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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

米軍基地の費用負担問題

2012-02-21 19:27:04 | 徒然の記

 グアムへの基地移転費用の日本負担を、米国が減らそうとしない。

 沖縄基地の機能分担を岩国へ求め、その費用についても日本に要求していると、新聞が報道している。政府がどういう交渉をしているのか、内容を知らされず、要求される負担ばかりについて書かれると、威丈高で押しつけがましいアメリカの姿がいやでも浮かんで来る。

 世界一の強国であるアメリカは、武力と経済力を背景に、最近の中国以上に我がまま勝手な国である。気に入らなければ軍事力で、他国の政府や権力者を倒してしまうことも躊躇しない。そういうアメリカの横暴さを知りながら、わが国の新聞報道に私は、拭えない不公正さを感じる。

  ・アメリカの軍事力に頼りきり、自分の国を守らないから米国の基地があるのだという事実。

  ・日米安保条約に基づく基地が、日本国内に約130ヶ所あるという事実

  ・基地の維持には、巨額の費用がかかるという事実。

  ・自国防衛の軍備にかける資金を戦後の復興に振り向けたから、日本が世界第二と言われる経済大国になったという事実。

  ・世界唯一の平和憲法と日本人は胸を張っているが、血を流す覚悟で日本のシーレーンを守っているのは、アメリカだという事実

 日本にある米軍基地は日本のためにだけある訳でないとしても、アメリカが負担している巨額の費用とリスクについて,マスコミは今少し詳しく報道すべきではないのだろうか。

 米国の要求する費用が、百億円、千億円になっても政府が黙っているのは、その方が安くつくという計算もあると、吉田茂氏の著書『日本を決定した百年』を読むと、こうした推測も成り立つ。

 もっと簡単に言えば、自分の国は自分で守るからアメリカの基地は不要だと、日本が宣言し実行すれば基地はなくなってしまうはずだ。それを出来なくしているのが「日本国憲法」だ。

 「戦争をしてはならない」

 「人殺しをしてはならない」

 「再び息子たちを戦場に送ってはならない」

 こうしたスローガンは素晴らしいが、戦争の火種は今世界の各地にあり、実際に殺し合いをしている。平和を希求する人類のはずなのに、思想や宗教の違いで紛争を起こし、国益というエゴがぶつかり合う。

 日本だけが戦争を否定し、軍備を全廃したところで、世界が平和になるわけではない。無防備な国は侵略され、力の強い国に併合されるということが、国際社会では今も行われている。万一に備え自国防衛を怠らず、その上で平和を求めて行くというのが、不変な政策だと私は思う。

 戦後の日本では、軍事について痛みを分かち合う心を失った人が多くなり、こうした人間の声の方が大きくて目立つが、嫌だいやだと我がままばかり言って、何が解決するというのだろう。

  ・米軍基地が要らないというのなら、日本が自分の国を守る軍事力を持たなくてならない。

  ・軍事力を持つためには、憲法を改正し軍の再建が不可欠となる

 本当の議論はここから始めなくてならないのに、反対勢力がいて日本の独立を妨害している。その勢力は、次の3つだ。

  1.  自民党内のリベラリスト議員

  2.  反自民の左翼政党議員

  3.  米国政府内の反日勢力

 米軍基地の費用負担問題について考えるのなら、こうした基本から議論しなくては解決にならない。

 

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変わらない日常への感謝

2012-02-18 13:06:41 | 徒然の記

 時の流れが、人間を変えるという事実がある。

 経過する時間は、人生の魔法だとつくづく思う。容貌や身体まで、無惨に変貌してくれるのは余計なおまけだが、やっかいで、手に負えない、暴れ者のような心を、時が間違いなく変えてくれる。

