ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ご報告 ( 心配をおかけしました )

2022-09-29 19:19:16 | 徒然の記

 goo事務局、googleのいずれからなのか、先日のコメントは発信主も分からないままですが、本日新しいコメントが入りました。

 ご報告のため再度確認しましたが、既にコメントが消去されていますので、記憶した範囲で下記、お伝えします。

 1.  紹介されている件数は、トラッカーにより追跡された数字でなく、トラッカーの追跡を阻止した件数であること。

    2.  safariは、利用者を守り、安心して使えるようにしている、というコメントであること。

   3.  現在は件数が減り、集計するレベルになっていないこと。

 なぜわざわざこういう親切なコメントが入るのかについて、システム音痴の私には理解できませんが、私の早とちりで、「ねこ庭」を訪問される方々に余計な心配をかけてしまいましたことを、取り急ぎお詫びいたします。

 これからも今まで通り、おつき合いくださるようお願いいたします。

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山繁晴氏と高橋洋一氏の動画

2022-09-28 23:20:07 | 徒然の記

 無我夢中で総理へ捧げる「鎮魂歌」を、39回書きました。終わり頃に、「過去1週間以内に、74件のトラッカーによるプロファイリングが阻止されました。」と、goo事務局のコメントが入りました。

 今でもこの意味がわからないままですが、こんな時は、一息入れるのが一番です。だから久しぶりに、青山繁晴氏の『僕らの国会』と高橋洋一氏の『高橋洋一チャンネル』を観ています。

 国会のこと、政界のこと、議員のこと、官僚のことなど、知らないことをたくさん教えてくれます。二人とも反日左翼を批判していますから、のんびりと観ていられます、

 しかし二人の話は、どう聞いても「ねこ庭」の独り言より辛辣で、際どい意見です。登録者数も30万人台ですから、トラッカーが追跡するのなら、こう言う動画の方だろうと思いますが、なんで82人しか登録者のいない、千葉の片隅のマイナーな『ねこ庭の独り言』がターゲットになったのか、今でも不思議でなりません。

 青山氏も高橋氏も楽天的な人物なので、意見を聴いていると、気持ちが楽になります。こんな辛辣なことを喋っていても動画が続けられるのなら、『ねこ庭の独り言』も心配する必要はないのではないか、とそんな気になります。

 ただ二人は、特定の個人名を出し、厳しい批判をしていませんので、その違いが大きいのでしょうか。私が批判しているのは、個人が隠している意見を不法な手段で手に入れているのでなく、新聞や出版物で公表された意見を対象にしています。

 息子たちを間違った道へ誘う、間違った意見なので、私もネットという公共のツールを使って意見を述べています。今や私の中で「息子たち」は、三人の息子だけでなく、心の中にいる若者を対象にしています。あの若者も、あの若者も、大事な息子たちです。こんなことは誰もがやっているのですから、トラッカーが追跡する理由が分かりません。

 閉鎖されたら、別の方法を工夫して意見を言います。市役所から交付される「健康保険証」には、79才と書かれています。もうすぐ80です。残り少ない一生ですから、自由な日本に感謝しつつ、これからも『ねこ庭の独り言』を続けようと思います。

 突然痴呆になり、ネットに向かえなくなる日が何時来てもおかしくない年です。トラッカーのことなど頭から消えてしまい、自分が今何をしているのかも分からなくなると聞きますので、「心配する必要」もない気がします。

 結局人生は、「ケセラセラ」「なるようになる」ではないでしょうか。自分なりに生きた結果を、受け止めるだけですから深く考えるのは、時間の無駄です。私も暇な人間ですが、こんな私のブログを追いかけるトラッカーもずいぶん暇人なのでしょう。ご苦労なことです。

 そんなことを考えながら、青山氏と高橋氏の動画を観ていますので、話の内容を明日は忘れそうです。今お二人の動画は、心地よい音楽のように私の気持ちを癒してくれます。人様の意見が音楽のように聞こえるのですから、不思議な経験ではありませんか。

 亡くなられた安倍総理にだけでなく、青山氏と高橋氏にも感謝しなければなりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 39 ( 完成、 総理へ捧げる「鎮魂歌」 )

2022-09-27 19:55:38 | 徒然の記

 この記事の紹介は、村山富市氏の恥を上塗りすることになりますが、「朝日デジタル」がしていることなのでそのまま紹介します。令和2年8月15日の記事です。記者の名前は小林豪氏、この人物も本日村山氏と共に「ねこ庭」で恥をさらすことになります。

  NHKの解説委員の安達宣正氏の「記者ノート」も、紹介するのがためらわれるほど詰まらない記事でしたが、小林氏の記事も同程度の内容です。 

 「日本のアジア諸国に対する植民地支配を認め、公式に謝罪の意を示した村山談話。その発表から25年を迎えた15日、村山富市元首相(96)が『村山談話に託した想(おも)い 』と題したコメントを公表した。」

 村山氏が河野氏と二人で日本記者クラブへ招かれ、みっともない放談をしたのは平成27年でした。周囲の誰かが助言して、国民の軽蔑を受けていると知らされ反省していると思っていましたが、5年経っても変わらず、亡国の放言を続けていました。 

 記事を書いている朝日ジャーナルの記者も、NHK解説委員の安達氏と同じで、「村山談話」称賛派です。なるほどNHKは国民の受信料で経営が安泰ですが、読者にそっぽを向かれる朝日新聞社は経営が傾くはずです。

 「日本の侵略戦争を否定する歴史認識は、受け入れられるはずがないと強調し、村山談話が、引き続き世界平和に貢献することを期待した内容だ。」

 今度は放談でなく、村山氏が書いたメモだそうです。わざわざ「終戦の日」の日に、小林記者が受け取ったのでしょうか。

 「村山談話は、50回目の終戦の日にあたる1995年8月15日、当時の村山内閣が閣議決定した。〈 植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた 〉と公式に植民地支配を認め、〈 痛切な反省の意 〉と〈 心からのおわびの気持ち 〉を表明。その後、安倍内閣を含めた歴代内閣が受け継ぎ、日本政府の公式見解となっている。」

 安倍総理が病気のため任期途中で辞任したのが、9月でしたから、記事はそのひと月前に書かれたことになります。もしかすると安倍氏辞任を促した、何本目かの矢だったのかもしれません。 

 「村山氏が15日に出したコメントでは、冒頭で〈(村山談話が)世界各国の人々や政府から、高い評価を受け続けているようで、光栄なことだと思います 〉と言及。」

 国民怨嗟の「村山談話」を、相変わらず誉めています。

 「当時の経緯について〈(敗戦50年の)節目に、けじめをつける意味で、過去の歴史的事実を謙虚に受け止め、平和と民主主義、国際協調を基調とする日本の針路を明確に闡明(せんめい)する必要 〉、があったと振り返った。」

 村山氏は、5年前とそっくり同じ言葉を繰り返しています。

 「歴代内閣が村山談話を踏襲していることを、〈 当然のこと 〉としたうえで、先の大戦について〈 侵略ではないとか、正義の戦争であるとか、植民地解放の戦争だったなどという歴史認識は、全く、受け入れられるはずがないことは、自明の理  〉、と強調した。」

 何の疑問も持たず、小林記者が村山氏のたわごとを、記事にしています。老人となり大分の田舎に引きこもっている村山氏なら仕方がありませんが、現役の記者が日本の置かれた危険な国際環境を知らないと言うのは、どうした訳でしょう。「わが秋津洲の大和魂( たま ) 」はかけらもありません。

 「さらに、「日本の多くの良心的な人々の歴史に対する検証や反省の取り組みを、『自虐史観』などと攻撃する動きもありますが、それらの考えは全く、間違っています」と指摘。」

 「 〈 日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶(おとし)めるのでは、ないでしょうか 〉、と呼びかけた。」

 それとも小林記者は、村山氏の国際政治感覚ゼロを読者に知らせようとしているのでしょうか。褒めてはならないものを無闇に褒めると、結局は相手をおとしめることになるのは、NHKの安達記者の記事で証明済みです。

 「最後に、『村山談話』が、今後の日本、アジア、そして世界の和解、平和、発展に貢献してくれることを期待したいと訴え、〈 アジアの平和と安定の構築のためには、日中両国の、安定的な政治・経済・文化の交流・発展を築いていかねばなりません。その成就を祈るばかりです 〉と締めくくった。(小林豪)」

 この記事を読み終えた時、二つのことを考えました。

  1.   これでは、朝日新聞が倒産しても自業自得だ。

  2.   この記事を総理へ贈る「鎮魂歌」の最後に使い、こう言う愚か者たちが暗殺の風潮を醸成した証明にしたい。

 ということで、無念の死を遂げられた安倍総理への「鎮魂歌」を完成しましたので、捧げます。偶然ですが、国葬の日に出来上がりました。最後まで「ねこ庭」を訪問された方々と、亡国の「談話」についてヒントを頂いた方に感謝いたします。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 38 ( 野坂浩賢 ( こうけん  ) 官房長官 )

2022-09-27 16:40:44 | 徒然の記

 今日は安倍元総理の国葬の日です。午後2時から、日本武道館で行われます。米国からハリス副大統領が出席しますが、EU諸国からは首脳の参加が無しだそうです。国内では依然として賛成反対の意見が分かれ、報道が加熱していますから、外国の首脳も二の足を踏んだのかもしれません。

 エリザベス女王の葬儀は、国民が一つになり女王をお見送りましたが、常に国論が二分している日本はこれから先も当分の間は、こういう状態が続くのだろうと思います。外国に対して恥ずかしいという人もいますが、最近のアメリカも日本に似ています。共和党と民主党が国を二つにして対立していますし、中国もロシアも対外的には一つの国を装っていますが、内部では深刻な対立と紛争の種があるようです。

 国葬に出席しなかったイギリス、フランス、ドイツにしても政情は安定していません。全体主義の国民弾圧国家ではないのですから、さまざまな意見があって当然ですし、日本も国際社会の一員として分断と対立の影響を受けます。日本だけを恥ずかしがることなく、今日は静かに安倍元総理をお送りしようと思います。差し当たって私のするべきは、安倍氏への「鎮魂歌」を完成させることです。

 今回は「村山談話」作成の陰の立役者・野坂浩賢 ( こうけん  ) 官房長官に関する情報を紹介します。氏が生きていたら、国葬反対の一人だったのかもしれません。

 ・1924 ( 大正13 ) 年鳥取県生まれ、2004 ( 平成16 ) 年没 80才

 ・勲一等旭日大綬章受賞

 ・衆議院議員(7期)、建設大臣、内閣官房長官、社会党国対委員長、社会民主党副党首

 概略の経歴で十分な気もしますが、息子たちのためにはそうもなりませんので詳細を紹介します。

 ・1945 ( 昭和20 ) 年に法政大学卒業後、日本通運に入社し米子支店勤務。労働運動に入り、鳥取県総評議長・同事務局長・西部地評議長を歴任

 ・1955 ( 昭和30 ) 年、鳥取県議会議員当選。社会党の地域組織をまとめ、自衛隊美保基地反対闘争を指導

 ・鳥取県警本部・警務部部長亀井静香と、政治的立場を超えて盟友になり、亀井は「あの時、( 野坂と)出会っていなかったら自社さ政権は誕生してなかっただろう。二人の間に政策協定はなかった。野坂と俺が合意すればそれが政策になった。幹事長の森喜朗と副総裁の小渕恵三さんに任されていたから、俺に権力が集中しすぎていた。」と述べた

 男気のある人間同士は、何かの拍子に主義主張を超えて意気投合することがあります。任侠に生きるヤクザものと同じですが、二人もそんな仲だったのでしょうか。

 ・1972 ( 昭和47 ) 年、衆議院選挙に立候補し初当選。以後当選7回(通算)。日本社会党に所属。社会党内の派閥「新生研究会」の代表

 ・この間、党農漁民局長・全日農会長・日本社会党国会対策委員長等歴任。

 ・1994 ( 平成6 ) 年、村山富市の側近、党国対委員長として自社さ連立政権の村山内閣を実現し、建設大臣就任

 ・翌年の内閣改造で、内閣官房長官に横滑り。1955年以降、自民党在籍記録が無い官房長官は五十嵐広三と二人だけである

 ・1996 ( 平成8) 年、日本社会党の社会民主党への新党移行により、同党副党首・国会対策委員長に就任。同年の選挙には出馬せず、政界を引退

  氏は部落解放運動とも深く関わり、「人権擁護施策推進法」制定への道筋を作ったことでも知られているようです。氏の秘書だった松原和範氏の話を紹介します。

 「野坂は解放運動をやっていたから、部落解放基本法を作るかどうかをめぐって、野中広務さんと地下水脈でつき合いがあったんです。」

 「自社さ政権の絵を描いて、それを実行したのが亀井静香さんなら、野中さんは裏の掃除役。」

 「他の派閥は個人プレーで動いていたのに、旧竹下派は反小沢一郎で結集し、自社連立のため組織的な動きをしていましたから、その意味でも野中さんは、野坂のカンターパートとして重要な存在だったのです。」

 「政界の壊し屋」の小沢氏は、政争ばかりで役に立たず、疫病神みたいなものでしたから彼を外すため自社の共闘が生まれたと、以前「ねこ庭」で紹介しました。松原氏の話は、それと符合しますので事実だと思います。結局野坂氏については、「人生意気に感ず」という男気の人物としてしか印象が生まれません。

 利害損得を計算する五十嵐氏と違い、一度気に入ったら相手を裏切らず、とことんつきあう人間として「村山談話」に関わったのかもしれません。こういう人物がいて、汗をかき、亡国の「村山談話」が生まれたということになります。自分で考えたように村山氏が語るのもどうかと思いますが、国民にはそう言うしかありません。

 安倍元総理の葬儀が、日本武道館で始まりました。テレビの報道は後で見ることにして、私は氏へ贈る「鎮魂歌」の完成を急ぎます。最後は倒産間近の反日朝日新聞の関連会社、「朝日ジャーナル」の記事の紹介です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 37 ( 五十嵐氏の人となり )

2022-09-26 20:14:46 | 徒然の記

   「 5.  地方自治」      「 6.  ソビエト連邦との秘密協定問題」 

  「 7.  北方ジャーナル事件」  「 8.  選択的夫婦別姓制度」

 少し先へ進みたいので、「 5.  地方自治」を省略し次へいきます。

  〈 6.  ソビエト連邦との秘密協定問題 〉

   ・1967 ( 昭和42 ) 年、五十嵐は旭川市長時に、本来日本では所属未定地であるはずの、サハリン州ユジノサハリンスク市と旭川市を姉妹都市にした。
 ・ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、1975 ( 昭和50 ) 年の五十嵐の北海道知事選挙出馬時には、社会党の北海道本部長(当時)の関田伸男からソ連大使館への最大1億5千万円の秘密の選挙資金援助の要請があった(資金援助が実際に行われたかは不明)などのソ連との秘密交渉が明らかにされた。

 当時の日本共産党は宮本委員長がチェコスロバキアへ侵攻したソ連を強く批判したこともあり、対立状態にありました。秘密文書の真偽について深入りは避けますが、社会党が共産党に代わり、ソ連と親密な関係にあったことをこの文書が教えてくれます。事実だとすれば、1億5千万円の秘密選挙資金援助の要請をし、五十嵐氏は何をしようとしていたのでしょう。

 次の「 7.  北方ジャーナル事件」も、中身には深入りしません。氏がどのような人物であったのかを知る一つの資料として紹介します。『北方ジャーナル』は、昭和47年(1972)に札幌で誕生した月刊雑誌です。いわゆる地元政経誌のジャンルに分類される媒体ですが、生活者の視点と取材を重視する編集方針だと言い、現在も存在しています。『ウィキペディア』の説明は簡単です。

  〈 7.  北方ジャーナル事件 〉

   ・1979 ( 昭和54 ) 年の北海道知事選挙に、五十嵐が立候補した時『北方ジャーナル』に中傷記事を書かれそうになった。

   ・同誌の出版前に、「差し止めを」裁判所に申請し認められた。事件は「表現の自由」をめぐる判例として著名である。

 簡単な説明ですが、別途調べますと詳しい情報がありましたので紹介します。

 「元旭川市長の被告は、昭和54年の北海道知事選挙に立候補を予定していたが、原告(出版社)の発行する雑誌『北方ジャーナル』が、2月23日に発売を予定していた4月号に、「ある権力主義者の誘惑」というタイトルの記事があり、記事の全体にわたって被告の名誉を毀損する記載があることを知った。」

