の目が覚める。

 慰安婦や南京問題は、先の戦争からもたらされた、捏造の産物であり、一方中国の海洋埋め立ては、明日にも戦争につながる蛮行である。これをマスコミが取り上げない理由は、左右の主張が激しく対立しているため、自社の意見を述べる見識と、勇気がないから頬被りしているだけのことだ。

 真摯に平和や戦争について取り組もうというのなら、対立する主張と、繰り広げられている現在の事件を、公正に報道すれば、子どもたちにも、平和や戦争の危険が現実のものとして理解できるはずだ。

 今日から、七月だ。来月になると、また平和と戦争ためと称し、お祭り騒ぎの、まやかしキャンペーンが始まる。こうした子ども騙しみたいな平和ごっこにも、戦後70年を契機として、オサラバしてはどうなのだろうか。「終戦記念日」などというゴマカシのレッテルも剥がし、「敗戦の日」と正しく表現する正直さをマスコミに求めたい。

 子どもたちのための平和教育というのなら、ここから改めなくてはなるまい。

 最近はNHKの悪口ばかり述べているが、それでも私は、テレビを見るときはNHKにしかチャンネルを合わせない。騒々しく軽薄な、民報の番組に比べたら、安心してみられるのはやはりNHKなのだ。

 左巻きの経営陣や、キャスターや職員がいると分かって以来、腹立たしくならないが、そんな者は一部だと信じたい。立派な番組を沢山作っているし、なんとしても本来のNHK、国民のための公正な報道機関、となってもらいたい。

 朝日新聞には、期待しても空しいと分かったので、せめてNHKに希望をつなぎたい。今後何年もこのままだったら、朝日新聞の定期購読を止めた時のように、国民として、決断する日が来るだろう。

 「受信料不払い」のため、「NHK受信拒否」の機具購入と設置という、苦渋の決断。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする