ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

終戦記念日

2011-08-17 16:49:20 | 徒然の記
 毎年8月15日になると、新聞やテレビが「終戦記念日」の特集をする。

 「平和への祈り」「不戦の誓い」などという見出しで、戦争を否定する記事や画面が全国に流される。こうしたものが恒例行事として行われる不自然さに対し、誰も異論を唱えないことに最近疑問を覚えて来た。先ず第一に、日本にとって第二次世界大戦は負けた戦争であること。それをいつまでも「敗戦」と言わず「終戦」と表現するところから、間違いが始まる。新聞やテレビが「終戦」という曖昧な言葉を使うから、私たちの戦争への反省や誓いが中途半端なものになる。

 「平和への祈り」や「不戦の誓い」を本気で浸透させようと言うのなら、マスコミにはもっと事実と向き合う勇気が求められる。「社会の良識」「社会の木鐸」「不偏不党」「客観主義」を標榜しながら、あたかも先の大戦での犠牲者は日本国民ばかりだったとするような報道姿勢から改めなくてならない。被害の面からだけ戦争を眺めれば、確かに「終戦記念日」の特集のようになる。つまり平和を願う日本人がやむなく戦争をし、多くの犠牲を払い、涙と苦しみの戦争を憎み、世代を超えた不戦の誓いをつなごうとしていると。

 欧米諸国やソ連に対しては犠牲者としての日本人の姿があるとしても、戦場となった中国や韓国、その他のアジア諸国から見れば、加害者としての日本があるのだということをもっと私たちは知らなくてならず、語られなければならない。マスコミは勿論、学校でもほとんど戦争の事実を伝えなかったため、私たち国民の多くは加害者としての意識を共有していない。それは本当は、誠に奇妙な、不思議な、歪んだ状況なのだ。中国や韓国、北朝鮮の日本に対する反感や憎悪には我慢のならないものがあるが、もしかするとこうした一面だけの報道に終始するマスコミや政府、そしてこれを黙認する私たち国民の姿勢に原因があるのかもしれない。

 無謀と言われる戦争へ日本が突き進んだ背景には、それ相応の状況があったのだが、否応無しに戦場となったアジアの国々からみれば、日本は許せない存在だったに違いない。日本は自国の戦争なのに、戦場を中国のみならずビルマ、タイ、インドネシア、フィリピンへと拡大し、破壊と殺戮を行ったのだから、これらの国から嫌われ憎まれて当然なのだ。だから私は、もうここいらで「終戦」という無機質な表現を捨て、「敗戦」という事実に即した言葉に戻すべきだと痛感する。

 そもそも「記念日」という言葉で飾ろうとするから、敗戦でなく終戦にしないと収まりがつかなくなる。味気なく、剥き出しの表現だとしても、8月15日は「敗戦の日」とするのが正しい。日本人が被害者であったとともに、加害者でもあった悲惨な戦争ということになれば、繰り返してならないものとしてもっと真剣な検証と反省が生まれるはずだし、その方が日本の将来のためになる。偏狭な愛国者にはやれないことだし、頑迷な左翼主義者にもやれないことだ。事実に立ち向かうには本当に勇気がいる。だから勇気のないマスコミは敗戦後何年経っても、一社たりとてこうした率直な意見に耳を傾けようとしない。

 戦前において、日本は確かに欧米列強やロシアから対等な扱いを受けていなかった。敗戦間際には、都市への無差別攻撃を連日受け、原爆を二度も投下され、捕虜になった65万人の兵士たちは極寒のシベリアで強制労働をさせられた。アメリカでは11万人の日系人たちが荒野のバラックに強制移住させられ、まるで罪人のように監視された。人種差別と言う言葉の嫌いなマスコミは言及を避けるが、冷静な目でみれば、白人同士なら実行されないだろうと思われるあしらいを日本人は受けていたのだ。

 けれども私たちは、いまの中国や韓国・北朝鮮が日本に対してするように欧米諸国を憎悪していない。一部の人々がアメリカやイギリスなどの当時の悪行を攻撃しているが、日本国民の多数意見とならず、激しいデモや意思表示の対象ともならない。お人好しの日本人と低く見られる向きがあるとしても、私はこれこそが日本人の素晴らしさでないかと思えてならない。古い過去にいつまでも拘泥せず、未来のためなら何でも受け入れる懐の深さと寛容さ、柔軟さ、あるいは無節操。どこの国の誰が見習えるというのか。

 だからこそ、くどくなっても言いたい。私たちはここいらで「終戦」という実態のない文字を捨て、「敗戦」という事実に即した本来の言葉を使うべきだ。日本の新しい明日が、その「敗戦の日」から始まると。
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