 「具体的には、被告について〈 嘘と、ハッタリと、カンニングの巧みな少年 〉〈 言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売っている(政治的な)大道ヤシ 〉〈 ゴキブリ共 〉などと書かれ、さらに被告の私事についても触れ、結論としては被告が北海道知事として相応しくないという記述がされていた。」

 五十嵐氏は地裁、高裁、最高裁と争いを続け、最終的に勝訴しました。裁判の内容が目的でなく、『北方ジャーナル』の記事が氏の一面を語っていることを紹介するだけですから、最後の項目へ進みます。

  〈 8.  選択的夫婦別姓制度 〉

 『ウィキペディア』の説明は、さらに簡単です。

   ・五十嵐は、選択的夫婦別姓制度導入に賛同。

 私を含め保守の人々は、日本の家族制度を崩壊させるとして反対していますが、反日左翼の人間は個人の権利と自由を優先しますから、「夫婦別性」に賛成します。「goo事務局のコメント」を意識した訳ではありませんが、以上五十嵐官房長官に関する情報をざっと紹介しました。

 結論として言えるのは、氏のような主義主張の持ち主なら、NHK解説委員の安達氏が語る通り「村山談話の陰の立役者」に相応しいということです。次回は、もう一人の立役者野坂浩賢氏に関する情報を紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 36 ( goo事務局の「コメント」 )

2022-09-26 14:00:49 | 徒然の記

 ブログが横道へ入り込みましたので、息子たちのためにも、自分のためにも、この長い安倍氏への「鎮魂歌」の現在位置を確認しようと思います。

 最初は過去に出された「官房長官談話」と歴代「総理談話」に関する情報を紹介しました。次にこれらの「談話」をマスコミがどのように伝えたのか、関連する情報を紹介して来ました。

 関連情報の中に、NHK解説委員の安達氏が、村山談話を作った陰の功労者だという二人の官房長官の裏話を披露しました。五十嵐広三、野坂浩賢両氏です。現在五十嵐広三氏の関連情報を紹介することにより、氏がどのような人物だったのかを知ろうと、氏が掲げていた8つの政策の3項目の紹介が終わり、あと下記5項目が残っている・・・というところにいます。

   「 4.  在日韓国人政治犯解放問題」       「 5.  地方自治」 

         「 6.  ソビエト連邦との秘密協定問題」 「 7.    北方ジャーナル事件」 

         「 8.  選択的夫婦別姓制度」

 以前からあったのに気づかなかったのか、今回が初めてなのか、画面の下にgoo事務局の「コメント」がありました。

 「過去1週間以内に、74件のトラッカーによるプロファイリングが阻止されました。」

 何のことが分からないので、調べてみますと、トラッカーとは膨大な情報を追跡・分析し、犯罪者の心理分析をする者と説明されていました。「ねこ庭」の記事を追跡しているトラッカーは、個人でなく会社(組織)名で、この会社(組織)のオーナーは、google、Facebook、yahoo、amazonなどとなっていました。

 goo事務局のコメントを調べてみますと、190件のトラッカーの記録がありました。これは私の推測に過ぎませんが、「 6つの談話 」 検証のブログ開始以来の記録であるような気がします。

 私のブログが、誰かにとっては「犯罪的」に見えるのかも知れませんが、不思議なことがあるものです。まことに唐突な話になりますが、「ねこ庭」を訪問される方々に、ご報告とお願いをすることとします。

 皆様が訪問されなくなると、淋しくなりますが、ご迷惑をおかけするようになってはと心配なので、今後はコメントと「応援マーク」を入れず、読むだけにして頂ければと思います。

 経験者の方がいて、そんなものは心配することはないよ、と言われるのなら教えて頂ければ有り難いと思います。私個人にしてみれば、安倍総理が戦っていた相手はやはり大きな勢力だったと敬意の念を新たにし、「鎮魂歌」を完成したいと思うだけなので本題に戻ります。

  〈 4.  在日韓国人政治犯解放問題 〉

   ・1989 ( 平成元年  ) 五十嵐は、在日韓国人政治犯29名の釈放の要望書に署名した。
   ・この中には、北朝鮮による日本人拉致の実行犯である辛光洙 ( シン・ガンス  ) を始めとする、北朝鮮スパイ容疑者19名が含まれていた。

 令和2年の8月に、別件でこの話を「ねこ庭」で取り上げていましたので、該当の部分だけを転記します。

 「事件当時、まだ二大政党の一角にいた社会党と、社民連が、「拉致問題」を頭から否定し、北朝鮮を誹謗する捏造だと反論していました。日本人拉致の中心人物だった、北の工作員・辛光洙(シン・ガンス) が韓国で逮捕され、死刑判決を受けた時、野党議員の多くが韓国政府に、「助命嘆願書」を送っています。総理大臣になった、菅直人氏もその一人です。」

 つまり五十嵐氏は、菅直人氏と共に「助命嘆願書」に署名していたということです。こういう人物なら、「村山談話」の陰の立役者になれそうです。参考までに、辛光洙の略歴を『ウイキペディア』の情報から紹介します。

  ・辛 光洙は、韓国の政治犯。日本人拉致に関わった北朝鮮の工作員。通称「坂本」

  ・1978 ( 昭和53 ) 年、福井県に住む若い男女・地村保志と妻の富貴恵を拉致した実行犯

  ・1980 ( 昭和55 ) 年には、原敕晁を拉致して彼の戸籍を横領し、「原敕晁」名義の運転免許証や旅券を取得して彼になりすまし、日本や韓国で工作活動をつづけた。

  ・生年月日 1929年6月27日 (年齢 93歳)