 二十代の自分がいくら考えても分からなかったことが、今は理解することができる。これを、時の魔法と言わずして何と言えば良いのか。

 「叩きつけ,わめき、思いをぶっつけるアメリカの音楽、ジャズ。」

 「美醜善悪の一切を吐き出すような、本能のリズム。」

 「ここにある空しさと、やり切れなさ。絶叫とでも言うのか、僕はその狂気のリズムに陶酔する。」

 「月を詠じ、花に嘆ずる日本人の心と、この狂気のリズムをつなぐものが、何なのか僕には分からない。」

 「泥沼の暮らしの中でもがいていても、傷ついても、僕は生き続けたい。」

 「あらゆるものに体ごとぶつかり、倒れても起き上がる勇気。苦悩でも絶望でも、何でも来い。」

 「ぬるま湯に浸かったような、平凡な暮らしに比べれば、苦悩や絶望の方がずっと生きている実感がある。」

 「どうしてこういう破壊的な気持ちが、自分の中にあるのか。」

 二十一才、大学三年生の時の日記だ。大事な就職が頭の何処にも無く、ただ生き甲斐を求めている自分がいる。煩悩の日々が、昨日のことのように思い出される。

 しかし今の私は、「変わらない日常」の繰り返しに喜びを感じている。

 朝起きて雨戸をあけ、陽の光を入れ、階下の和室と居間の雨戸とカーテンを開ける。今のように冬なら、石油ストーブに火を点け、ヤカンをかける。顔を洗い、庭の木や花を眺めている間に、お湯が沸いて来る。

 ゆっくりと紅茶の準備をし、食パンをトースターにいれ、家内と二人、早く起きた者が朝食の準備をする。紅茶には少しミルクを入れ、テレビをつけてニュースを見る。

 毎日繰り返しても、私は飽きない。テレビで一番好きな番組は、ニュースの後の「交通情報」だ。

 「関東地方の、新幹線を含むJRは、平常通りの運行です。」

 「私鉄各線の運行状況も、平常通りです。」

 続いて都内の高速道路の状況が伝えられ、それだけのことに気持が安らぐ。

 雪が降ったり台風が来たり、大雨になったりすると交通機関が乱れ、暮らしが混乱する。平常通りという報道を聞くと、安堵して嬉しくなる。

 つまり現在の私は、二十代とは様変わりの精神状況にある。世間の出来事に関する喜怒哀楽は、若い頃と比べ成長していないが、「変わらない日常」から得られる幸福感と、感謝の気持は、年相応のものになっている気がする。

 特に東日本の大震災と、原発事故を経験した今は、いっそう「変わらない日常」への感謝が生まれた。人は年を重ねれば悟れると、老人になることへの憧れがあったが、悟れない自分を見て先日失望したばかりだった。

 しかし考え直すと、簡単に決めつけられないものがある。

 金がなくて無名でも、年を取ったら百千の煩悩が消えるのなら、これこそが生きる希望ではないか。もしもこのブログを見ている人の中に、若者がいるとしたら安心して欲しい。

 若い時の煩悩が嵐のように心を乱しても、時の魔法が必ず変えてくれると自信を持って伝えたい。

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切り捨てられた思想家たち

2012-02-14 18:49:45 | 徒然の記

 図書館から、『大川周明』『北一輝 (二冊)』『石原莞爾  (上下二巻 )』の、計5冊を借りて来た。

 過激な国家主義者で偏狭な軍国主義者と、そういう言葉で一括りにされてきた彼らについて、何故か知りたくなった。

 彼らを知らないまま今日まで来たことが正しかったのかと、そんな疑問も生じてきた。北一輝は,狂信的な天皇制信奉者だと思ってきたが、美濃部達吉の天皇機関説に近い思考をし、中国の革命にも深くかかわり、世界情勢を洞察できる国際人でもあった。

 大川周明も、インドの独立に手を差し伸べたり、イスラム教を研究したり、社会主義に惹かされたりで単純な右翼ではない。

 一冊の書で彼らを評価することはできないが、簡単に切り捨てられない日本人ではないか、という気がしてきた。

 北は陸軍による満州国の創立を批判し、世界の情勢を見ない間違った方策であると主張している。当時の日本でこんな批判をすれば、軍人たちに殺される危険があったと知る、驚きがある。

 敗戦後の日本が、軍国から平和の国へと大きく舵を切ったにことについては、広く国民の同意があった。鬼畜米英の本家だったはずのアメリカの統治下に置かれ、マッカーサーの諸施策を受け入れたことにしても、負け戦による、受け身のものばかりではなかったと述べている。