  ・出生地: 静岡県
  ・学 歴: 富山県立高岡工芸高等学校、高岡市立下関小学校
 
  ・出身校  ブカレスト工科大学機械学部
 
 次回も、興味のある方は「ねこ庭」へお越しください。何もせず、読むだけにしてください。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 35 ( 『ニューズウィーク』 誌の情報 )

2022-09-25 21:09:56 | 徒然の記

 今回は『ウィキペディア』でなく、アメリカの週刊誌『ニューズウィーク』( 日本語版  ) の2020 (  令和2 ) 年6月2日号の記事を紹介します。同社は主に政治や社会情勢などを扱う週刊誌で、ニューヨークに本社があります。

 長い表題がついていますが、そのまま紹介します。

 < 支援者の寄付金を不正に流用してきた──だけではない。いま韓国で、正義連(前身は挺対協)が内紛と不正運営疑惑に揺れている。衝撃の暴露があぶり出す神聖化された組織の深い闇とは >

 「挺対協」は日本への攻撃だけでなく、気に入らなければ韓国政府も攻撃し、国連でも日本の反日NPO と連携して、世界中をかき回す団体ですから、不祥事となれば米国の週刊誌もトップニュースの扱いです。コメントを入れる必要がないほど、詳細で分かりやすく書かれています。 

 「慰安婦問題は、今も日韓の重要外交課題の1つだ。その解決のために両政府が試みた数々の政策に対して、強大な影響力を行使してきた韓国の慰安婦支援団体が最近、内紛と不正運営疑惑に揺れている。」

 「事の発端は、元慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)による突然の告発だった。自分を含む元慰安婦たちを支援してきた「日本軍性奴隷問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)による寄付金の使途が著しく不透明で、かつ自らはその恩恵を受けていないと、団体のトップだった尹美香(ユン・ミヒャン)に反旗を翻したのだ。」

 面白いことに米国の週刊誌が取り上げているように、日本のマスコミは大きく報道していません。私は千葉日報の小さな記事で、動きを知っただけでしたので、同社の記事をありがたく思いました。

 「この暴露を契機に正義連の不正疑惑が次々と明らかになっている。」

 ・数百万円相当の寄付金を、1日でレストランでの飲食に使ったと過度に粉飾して帳簿に記載

 ・「元慰安婦の憩いの場」として購入した不動産物件は、当初の目的で使われることがほぼなかったのに、管理費として尹の父親に数年間で約650万円が支払われた

 ・「正義連」発足後も、前身の韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が以前の名義で政府から補助金を受けていた

 「元慰安婦の支援を目的とした一介の市民団体に、なぜこれほどの不正会計や横領の疑惑が持ち上がったのか。事実だとすれば、それを可能にした要因は何だったのか。腐敗の構造を探ると、カネと権力とワンマン体制を備えた「政治団体」の輪郭が浮かび上がってくる。」

 余計なコメントをするより、記事をそのまま紹介する方が息子たちにも、「ねこ庭」を訪問される方々にも正確に伝わりますので、しばらく紹介を続けます。

 「不正会計疑惑が起きた1つの要因は、市民団体を含む非営利法人に対する韓国の緩い会計制度だ。」

 「韓国・寄付文化研究所の資料によれば、非営利法人に関する韓国の法制度は〈後進国レベル〉で、〈30〜50年前の法律が適用されている〉。公益法人会計基準が2年前にようやく制定されたが、なぜか寄付金で運営される非営利法人は、情報の公開義務や外部監査の対象から外れる団体が多い。そのため、寄付金の使途を詳細に把握できないことがある。」

 「非営利法人の会計に詳しい公認会計士の崔浩潤(チェ・ホンユン)は、〈国税庁のウェブサイトに公開される非営利法人の年間の予算書や決算書は、一部でしかない〉と話す。寄付者はそれが全てだと思っているだろうが、そうではない」

 「一方、正義連の呉性希(オ・ソンヒ)人権連帯処長は、不正会計疑惑をこう釈明する。」

 「韓国の非営利法人の労働環境はどこも劣悪だが、私たちは(保守勢力から)名誉毀損で訴えられたりして業務が増える。そうした状況で人手不足も相まって、会計ミスがあったことは認める。」

 「〈会計ミス〉だけで全ての疑惑が説明できるかは、家宅捜索に入った検察が明らかにするだろう。ただ、問題は会計制度だけではない。正義連とその前身の挺対協が、その強大な政治力ゆえに活動や存在が聖域化したことが背景にある、との指摘がある。」

 「昨年、著書『反日種族主義』で一躍脚光を浴びた韓国の李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大学教授は、5月11日、新著の出版記者会見で、〈挺対協の運動は神聖不可侵の権威として君臨してきた〉と語った。実際挺対協は、過去にはその政治力を遺憾なく発揮し、日韓の慰安婦政策に介入してきた。」

 長い記事の紹介になりますが、我慢して読んでいただきたいと思います。大事なことは〈挺対協〉の乱脈不正だけでなく、この団体と密接に提携し、反日攻撃をして来た日本のNPO団体の存在です。

 「1991 ( 平成3  ) 年に、慰安婦が日韓の外交問題化してから8年後の1999 ( 平成11  ) 年、未来志向を掲げた金大中(キム・デジュン)政権が発足。そのリベラルな姿勢で日本との外交関係を改善した金には、慰安婦問題の解決にも大きな期待が寄せられたが、結局何も成し遂げられなかった。」

 「挺対協ら女性市民団体が、歴代大統領夫人と強いパイプを持ち、金大中のファーストレディーだった李姫鎬(イ・ヒホ)もその「圧力」から自由になれず、夫も影響を受けたからだとされる。」

 「1995 ( 平成7  ) 年、挺対協は日本の民間人から、元慰安婦らに対する償い金を募った「アジア女性基金」にも深く関与する。基金に反対の立場だった挺対協を含む女性団体は、償い金を受け取った元慰安婦らを激しくバッシングし、この事業を頓挫させた。」

 「そもそも挺対協をはじめとする女性団体は、反日組織ではない。戦争における女性に対する犯罪の解決という、より大きな目的を掲げた活動団体だ。ベトナム戦争で韓国軍兵士が現地人女性を性的に蹂躙した問題に対しても強烈な批判を続けている。韓国の保守層から敵対的にみられるのはそれ故だ。」

 「ただ〈女性の権利〉を掲げ、大統領でさえ抑制の利かない不可侵な存在になれば、監視の目は緩む。本人たちの意識も変わる。」

 「こうした批判に対して正義連の呉は、〈全く違う。私たちは(リベラル政権だった)盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代でも、元慰安婦のための保護施設を探すのに苦労した〉と、その影響力を否定する。」

 「だが、2015 ( 平成27 ) 年に締結された慰安婦をめぐる日韓合意が、文在寅(ムン・ジェイン)政権誕生後に「破棄」された背後にも、挺対協の影響力があった。(そもそも挺対協が「正義記憶財団」と統合したのは発言力を高めて日韓合意に対抗するためで、2018( 平成30  )年1月に尹は、大統領府に招かれている)。挺対協自身に認識がなくとも、結果的に韓国政府の外交に多大な影響を及ぼしている。」

 「腐敗の構造」を埋める最後のピースは尹の支配欲かもしれない。」

 「興味深いのは、今回この問題を指摘したのが正義連の「スポークスマン」とも言える左派系の、ハンギョレ新聞だったことだ。」

 「5月18日付の記事で、ハンギョレは尹の団体運営手法を辛辣に批判している。山奥に住む元慰安婦にわざわざ会いに行った、挺対協発足当時の尹の労苦をいたわりつつも、いつしか組織を占有し〈事実上の丼勘定で運営してきた〉と指摘。さらに〈他人を信頼しておらず、情報も共有していない〉など、尹のワンマン体制を暴露した内部関係者の話も伝えた。」

 「元慰安婦の李が、このタイミングで尹に反旗を翻したのは、尹が4月の総選挙で国会議員に当選したことが引き金になったとの見方がある。不正会計や情報隠蔽に耐えていた李が、尹の選挙に「利用された」と憤慨したからだ。」

 「日本からの援助を優先するため、慰安婦問題は朴正煕(パク・チョンヒ)の軍事政権時代には伏せられていた。いわば韓国政治の闇だが、それが明るみに出たのは1987 ( 昭和62  ) 年の民主化後、鬱憤に耐えられず声を上げた元慰安婦たちの告発によってだった。」

 「そして今度は、彼女たちを支援してきたはずの尹が、不正で権力を手にしたと元慰安婦に告発される──。まさに歴史は繰り返す、だ。」

 ほぼ全文を紹介しましたが、私が違和感を覚えるのは次の叙述です。

 「そもそも挺対協をはじめとする女性団体は、反日組織ではない。戦争における女性に対する犯罪の解決という、より大きな目的を掲げた活動団体だ。ベトナム戦争で韓国軍兵士が現地人女性を性的に蹂躙した問題に対しても強烈な批判を続けている。韓国の保守層から敵対的にみられるのはそれ故だ。」

 『ニューズウィーク』は、〈挺対協〉の不正経理について批判していますが、「慰安婦」そのものについては否定していません。疑問も呈していません。〈挺対協〉は間違いなく過激な反日団体ですが、その認識はなく、認識の必要も感じていません。同団体がベトナム戦争時の「ライダイハン」事件を強烈に批判していたとは、聞いたことがありません。

 もし『ニューズウィーク』の報道が正しいとするなら、日本のマスコミはこの事実を日本国民に正しく伝えていなかったことになります。そうだとすれば、口の悪い人が言う通りわが国のテレビと新聞は、文字通り「反日の腐れマスコミ」となりますが、果たしてどうなのでしょうか。

 この疑問も含めて、安倍総理への「鎮魂歌」です。いかに大きな反対勢力と戦い、戦いの半ばで凶弾に倒れたかと知る人が増えます。次回はまた、本題に戻りますが、短気な方は遠慮なくスルーしてください。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 34 ( 「女性のためのアジア平和基金」 )

2022-09-25 17:05:29 | 徒然の記

 自分のブログの位置を忘れないため、残りの「政策」を書いておくことにします。

   「 4.  在日韓国人政治犯解放問題」       「 5.  地方自治」 

         「 6.  ソビエト連邦との秘密協定問題」 「 7.    北方ジャーナル事件」 

         「 8.  選択的夫婦別姓制度」

 

  〈  3.  女性のためのアジア平和国民基金 〉

・村山政権下において、1995 ( 平成7 ) 年6月14日に官房長官であった五十嵐は、「女性のためのアジア平和基金」について声明を発表する

   ・日本の「戦後責任」や「歴史認識の問題」について、抵抗する自民党右派の圧力を乗り越えて、自民党の原文兵衛と共に活動した。

   ・サハリン問題の解決と、アジア女性基金を作り、最低限の償いを実現することができた。

   ・当時村山政権下であったことも大きいが、原文兵衛が他党の議員である五十嵐を、全面的に信頼していたことも大きい。

 ここでまた、原文兵衛氏という新しい人物が登場しました。「女性のためのアジア平和国民基金」と共に、別途調べてみましたので紹介します。

 〈 原文兵衛氏 〉

  ・1913(大正2年)生まれ、1999( 平成11年)逝去。

  ・内務官僚、政治家、勲等は勲一等旭日桐花大綬章

  ・参議院議長、環境庁長官、自由民主党参議院議員会長、女性のためのアジア平和国民基金・理事長

 原氏は警視総監も務めていた人物で、なぜこうした活動をするようになったのか興味がありますが、検討範囲を広げないためここで終わり、「女性のためのアジア平和国民基金」について調べました。