 戦前までの過去を塵芥のように捨ててしまったが、もしかすると、私たち日本人はあの時、必要以上の反省をしたのではなかろうか。あの決断には、極端過ぎるものがあったのではないか。

 極端な行為や思考には間違いの混じることが多いが、自ら踏みにじった軍国思想の中にも、大切なものが混っていたのではないか。すなわち、粗末にしてはならない国の歴史や、国民の矜持。

 悲壮な「一億玉砕」から情けない「一億総懺悔」へと、国のスローガンを変じた日本だった。

 当時は冷静になれる余裕がなかったのかも知れないが、私たち日本人は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と、国を挙げてこんな具合に生きて来たような気がしてきた。

 これからも懲りずにそうするのだろうが、それでも今なら敗戦時の見直しがやれるはずだし、やるべきでないのだろうか。『石原莞爾』をこれから読むので、その後でもう一度、自分考えを検討してみたい。

 まとまりのない文章のままだが、まとまろうと、そのままになろうと、日本のどこかに影響する訳でなし、いつも通りのきまぐれで、今日はこれで終わるとしよう。

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過疎地の雪下ろしボランティア

2012-02-10 20:39:50 | 徒然の記

 NHKのニュースが、豪雪地帯で難渋する住民たちについて報道していた。

 若者の居なくなった過疎地で、屋根に降り積む雪が老人たちを苦しめ、転落して亡くなったり、怪我をしたりする人々が増えているというニュースだ。

 幸いにも千葉県は雪の少ない土地だが、ニュースを見ていると他人事 ( ひとごと ) と思えなくなる。私より年上で、ずっと体の不自由な人が屋根の雪下ろしをしている。一人暮らしの高齢者が、よたよたしながら雪と格闘している姿を見ると、やりきれなくなる。

 その雪国に今年は雪下ろしのボランティアたちが行っていると、前置きが長くなったけれど、ニュースの本題はここにあった。

 「偉い、ボランティアをやる人は偉い。」

 テレビ画面に向かって思わず声を出し、隣にいる家内に笑われた。

 「あれ、お父さん。泣いてんの。」

 泣いてなんかいるものか。見ているうちに、勝手に涙が出てきた。自分の意思では無い。

 昔から私には、自分にやれないことをする人への敬服の念があるが、最近は敬服を通り越し、感動を覚えるようになった。

 高齢者の域に近づきつつある私には、仮にその気があっても雪下ろしのボランティアはできない。他人の足を引っ張るだけでなく、返って厄介者になるのが分かっているからだ。

 といって、若かったら当然のこととして現地へ行ったかと言えば、正直に言って自信が無い。口が先に立つ人間の常として、おそらく私も、ボランティアなど出来もしないのではなかろうか。

 自己主張をせず、目立とうともせず、偉ぶることも無く、黙って体を動かすボランティアたちが日本のあちこちにいる。どこを取っても、私には真似が出来ない。

 最近の若者は、近頃の人間たちは自己中心的で、我がままだと酷評されている彼らが、どうだ、この素晴らしさと感激せずにおれない。阪神淡路の震災時にも、胸を熱くさせてくれた若者や中高年者たちがいたが、一時的な気まぐれでなく、他人のために体を動かそうとする人間が、今も日本にに沢山いるという事実を教えられた。

 愚にもつかないことを大仰に伝える民放と異なり、NHKの報道姿勢がまたいい。感動的なボランティアについても、ごく普通のことのように淡々と説明する。国会の議員たちのように、声を震わせたりせず、ありふれた事実のように報道している。

 ボランティアは難しいことでは無い。日本の何処にもいて、誰にでもできる。君にも貴方にもその気持さえあればと、NHKが国民に伝える。それを聞いて、その気になる日本人が全国にいる。

 どうしてこんな日本人が、誇りを失ったりすることがあるのだろう。そんな必要などありはしないと、今晩は気持ちが高ぶる。高ぶっている私の頭の中にあるのは、言うまでもなく「日本国憲法」だ。しかしこれについて今夜は言及しない。

 ボランティアの人たちにも、HNKにも、そして日本にも、感謝したいではないか。気持の高ぶるこんな日が、たまにはあって良い。できることならNHKみたいに、私も淡々と文章を綴りたかったが、それは難しかった。

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