 〈「女性のためのアジア平和国民基金」 〉

  ・1995 ( 平成7 ) 年7月に設立された財団法人。日本政府からの出資金と、国内外からの募金によって運営

  ・2007 ( 平成19 ) 年3月に、すべての償い事業が終了したため解散した。

 この基金は、河野談話が出された1993 ( 平成5 ) 年に作られたと思っていましたが、勘違いだったようです。良い機会なので情報を再確認し、整理します。

  ・基金は、自社さ連立政権の村山内閣成立後に発足し、総理府と外務省の共管法人として設立許可された。

  ・『慰安婦問題調査報告書・1999』や、慰安婦関係政府公文書を集積した資料集を出版。

  ・大韓民国・台湾・フィリビン等の元慰安婦を主張した女性たちに、日本国民から集めた「償い金」をこの時の総理小泉純一郎の手紙と共に届けた。

  ・当初の略称は「国民基金」で、後に「アジア女性基金」となった。日本社会党の基本案が、民間から募金を集める民間基金であったためである。

  ・元慰安婦への支払金の名称も、当初は「見舞金」だったがその後「償い金」と変わった。

  ・韓国以外では「カネに目がくらんで心を売った」「売春」「公娼」との受給者へのバッシングが起こらず成功した。

  ・韓国では存在基盤を失うために、問題の解決を望まない「挺対協」が反対運動を起こし、慰安婦らにお金を受け取らないように圧迫した。

 「挺対協」についても、『ウィキペディア』の情報を紹介します。

 〈「挺対協」の正式名称は、「韓国挺身隊問題対策協議会」と言い、大韓民国の慰安婦関連最大の市民団体です。1990 ( 平成2 )年から活動していましたが、2016 ( 平成28 )年に設立した、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶財団」と組織統合し、2018( 平成30 )年7月に現在の名称「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」に改名した。〉

 統一教会同様に、突然名称を変更する団体は多くの場合陰があります。今は「挺対協」とキーボードを叩いても、検索できないようになっていますが、色々工夫して陰の部分を探しましたので、次回に紹介します。

 日本を愛する日本人にとって、この団体は「慰安婦像」と共に忘れることのできない組織ですから、次回の「ねこ庭」にはぜひ足をお運びください。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 33 ( 五十嵐氏 の政策紹介)

2022-09-25 12:32:32 | 徒然の記

 五十嵐氏の8項目の政策を、順番に紹介していきます。ずいぶん横道へ踏み込んでいる感がありますが、これらはすべて安倍総理へ贈る「鎮魂歌」一部です。

 〈 2 . サハリン残留韓国・朝鮮人問題への取り組み 〉

・サハリンでは、戦中に日本国籍を持つコリアンが、出稼ぎや徴用により移住していた
・1987 ( 昭和62  ) に、「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」が立ち上がった。
・発足前から積極的に立ち上げに尽力した自由民主党の原文兵衛を会長とし、五十嵐は事務局長となり、原とともに問題の解決に奔走した。
 以上『ウィキペディア(Wikipedia)』の情報ですが、私はこの問題について全く知りませんので、別途調べました。情報は複数ありましたが、一番客観的と思えるを『ウィキペディア』をこのまま使います。まず、言葉の説明です。

 「〈サハリン残留韓国、朝鮮人〉とは、1945 ( 昭和20  ) 年8月のソ連の武力侵攻によって、占領・支配された南樺太(サハリン南部) に、ソ連の労働力として残留させられた朝鮮民族のことである。」

 「在樺朝鮮人、在樺韓国人、サハリン残留朝鮮人、サハリン残留韓国人とも呼ばれる。」

 戦後朝鮮が二つの独立国になり、日本が朝鮮人の日本国籍を放棄しましたので、必然的にこれらの人々は、日本国籍を失いました。北朝鮮籍にするか、韓国籍にするかを彼らが迷ったこと、共産党を嫌い韓国籍を希望しても韓国政府が受け入れを拒否したことなど、在日コリアンの人々と同じ問題が生じています。

 いまもわが国では在日コリアンの一部の人々が騒ぎ、問題を引きずっていますが、サハリンの場合は国交のないソ連、韓国、北朝鮮、日本の関係が錯綜し、帰国が簡単に進まなかった事情がありました。この不幸な朝鮮人のため、五十嵐氏が活動したということですが、『ウィキペディア(Wikipedia)』の情報によりますと、別の意味もあったようです。真偽の程は分かりませんので、参考情報として紹介だけしておきます。

 〈 参考情報 1. 〉

  ・1956 ( 昭和31  ) 年の日ソ国交正常化後、樺太から引揚げ日本に住んでいた在日朝鮮人朴魯学]と堀江和子の夫妻が、1958 ( 昭和33  ) 年頃から、樺太に残った残留朝鮮人帰還運動に取り組んでいた。

  ・1975 ( 昭和50  ) 年12月、高木健一を初めとする弁護士らが、日本人と同じく出稼ぎや徴用によって樺太に来歴した在樺コリアンを、「日本の強制連行が原因」と突然主張しはじめた。

  ・彼らが、4人の在樺コリアンを原告とする「樺太残留者帰還請求訴訟」を起こしたことで、この問題は政治的な色彩を帯びていった。

  ・善意の民間人として帰還支援していた新井佐和子や朴魯学夫婦は、裁判を支援した日弁連、日教組、自治労、日本社会党などの進歩的文化人、市民団体や総評系労働組合が、反日本政府のための政治運動に変質させ、政治利用したことを強く批判している

 〈 参考情報 2. 〉

  ・1987 ( 昭和62  ) 年、日本社会党の五十嵐広三議員が中心となり「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」を作った。

  ・これにより人道的な支援事業として、外務省で予算化されることとなり、毎年1億円程度の予算がついた。

  ・1994 ( 平成6 ) 年の村山内閣で、社会党が予算編成に関わって以降大幅に予算が増額された。これにより2007年度には「在サハリン『韓国人』支援」名目で3億円の予算が計上され、2007年までに政府が拠出してきた金額は70億円に達した。

  ・支援の内容としては、紹介

    韓国への永住希望者が住む、家賃無料のアパートの建築費

    病弱者を対象とした、療養院に対する建設費やヘルパー代

    永住帰国はしないが、韓国へ一時帰国を希望する人々の往復渡航費と滞在費の負担、

    2006年、樺太に留まる韓国国籍の者のみのため、「サハリン韓国文化センター」建設

 マスコミがとほとんど伝えないので、初めて知りましたが、支援団体の構成などは「慰安婦問題」とよく似ています。日本は韓国人に何もしていないと、韓国政府と活動家たちが批判していますが、決してそうでない事実を教えられました。

 要するに五十嵐氏は、こういう活動を率先して行っていたということです。次回は、「女性のためのアジア平和国民基金」について紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 6つの談話 」 検証 - 32 ( 辣腕官房長官、五十嵐広三氏の経歴 )

2022-09-24 21:33:21 | 徒然の記

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータを、紹介します。

 1. 生い立ち

  ・昭和元年生まれ。昭和16年旭川愛別村立・愛山国民学校の助教として勤務 

  ・その後陸軍第7師団に入営していたが、昭和20年戦争が終結

  ・昭和28年民芸品販売店を開き、ほっかい民芸舎の理事長、北海道民芸品の社長

  ・以来実業家として、雑穀商、民芸会社、地方新聞社などを手広く経営

 2. 地方政界

  ・昭和38年、37歳で日本社会党から旭川市長選に立候補して当選。全国最年少首長

  ・アイディア市長として全国に知られ、3期12年の市長在任中には日本初の恒久的な歩行者天国の開設、旭山動物園の開業などを実現

  ・地元の財界と協力し、北海道東海大学や旭川医科大学の誘致に成功

  ・旭川市長辞職後、2度にわたり北海道知事選挙に立候補するも、保守系現職に敗北

 3. 国政

  ・昭和55年、衆議院議員選挙に日本社会党より出馬し初当選、以後通算当選5回

  ・平成5年、細川内閣に建設大臣として初入閣。

  ・平成6年、村山内閣の内閣官房長官として再入閣。

  ・自社さ連立政権を支え、戦後処理問題や地方分権の推進に取り組む

 ここまでは普通の政治家の経歴と思いますが、次の4. 政策で辣腕政治家の姿が見えてきます。氏はなぜ、反日左翼政治家となったのか。なぜ村山総理に、「東京裁判史観」を語らせたのか。この中に答えがある気がします。

 4. 政策 ・・下記 8項目があります。

  「アイヌ問題」 「サハリン在留韓国・朝鮮人問題」  「女性のためのアジア平和国民基金」

  「在日韓国人政治犯解放問題」 「地方自治」 「ソビエト連邦との秘密協定問題」

  「北方ジャーナル事件」 「選択的夫婦別姓制度」

 共産党は「暴力革命路線」を捨て、中国共産党と冷えた関係になっていますが、旧社会党の流れを汲む立憲民主党の関連組織には、親中・左翼過激派団体がいます。「広島原爆祈念式典」や「国葬反対」で騒いでいるのは彼らで、現在につながっています。スペースの関係でどうなるのか分かりませんが、『ウィキペディア(Wikipedia)』の説明を、順番に紹介したいと思います。

 〈 1.  アイヌ問題 〉

  ・旭川市長時代から氏はアイヌ問題に関心を持っており、政府に対する働きかけを行っていた
  ・衆議院議員となってからもアイヌ文化振興法の制定を推進した
  ・萱野茂に国政に挑戦するよう勧め、アイヌ初の国会議員の誕生に尽力した

 室町時代に北海道へ移住して来たアイヌ人が、北海道の先住民だったとする「アイヌ新法」は学問的に間違っていると思いますが、アイヌ人差別問題についてはあったとする説、なかったとする説、いずれが正しいのか私には判断ができません。五十嵐氏がどういう立場で取り組んでいたのか、『ウィキペディア』の情報はそこまで書いていません。

 私が感じているのは、明治時代の指導者たちが持っていた、「朝鮮問題」と共通する姿勢です。簡単な言葉で言いますと、「小さな親切、大きなお世話」ということになります。

 未開状態の劣った民族であるから、日本人と同じように扱い、日本人にしてしまうことが彼らの幸福に繋がるという、勘違いです。明治時代の指導者たちは、朝鮮人にもアイヌ人にも、「同化政策」を進めていましたから、ボタンの掛け違いの始まりをここに見ます。

 「同化政策」を受ける側にすれば、民族の文化や伝統を否定されることですから、怒りや憎しみを生みます。もし政府が謝罪するとしたら、武力による侵略でなくよけいなおせっかいだった「同化政策」でないかと思っています。しかしここでは不明点は不明のままとし、五十嵐氏の活動の一つとして紹介するにとどめておきます。

 次回以降、「 2.  サハリン在留韓国・朝鮮人問題」、「3.  女性のためのアジア平和国民基金」と、順次情報を紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする