ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

銀河鉄道の父

2018-09-30 23:27:42 | 徒然の記

 門井慶喜氏著「銀河鉄道の父」(平成29年刊 講談社)を、読了。

 氏は昭和46年に生まれ、今年47才です。直木賞受賞作だというので、家内が図書館から借りてきました。芥川賞受賞作より、直木賞作品が好きなので、久しぶり楽しめると期待し、ページを追いました。しかし、惹かされる叙述が、どこにもありませんでした。反日の学者の著作を読み、文句ばかりつけている毎日なので、小説の味わい方を忘れてしまったのかと、自分を責めてみました。

 宮沢賢治の作品は、あまり読んだことがなく、世間で言われるほど、素晴らしいと感じた記憶もなかったのですが、それでも、私の中にある「賢治像」は、もう少し品格のある姿で刻まれていました。

 賢治の実家が裕福で、父親も寛大で、子供の全てを受け入れていたと、そういう予備知識はありましたが、正直なところ、氏の作品は、私の心にある賢治像を俗気で汚したと、そういう気持ちがしてなりません。

 氏は、多くの事実を調べ、文献を参照し、賢治の一家を描いたのでしょうから、私の勝手な想像より、実像に近いはずです。私が賢治に抱くイメージは、せいぜい作品から受け取る印象ですから、口幅ったいことは言えません。しかし、「セロ引きのゴーシュ」や、「風の又三郎」、あるいはあの有名な「雨ニモマケズ」の詩から、私は、澄み渡る秋空にも似た、清澄なものを感じていました。人間や生き物に対する探究心と、澄んだ目と、不思議な才能に敬意も表していました。

 しかし氏は賢治を、「親の心、子知らず」のバカ息子として、私の前に描き出しました。父親もまた、息子に劣らぬ「親バカ」として、登場させました。私自身、いつになるか分からないのに、ブログを息子たちのためと書き続ける「親バカ」ですから、本来なら、もっと共鳴して良いはずなのに、読んでいる間中、そんなはずはないと、首を振り続けました。

  藤沢周平氏の「暗殺の年輪 」、山口瞳氏の「江分利満氏の優雅な生活」、高村薫氏の「マークスの山」、出久根達郎氏の「佃島ふたり書房」など、これまで手にした直木賞受賞作の、充実した読後の気持ちを振り返りました。

 どの本にも、作者自身の世界があり、独自の文体や観察眼があり、私を虜にしました。もちろん、門井氏にも独自の文体がありますが、冗長な文章が多く、五六行飛ばし読みしても、なんの支障もありませんでした。反日学者の著作は、300ページ足らずでも、二三日かかるのに、408ページの長編を、5時間で読み終えました。いかに無駄な描写や説明が多いかという、証明なのでしょうか。それとも私が、間違った読み方をしているのか、理解に苦しむところです。

 子供には、こんな話をしたことはありませんが、私は学生時代も、就職してからも、平気で父に金の無心をしていました。賢治のように、裕福な家でありませんでしたから、心にはいつも罪悪感がありました。それなのに、大切な仕送りを、バーの飲み代にしたり、友人との遊交費にしたりしました。商売人に学歴は無用と、父もまたそういう時代に育ち、学歴は高等小学校卒でした。苦労した父は、学問がなければ、これからの時代は生きていけないと、固く信じ、息子の私を大学へ行かせてくれました。

 裕福な家であれ、貧しい家庭であれ、息子のため尽くす親の姿が、子供の心に刻まれぬはずはありません。まして賢治ほど利発で、人を思いやる人間が、成人しても親心が分からないとして描くのでは、人間観察が浅すぎないかと、私は感じてしまいます。賢治が、生涯父親に対抗心を燃やし、逆らい続けるなど、本当にそんな息子だったのでしょうか。

 口には出せませんでしたが、父への感謝と愛は、こんな私でさえ、心に秘めておりました。照れくさくて正直に言えず、生返事ばかりしていた自分を思い出すと、胸が痛くなる私です。賢治にしても、内心では、父への愛と感謝があったため、思っている半分も、口に出せなかったはずです。

 だからこそ、賢治はたびたび思いつめ、精神を病んだのではなかったのでしょうか。自分の思い通りにならないから、父へ当たっていると解釈するのは、私の少ない経験からしても、違っている気がいたします。言葉や行動に表さなくても、父と子の間には、あうんの呼吸で伝わる人情の機微がある。心と反対の言葉が口から出たとしても、互いにそれは感知します。私が思いますに、おそらく作者に足りないのは、「人情の機微」なのかもしれません。

 「あの頃、こんな父親がいたのかねえ。」「作者が、現代風に解釈しているような、気がするのよ。」

 本を渡す時、家内が笑っていましたが、もしかすると、私と同じことを感じていたのでしょうか。人気のある本で、図書館では順番待ちになっていると、聞きます。そんな本を批判するのは気が引けますが、私の心には、何の響きも残しませんでした。浅瀬を流れる清流のように、水底の小石も水草も、しっかりと見える読みやすい文章です。でも私は、ゆったりと流れる、大きな川の方が、好きなのかもしれません。というより、宮沢賢治とその父親は、浅瀬の清流で眺めるのでなく、もっと大きな川の流れに泳がせ、静かに観察すべきではなかったのでしょうか。

 人はそれぞれ、人生もそれぞれですから、今夜はこの辺りで止めると致しましょう。他人の労作に、素人がケチをつけているのですから、息子たちには、愚かな父と見えることでしょう。こんなことでは、今夜もきっと、ろくな夢は見ないはずです。

 

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現代のファシズム - 6 ( マッカーシー旋風 )

2018-09-28 14:49:04 | 徒然の記

 「マッカーシー旋風」という言葉を昔から聞いていますが、中身を知らぬまま、今日まで来ました。勝部氏のお陰で、詳しい説明を得ましたので、「冥土の土産」ができました。

 「マッカーシズムとは、1950 (昭和25) 年代に、アメリカで発生した、」「反共産主義の政治運動であり、」「共和党議員のジョセフ・マッカーシーの告発をきっかけに始まった。」

 氏によりますと、革命による平和主義的社会主義国家の成立を目の当たりにした、米国の帝国資本主義者たちが、なりふり構わぬ反撃をはじめ、マッカーシーがその先頭に立ったという説明です。

 革命がどうして平和主義的なのか、氏の説明は今日では通じない「昔の左翼言葉」です。米国では政府内や政界だけでなく、軍部、産業界、学界、法曹界、マスコミ界、果ては映画界も加え、国内の隅々まで、徹底した共産党員狩りが行われました。

 盗聴、密告、買収、裏切り、でっち上げなど、ありとあらゆる手段が使われ、共産党員が逮捕、投獄されたと言います。不当な疑惑を受け、過酷な攻めに耐え切れず、自殺者も急増しました。それはまるで中世時代の「魔女狩り」にも似た熱狂で、アメリカの社会を吹き荒れました。

 氏の説明は10ページ以上もありますから、独断で割愛し要約しました。共和党の一議員だったマッカーシーが、時の大統領を超えるほどの力を持ち、アメリカ中を震え上がらせたというのですから、大変な騒ぎだったはずです。

  マッカーシーの力の源泉は、アメリカの帝国主義資本家の支援でした。
つまり、「ウオール街の資本グループ」(デュポン、モルガン、ロックフェラー)と、「中西部の資本グループ」(モンサント、 カーギル、ADM、E.I.デュポン)の、双方からの資金援助だったと氏が言います。
 
 もともと米国の隠れた支配者たちで、大統領も簡単に逆らえないとのことです。氏の長い暴露的説明を離れ、当時の日本がの状況でを、調べてみました。マッカーシー旋風に劣らず、日本も大揺れの時代でした。

 [ 昭和25年 ] (1950年)

  ・2月 ソ連と中華人民共和国が同盟を締結、日本を仮想敵国
  ・5月 人民広場 (皇居前広場)で、共産党支持者と占領軍の衝突 

  ・6月 朝鮮戦争勃発 

  ・7月 レッドパージ 共産党員とその支持者が公職追放

  ・8月 警察予備隊が、設置

 [ 昭和26年 ] (1951年)

  ・4月 マッカーサー解任、リッジウェイが連合国軍最高司令官就任

  ・9月 サンフランシスコ平和条約締結 主権回復、GHQの占領終了

 [ 昭和27年 ] (1952年)
  ・1月 李承晩ライン 韓国が国際法に反する領海 (竹島を含む) を一方的に主張
        ・4月 海上警備隊設置  公職追放の廃止
  ・5月 血のメーデー事件 皇居外苑で、デモ隊と警察が衝突
  ・7月 破壊活動防止法 ( 破防法 ) 成立  公安調査庁設置
  ・10月 警察予備隊、保安隊となる
 こうした状況を見て、「やがて、日本にも革命が起こる。」と、勝部教授は胸を躍らせたのでしょう。
 途中を省略し、最終ベージに書かれた、氏の革命への賛歌を紹介します。国立博物館の一番目につく場所に、きらめく文字で飾るべき賛歌です。馬鹿もここまでくれば、真似の出来る日本人はいないでしょう。
 
 「ウオール街の時間表の中で、わが国の占める地位は、きわめて大きい。」「であるから、再軍備と軍国主義の復活を阻み、平和と民族独立と、民主主義のための、」「わが国での闘いは、世界の全人民の福祉に、そしてまた、世界史の動向に対し、大きな責任を持っている。」
 
 「ファシズムは、二度とあってはならない。」「戦争も、二度とあってはならない。」「それを防ぎ、それを阻む力は、われわれの手の中にある。」「われわれは、自らの幸福を築く権利を、持っているはずだ。」「なぜそれを、むざむざと、死と悲惨に、委ねねばならないのか。」
 
 氏は、処刑された反ファシスト活動家が、母親に残した手紙を紹介します。
 
 「お母さん、夜はあけようとしています。」「間も無く、暁がおとずれます。」「風は自由を告げているのに、嵐は荒れ狂っています。」「しかしいかなる嵐が来ようと、お母さん、私は尻込みしません。」「もしも私が、自由のため、死ぬ運命だとするならば、それは素晴らしい死でしょう。」
 
 「高邁な理想に奉仕するため、その命を捧げた者は、決して死なない。」「いかに生くべきかを知っている者は、いかに死すべきかも、知っています、」「われわれの後ろに、倒れた戦士の後ろに、他の者たちを続かせよ。」
 
 最後の行で、氏が言います。
 
 「心臓の血をもって書かれた、このような言葉にこたえて、」「われわれが何をすべきかは、おのずから、明らかではなかろうか。」
 
 一人で感激している氏の頭から、バケツいっぱいの水を浴びせ、私は言います。
 
 「先の大戦で散った軍人も、祖国防衛という高邁な理想のため、命を捧げたのです。」「大切な家族と、祖国を守るため、天皇陛下を中心に一つになり、散華しました。」
 
 「他国の理想に命を捧げた、他国の共産党員を賞賛するくらいなら、」「自分の国の兵士たちに、目を向けたらどうなのか。」

  それでも勝部氏の本は、本多勝一のものより愚劣でありませんでしたから、ゴミステーションに打ち捨てず、小学校の有価物ゴミとして出します。

 トイレットペーパーとして、再生されるはずです。

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現代のファシズム - 5 ( 米国のスト破りと、テロ組織の話 )

2018-09-27 20:28:41 | 徒然の記

  本題に入る前に、元外務省官僚の馬渕睦夫氏の話をします。

 氏はユーチューブの動画で、保守論客として活躍しています。静かな語り口と笑顔に惹かされ、つい最後まで聴いてしまいます。

 昭和21年生まれの氏は、今年72才で、京大法学部在学中に外交官試験に合格し、昭和43年に入省しています。ケンブリッジ大学で3年間研修した後、本省へ戻り、国際連合局社会協力課長や、大臣官房文化交流部文化第一課長などを歴任しています。

 在外勤務は、イギリス、インド、ソ連、ニューヨーク、スイス、イスラエル、タイ、キューバと幅広く、最後はウクライナ兼モルドバ大使を務め、平成20年に退官しています。

 氏は反日左翼勢力を嫌悪し、憲法改正を是とし、女系天皇にも反対しています。マスコミに攻撃され続ける安倍総理と、トランプ大統領を支持し、既存メディアにはうそ情報が多いので、頭から鵜呑みにしてはいけないと忠告します。左翼主義者と同じくらい、氏が嫌悪し警戒しているのが、巨大金融資本です。

 利益のためなら国境を越え、国を破壊することも厭わないのが、国際金融資本家です。ターゲットとしているのはウオール街にいる彼らで、世界の大きな事件の裏には、必ず彼らの策略があると説明するのが、氏の意見の特徴です。

 政治家の名前はマスコミを賑わせますが、ウオール街の彼らの名前は表に出ません。多くの人は彼らの名前を知らないし、話を聞かされても即座に信じません。なぜならマスコミが、彼らのことを報道しないからです。

 ということで氏は一部の人間の間で、「また、陰謀説ですか。」と軽視される傾向があります。私もウオール街の話になると、距離を置いて耳を傾けていました。

 しかし勝部氏の著作を読み、馬淵氏の説は事実ではなかろうかと、そんな気がしてきました。勝部氏の説明は長いので要点を整理すると、アメリカには、大きな二つの資本グループがあるということです。現在言われるような、国際金融資本ではありませんが、ここから発展したのでしょうか。

  1. ウオール街の資本グループ

    ・国際干渉主義、 ヨーロッパ第一主義

     ・デュポン、モルガン、ロックフェラー

  2. 中西部の資本グループ

    ・アメリカ第一主義、アジア優先主義

    ・モンサント、 カーギル、ADM、E.I.デュポン

 氏の説明のメインは、金融資本のことでなく、当時アメリカで活躍していた、700以上にも上る、ファショ団体です。アメリカ国内で最も強力なスト破り、テロ組織として有名だと言います。興味のある人もいると思いますので、その一部を紹介します。

 「アメリカン・リージョン」「アメリカ自由連盟」「アメリカ第一委員会」  「アメリカ行動協会」 

 「全国市民連盟」 「アメリカ・クリスチャン・防衛者団」 「アメリカの運命党」

 氏が説明しているのは、アメリカの巨大資本グループが、これらのファッショ団体に資金援助をしている事実です。崩壊しそうな資本主義を守るため、なりふり構わず労働者の団体を粉砕しようとする「ファッショ」が問題なのです。

 沢山の事例があげられますが、読後の印象は、朝日新聞記者の本多勝一が書いた、「中国の旅」と同じです。言葉だけでは信じられないでしょうから、一部を紹介します。

 「ナチスのやった、ドイツ国会放火事件のように、」「挑発者やスパイを使い、おおがかりな事件をでっち上げ、」「これをきっかけに、共産党員や、反ファシストを弾圧すること。」「これは今まで世界のどこでも、帝国主義者やファッシストが、常に使ってきた方法であった。」

 「一例を挙げよう。」「1920年に、労働運動指導者のサッコとバンゼッティーの二人は、」「強盗殺人事件の、犯人にでっち上げられた。」

 「あらゆる反証が上がり、証明する人々が山のようにあったが、」 「それがイタリア人であったため、取り上げられず、」「警察側の証人の偽証にもとづき、有罪判決を受けた。」「その後真犯人が発見され、全世界に反対運動が起こったにもかかわらず、」「ついに彼らは、死刑に処せられた。」

  氏は幾つもの例を挙げ、アメリカ帝国主義の非道さを語ります。警察官が、逆らう人間を平気で射殺する国ですから、まんざら嘘ではないのでしょうが、読んでいる方は嫌になります。

 「ウオール街の最大利潤を確保し、米国労働者の抵抗を打ち砕くため、」「また戦争とファシズムに反対する、国民の声を押しつぶすために、」「労組指導者や反ファシスト、平和の戦士が、」「電気椅子で消えていく。」

 「同様に南部の地主や資本家は、安い黒人労働者の賃金を維持するため、」「ありもしない白人婦人の暴行事件や、リンチ、黒人の差別待遇が、どうしても必要なのである。」

 「アメリカの世紀は、リンチされ、死刑にされた労働者と、黒人の血で彩られ、」「アメリカ的生活様式は、これを可能にする法律による、虐殺制度に支えられている。」

 どこまでが事実か、確認する方法がありませんが、他国のことをここまで批判するのが、左翼学者なのでしょうか。読んでいますと、韓国人や中国人が生半可な知識で、日本のことを「軍国主義国家」「侵略国家」「極悪非道な好戦国」と決めつけ、碌でもない本をアメリカで出版する姿と重なります。

 不愉快ですが、明日もう一度だけ、「マッカーシー旋風」について述べます。本はやっと84ページで、マッカーシーが終わると180ページになります。本は最後まで読みますが、訪問される方々と私自身の精神衛生のため、次回で終わりといたします。

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現代のファシズム - 4 ( 認識違いの、貴重な著書 )

2018-09-26 22:23:48 | 徒然の記

 左翼の学者が、第二次世界大戦後の世界をどのように捉えていたかを知る、貴重な意見です。

 この大きな認識違いを博物館に送り届け、宝石箱に収納しておきたくなります。この幻想から、彼らが今も醒めていないのだとすれば、時代錯誤と言わねばなりません。

 「第二次大戦が終了したのち、ソ同盟は弱体化されるどころか、」「逆に強化され、国際的威信が、」「極度に高まった。」

 「中東諸国では、真の解放軍としての、ソ同盟軍の存在によって、」「ハンガリア・ソビエト共和国に対する、帝国主義国による、軍事干渉が不可能になった。」「アジア諸国でも、民族解放運動の主導権は、プロレタリアートが握っている。」

 「こうして、地球の三分の一を占める国々が、資本主義の軌道から離れた。」「東アジアから中東欧を含む、膨大な12ヶ国による、」「強力な単一の社会主義、人民民主主義の陣営が成立したのである。」

 「大戦後の、人民民主主義革命の結果、」「世界資本主義の全般的危機は、新たな第二段階に入ったのである。」

 敗戦国の日本の学者が、なぜそんなに喜ぶのかと首を傾げますが、もうすぐ日本にも革命が起こると、歓喜に満ちた文章です。高揚感を一杯にして、反日左翼学者たちがこうして育ったのかと、感慨深い文章です。ここまで感動すれば、彼らが、簡単に夢から覚められないのが、分かります。

 「第二次大戦によって、資本主義的な強国のうち、」「独、日、伊は、敗北して脱落し、」「フランスもイギリスも、弱体化してしまいました。」「アメリカは、この戦争中に、生産力を増大させ、独占資本が、しこたま儲けた。」「そしてついに、他の資本主義国を支配する地位に立ったのである。」

 「この優位の上に立ち、アメリカのウオール街は、」「ナチスドイツと、帝国主義日本が抱いていたのと同じ夢、」「つまり、世界支配に乗り出してきた。」「社会主義陣営を含めた、全世界を支配する手段としての、ファッショ政策。」「これがアメリカ帝国主義の、基本方針となった。」

 氏の頭に描かれている世界は、平和勢力の社会主義国群と、帝国主義の米国群の二つです。子供の漫画のように善と悪とが区分され、社会主義国が善で、悪は資本主義国です。

 「ソ同盟を全体主義と言って攻撃し、共産主義の侵略から、」「民主主義と自由と、世界平和を守るという、スローガンが掲げられた。」「あらゆるマスコミを動員して、共産主義へ、デマの一斉射撃をし、」「人民大衆の頭を混乱させ、」「アメリカのファシズムは、反ファシズムの装いで着々と進められている。」

 氏が単純なのか、読者を馬鹿にして愚論を展開しているのか分かりませんが、分かっていることが一つだけあります。

 「反日左翼学者は、沢山の嘘の中に少しだけ事実を混ぜる。」、という法則です。全部が嘘でないため、善良な読者が騙されます。アメリカの金融資本家が、世界支配に乗り出したという事実は当たっています。それ以外の米国批判は、嘘というより捏造です。冷戦時代のソ連は、アメリカに負けずマスコミを動員し、金をばら撒き資本主義の攻撃をしていました。

 アメリカのウオール街の金融資本家と、イギリスのシティーの金融資本家が、大戦後の世界支配のため、活動していたのは事実です。しかしそれを言うのなら、崩壊前のソ連の国家資本も、現在の中国の国家資本も、イギリスやアメリカと同じく、「赤い金融資本」で、世界支配のため活動しています。

 ただ氏は、社会主義国に不利なことは触れませんから、著作の中で語りません。氏の主題は、悪の帝国アメリカの隠された部分を暴露することにあります。アメリカ以外の国のことは、本気で取り組んでいません。

 「アメリカのウオール街は、」「ナチスドイツと、帝国主義日本が抱いていたのと同じ夢、」「つまり、世界支配に乗り出してきた。」

 「帝国主義の日本が抱いていた、世界支配の夢。」疑問も抱かず書いています。これは東京裁判で、連合国側が日本に押しつけた捏造です。先の戦争は、東條元首相が陳述しているように、「自衛のための戦争」で侵略戦争ではありません。

 氏のような左翼学者は、解任された後にマッカーサーが、米国の議会で、「日本は自衛のために戦った。」と証言した事実を知ろうとしません。

 こういう書を世に出すのでは、氏も「獅子身中の虫」の一人です。もう一言つけ加えますと、反日左翼の書を数え切れないほど出版した岩波書店も、日本を汚染した反日会社です。

 悪口ばかりで終始しますと、自分の気持ちまで汚れてきますから、ここで終わります。今夜は、良い夢を見ないような予感がします。

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現代のファシズム - 3 ( GHQに屈した学者たちの意見 )

2018-09-26 06:54:19 | 徒然の記

 ドイツだけでなく、ハンガリー、スペイン、ポーランド、ポルトガル、ユーゴスラビア、フィンランドなど、ファシズムが台頭した国々の状況を、勝部氏が説明します。

 次の文章はそのまとめです。歴史博物館に、金文字で刻みたいほど輝いています。

 「今まで述べた、簡単な歴史からみても、」「もうすでに、ファシズムが何かということは、」「明らかである。」

 「レーニンは、1916年に、独占資本主義の政治的上層建築は、」「民主主義からの政治的反動であると、指摘した。」「ファシズムは、腐敗し、死滅しようとする帝国主義体制を救い、」「大衆を、経済的政治的搾取から解放することを、妨げることを目的として、現れてくるのである。」

 ヨーロッパの各地で社会主義革命を起こそうと、労働者階級が立ち上がった時、必ず反対勢力が台頭し、蹴散らしました。氏はこの反対勢力を総称し、ファシズムと定義しています。昭和21年に、新進気鋭の政治学者と呼ばれていた、東大教授の丸山真男氏も、同じような定義をしています。

 「ファシズムとは、反革命の最も先鋭的な、最も戦闘的な形態であり、」「イタリアやドイツのファシズムは、議会制社会下の大衆運動による、」「下からのファシズムであったが、」「日本のそれは、軍部や官僚による、」「上からのファシズムであった。」という、変わった見解を出しました。

  現在では、日本に果たして「ファシズム」はあったのかと、そんな議論がなされています。丸山氏にしても、勝部氏にしても、日本でのファシズムに関し、ろくに検証をせず、時流に流されるまま、軽薄な主張をしていたことが、今は分かります。

 ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニがいて、国民を戦争に駆り立てましたが、日本にはもともと独裁者がいません。

 それではファシズム論が成り立たないので、天皇を独裁者と見たり、東条英機を独裁者にしたりしますが、事実が伴いませんでした。帝国陸軍の上層部が、ファシズムの中心だとこじつけていますが、これもピタリと該当しません。

 日本が戦争へ突き進んだ出発点は、幕末に生まれた尊皇攘夷思想であり、列強の侵略から国を守ろうという危機意識と、愛国心ですから、西欧のファシズムであるはずがありません。しかし日本の左翼学者たちは、アメリカの報復裁判に協力し、日本のファシズムを積極的に創造しました。

 以前、「変節した学者たち」のブログで、憲法学者の宮澤俊義氏を、GHQに魂を売った「獅子身中の虫」と批判しました。丸山氏は、その宮澤氏を支えた、学者の一人です。

 明治憲法から日本国憲法へと移行するにつき、憲法学者たちは、どうしても理論的な裏づけができませんでした。マッカーサーが押し付けた憲法と、正直に言えば簡単ですが、学者の世界では言えません。苦肉の策として、宮澤氏がGHQに助言したのが、「日本は革命によって突然明治憲法を破棄し、日本国憲法を施行した。」という、八月革命説です。

 今は経緯を知る人がいなくなり、日本国憲法が、国民の総意で制定されたかのような作り話が広がっています。

 このおかしな八月革命説を考えついたのが丸山氏で、自分の意見としてGHQに伝えたのが宮澤氏でした。ここで言いたいのは、こんな丸山氏の主張を取り入れた、勝部氏の意見は聞くに値しないということです。

 国難を前に死を恐れず、獄に入れられても信念を曲げず、吉田松陰は二十代の若さで亡くなりました。そんなご先祖さまを知れば、30を過ぎた学者がアメリカの脅しに屈し、国民に恥じない姿は軽蔑するしかありません。

 今年の2月、富田健治氏の著書『敗戦日本の内側』を読んだ時、ブログを書きました。無節操な卑しい学者や軍人、政治家たちの話を確かめたかったら、もう一度読みなさいと、息子たちには言います。

 これから、第3章「民主主義の名のもとにおけるファシズム」へと進みます。導入部分の叙述を紹介します。

 「第一次世界大戦は、米国の資本主義にとって、極めてプラスの作用を及ぼし、」「アメリカは債務国から、債権国になった。」「世界の資本主義の中心は、この大戦以後、ヨーロッパからアメリカへ移った。」

 「アメリカは繁栄し、政治的、経済的地位が、」「大いに強化されたにもかかわらず、」「ロシア革命に対する恐怖は、アメリカ国内で、」「歴史上かって例のなかったほどの、ヒステリー状態を生んだ。」

 「アメリカは日本と協力し、ソ連への軍事干渉のイニシアティブを取り、」「経済封鎖に努力した。」「国内では、共産党と労働運動に対する弾圧が、暴力的、ヒステリー的な形態をとった。」

 「アメリカの資本主義は、世界の帝国主義陣営内の勢力関係を、」「現状のまま維持しておくことに、関心を持っていた。」「最後の武器であるファシズムに向かわなくとも、」「ニュー・ディールという改良的な諸手段を遂行する、余裕と財源があった。」「大恐慌から、第二次世界大戦までの期間に、」「ファシストの脅威があったものの、ファシズムが登場する場面はなかった。」

  「しかし1945年に、ルーズべルトが死去し、トルーマンが大統領になると共に、」「国内の政治勢力の関係が変化した。」「これまでのルーズベルトのとった方針が、まったく別のものに取り替えられていった。」「アメリカ帝国主義による、世界支配、つまり、戦争とファシズムの方針が前面に出てくるのである。」

 氏の意見は、先日読んだ笹本俊二氏の著書、『第二次大戦下のヨーロッパ』を思い出すと、符合します。面倒がらずに、再度紹介します。

  「ルーズベルトは、チャーチルと違って、スターリンを嫌悪せず、」「戦争終結後も、互いに協力してやれる相手だと、自信を持っていました。」「ルーズべルトが、もっと長生きしていたら、冷戦は回避できたであろうし、」「すくなくとも、あれほど鮮烈に燃え上がることはなかったと、考えられる。」  GHQの対日方針の変更、つまり「逆コース」も、トルーマンが大統領になった以後でした。超大国アメリカの大統領が持つ、大きな力改めて分かります。

 ブログのスペースがなくなりますので、今夜はここで終わります。明日から、米国のファシズムについて、氏の意見を聞きます。

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現代のファシズム -2 ( 「逆コース」に慌てる、橋川教授 )

2018-09-25 08:23:28 | 徒然の記

 橋川教授は、「ナショナリズム」という言葉を、日本語でキチンと定義しませんでした。

 個人に対立する概念として「国家主義」と解し、分かったような気になるしかありませんでしたが、勝部氏の「ファッシズム」にも、似たような面があります。

 学校では個人に対立する「全体主義」の意味で説明され、戦前の日本が軍国主義と絶対的天皇制による「ファシズム」のため、戦争に突き進んだと教わりました。氏も「ファシズム」の周辺概念は語りますが、言葉そのものについての説明はしません。

 「ファシズムは、現代の現象であり、」「第一次大戦と、十月革命の結果始まった、世界資本主義体制の、全般的危機に特有の現象であり、その所産である。」

 何のことなのか、明確になりませんが、氏の説に従えば、社会主義の国では生じないと言っています。巻頭に引用されたゴーリキーの言葉を読まされますと、いっそう不可解になります。

 「ファシズムとは、強くなりたいとの願いを喚き立てる、無力者の叫び声である。」「遅かれ早かれ、それは失敗した冒険主義者の絶望の叫びにかわるのだ。」

 失敗した冒険主義者の絶望の声の例として、氏は、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラー、日本の昭和天皇を引き合いに出します。日本をこうした国と同列に並べ、陛下を蔑視する氏の主張は、博物館の遺物と思うから我慢できますが、そうでなければ読むに耐えない書です。

 米国を攻撃している割に、内容は東京裁判史観そのもので、日本の歴史を無視したマルクス主義者の偏見です。戦後間もない、昭和30年の本だから我慢しますが、紹介するのも不愉快になる、氏の意見です。

 「ファシズムの犯した犯罪ほど、大がかりで、」「組織的で、非人間的な蛮行はなかった。」「こういうことが、もう一度起こって良いのであろうか。」「私がこういうと、ちょっと待って欲しいと異論が出るかもしれない。」「ファシズムは10年前に、まったく倒されてしまったのではないか。」

 「ムッソリーニが、その情婦ベタッチとコモ湖畔で処刑され、」「ヒトラーが、エバ・ブラウンと共に、ベルリンの地下壕で自殺し果て、」「そしてまた、あの聞きなれぬ女性的な声がぼそぼそと、皇国日本の無条件降伏を伝えた時、」「全世界のファシズムは、すっかり息の根を、止められてしまったはずではなかったのか。」

 ムッソリーニやヒトラーと、昭和天皇を並べ悪意を丸出しで、礼儀知らずな意見を著書で吐く。・・・これが敗戦間もない頃の、左翼学者です。杜撰な批判は、ただ日本を貶めることだけが目的です。

 現在の若者なら、氏の粗末な日本蔑視の意見を鵜呑みにしませんが、昭和30年頃の学生でしたら、そのまま信じたかもしれません。ネットの情報もなく、学校でも自宅でも、読む本といえば左翼学者の著作ばかりで、新聞も雑誌も、左翼反日の人間たちの世界でしたから、信じるなという方が無理でしょう。

 私は今、たった5ページ部分の書評をしています。次の文章を読みますと、氏がこの著作で何を言おうとしているのかが、分かってきます。紹介しますので、博物館の展示物の一つとみなし、我慢して読んでください。

 「毎日毎日、共産主義の脅威、」「ソ連、中共の侵略という言葉が、ヒステリックに叫ばれ、」「自由世界の擁護、民主主義の防衛という名目で、」「アメリカでは本が焼かれたり、」「ナチス治下のドイツと、そっくりそのままの、恐怖支配が行われている。」

 「また、この言葉の陰に隠れて、西独では鍵十字や、」「ナチス式行進が、公然と立ち現れ、」「わが国でも、逆コースが始まり、」「第二次世界大戦という、大きな犠牲によって勝ち取られたものを、」「ひとつひとつ掘り崩しているというのが、」「偽らざる現状である。」

 「死んだはずのファシズムの親玉」は、世界一の大国となったアメリカだ、というのが氏の主張です。第二次世界大戦でしこたま儲け、世界中の富を独占し、世界一の金持ち、世界一の軍事力を持ったアメリカが、史上最悪のファシズム国になったと、これが本の主題です。

 「これはいったい、どうしたことであろうか。」「これこそ、死んだはずのファシズムの復活ではないのか。」「我々は今、ハッキリと目を見開き、」「自由世界とか、民主主義の擁護とかいう、」「響の良い言葉にごまかされないで、」「戦前のあの経験と、比べてみなければならない。」

  「逆コース」という言葉は、現在では死語になっています。息子たちは知らないはずですから、簡単に説明いたしますと、GHQの対日政策の変更をさします。

 当初アメリカは、日本を非武装の民主国家にし、アジアでの共産主義の台頭には、蒋介石の中華民国との協力を考えていました。しかし国民党が台湾へ追放され、毛沢東の中国が敵国として現れました。

 アメリカは急遽、日本に再軍備をさせ、アジアにおける共産主義の砦とすることに決めました。日本の共産化を防ぎ、経済強国に育てることが、今度は至上命題となり、警察予備隊が作られ、保安隊と名称変更されたのはこの頃の話です。

 野放しにされていた左翼活動が、制約されることになるのですから、氏のような左翼学者は大いに慌て、危機感を持ちます。GHQのこの政策転換が、「逆コース」と呼ばれるものです。

 政界や財界、言論界から、軍国主義者を追放した同じマッカーサーが,今度はレッド・パージをやり出すのですから、仰天したに違いありません。それでも世間に浸透した「言論の自由」のお陰で、氏の著書は大手を振って流通します。

  アメリカが最悪の国になったという意見には、共鳴するところが多々ありますが、それ以外の主張は偏見で、国立博物館の片隅にでも並べておけば良いような、歴史的遺物です。

 次回からは、共鳴する部分と歴史の遺物の部分を識別しながら、息子たちに説明して行きたいと思います。

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現代のファシズム ( 博物館の展示物 )

2018-09-23 17:16:58 | 徒然の記

 勝部元(はじめ)氏著『現代のファシズム』( 昭和30年刊 岩波新書 )を、読んでいます。

 巻末の略歴で、氏は大正6年東京で生まれ、昭和15年に九州大学を卒業し、出版当時には、愛知大学法学部の教授で、専攻は国際問題と書かれています。平成11年に、80才で亡くなっていますが、左翼学者として、一生を生きた人物です。

  昭和20年から40年代頃までは、まだマルクスの思想が輝いていた時代です。多くの理想主義者たちが、人類のユートピアを、社会主義国家の中に夢見ました。敗戦後の日本では、弾圧されていた左翼主義者の著作が禁を解かれ、洪水のように溢れました。

 先日まで左翼の学者や政治家たちを、十把一絡げに「獅子身中の虫」と嫌悪していましたが、少し観点を変えることにしました。勝部氏のような左翼学者の著作も、一概に否定せず、遺物を眺める博物館の観客みたいになろうと決めました。

 ベルリンの壁が崩壊し、社会主義のソ連が消滅したのは、平成3年( 1991 )の12月でした。それ以降も共産主義の夢から覚めない左翼学者と、それ以前に書かれた著作は、切り離して考えるのが妥当ないかと、そんな気がしてきました。

 社会主義のソ連が、どれほど人類のユートピアとかけ離れいていた国だったか、今の私たちは知っています。それ以後、北朝鮮や中国の実情を知るにつれ、社会主義国家とは名ばかりで、一部の権力者たちが国民を弾圧する国でしかなかったと、理解が進みました。言論の自由、職業の自由、身体の自由さえ奪われ、政府を批判する者は警察が獄へ入れ、命の保証もありません。

 それでもなお社会主義や共産主義を信奉し、日本を貶めている現在の学者や政治家たちは、本気で非難しなければなりません。彼らこそ、反日左翼の害虫であり、日本人の心を汚染する、「獅子身中の虫」です。・・ということで、平成11年まで生き、主義を捨てなかった勝部氏を厳しく批判しても、昭和30年代の著作は、少し寛大に眺めようと思っています。

 この本が出版された時、日本がどんな状況だったかを調べてみました。

  2月 ・マレンコフ首相が辞任。後任にブルガーニンが就任。 

      ・第27回衆議院議員選挙の結果
      民主党185議席、自由党112議席、左派社会党89議席、右派社会党67議席、

      労農党4議席、共産党2議席、諸派2議席、無所属6議席。

  4月 ・チャーチル首相が辞任
      ・インドネシアのバンドンで、第1回アジア・アフリカ会議が開催。

  5月 ・パリ協定の発効により、西ドイツが主権回復。

  6月 ・鳩山首相日本民主党総裁と、緒方竹虎自由党総裁が党首会談。「保守結集の原則で意見一致」を発表。

  7月 ・日本共産党第6回全国協議会で、活動方針変更を決定。武装闘争を破棄。

  8月 ・第1回原水爆禁止世界大会が開催。
      ・日本、GATTに正式加盟。

   10月 ・日本社会党統一大会開催、社会党再統一。委員長左派鈴木茂三郎、書記長右派淺沼稲二郎。

  11月 ・自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生。(保守合同) 55体制の幕開け

    12月 ・日本の国際連合加盟に、ソ連が拒否権を行使。

 鳩山首相とブルガーニン首相が、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名したのは、翌31年の12月でした。国交が回復しましたが、領土問題は先送りされたまま、現在にいたっています。

 氏の著書も、先日読み終えた橋川教授の本と同じく、薄っぺらな文庫本です。現在ちょうど100ページですが、なんとも酷い本です。橋川氏の著作は、無知を啓蒙してくれ、心に響く教えもありましたが、勝部氏の本には、今のところ何もありません。

 社会主義国のソ連は、平和主義国家で、続く中国も、ベトナムもそうで、アメリカだけが平和を乱す、独占資本主義国だと厳しい弾劾で終始しています。

 アメリカが金と武力で他国を支配するという意見には、同意しますが、それ以外の主張はお話になりません。私に似た偏見と独善の羅列ですから、博物館の遺物だと思わなくては、まともに読んでおれません。氏はアメリカの非道な政略や、陰謀を語りますが、今の私たちは、そっくり同じことをしているソ連や、中国や、北朝鮮を知っています。

 だから、息子たちに言います。世界の国々は、自国のエゴを通すためなら、どんな暴力でも破壊でも、殺人でもしています。国際社会の現実の一面です。だから、こんな国々から、「日本だけが酷い国だった。」「日本だけが間違っていた。」と、責められる筋合いはないのです。卑屈な反省をしたり、必要以上に謝ったりする愚行は、そろそろ止めなくてなるまいと考える次第です。

 だからと言って踏ん反り返るのでなく、歴史の事実をそのまま知ることを、勧めています。明日からまた、氏の歴史的著作の書評をしようと思います。

 本来なら、博物館に陳列されるべき人間たちが、何を間違ったのか、平成の今も大きな顔をしています。「平和憲法を守れ。」「日本の軍国主義復活を許すな。」「戦争をさせるな。」・・

 こんな幼稚なスローガンに、国民はいつまでたぶらかされているのかと、言いたいのはここです。

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ナショナリズム - 7 ( 松蔭を支えた、武士、町人、百姓たち )

2018-09-21 21:44:41 | 徒然の記

 どこの国にも歴史に残る立派な人物がいて、国民が誇りにしています。

 日本にも、数知れないほど偉大なご先祖様がいます。政治家であったり、軍人・学者であったり、文筆家であったり、商人であったりです。橋川氏の著書を読むと、吉田松陰がその一人だという気持ちに、間違いなくなります。

 本日は氏の叙述にそい、松陰の人となりを追ってみます。

 「松陰の人間性を示すものとして、その女性観が、よく引き合いに出される。」「とくに彼が、獄中から書いた、妹千代への手紙など、」「その柔和な和文と相まって、これが果たして、封建的士道下に鍛えられた、」「青年武士の手紙かと思われるほど、」「人間的な情感に、満たされたものである。」

 「そこには女性を一段と低く見なす、封建的イデオロギーは全くなく、」「ごく自然に、愛すべき対等の人間と見る、松陰の態度がよく表れている。」

 「女性に対してだけでなく、さらに最下層の人々、」「いわゆる部落民に対しても、差別感を抱いていなかった。」「世間が、人間以下の存在とみなしていた人々に対し、」「なんらの差別感なしに、あつい人間的共感を寄せている。」

 「それと同じことが、兒童、友人、後輩等、全てに対する態度に表れている。」「ルソーの人間観や、社会倫理の基礎に置かれていたあの感情に似たものが、」「松陰の精神をつらぬいていた、とさえ思わされた。」

 幕末の賢公と言われた斉昭ですら、辛口の批評をした氏が、松陰は手放しの誉めようです。同時にそれは、私の知らなかった松陰でもあります。

 「しかし彼の本領は、別のところにあった。」「それは、先に暗示しておいたように、」「人間の忠誠心という問題領域における、探求者としての彼である。」

  「偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。」・・いよいよここから、松陰の思想の変遷という、メインテーマに入ります。

 「まず僕、心を改めて申すべし。」「よく聞きたまえ。僕は、毛利の家臣なり。」「故に日夜、毛利に奉公することを、練磨するなり。」「毛利家は、天子の臣なり。」「故に日夜、天子に奉公するなり。」「我ら国王に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり。」

 氏は松陰のこの言葉を評し、本質は水戸学派の忠誠理念をそのまま継承したもので、幕藩体制そのものを前提とする思想だと言います。氏が注目したのは、松陰の忠誠理念の中にある、異質の要素でした。これが後に、彼の思想の転向を引き起こす契機になったと、氏は考えます。

 「それは、彼の中にある規諫(きかん)の論であった。」「いわゆる主君への、忠諫(ちゅうかん)と呼ばれる態度のことであるが、」「元々は、主従関係にともなう、忠誠心発露の一形式であったことは言うまでもない。」

 氏が説明を省いていますので、規諫・忠諫と言う言葉を、別途調べました、

 「 規諫・忠諫とは、主君の過失などを、誠意を持って指摘し、忠告すること。」

 松陰の行動がしばしば藩の規制を乗り越えましたが、むしろこのような行動こそが、藩に対する真の忠誠であり、忠諫だという意識に貫かれていたと、氏は説明します。

 「事成れば、上は皇朝の御ため、」「事敗れば、私ども首刎ねられるとも苦しからず。」「覚悟の上なり。」

 これは松陰の言葉ですが、私のような者には、とても真似のできない覚悟です。これについて氏が、つぎのように説明します。

 「一般に忠誠心は、体制秩序への同調を意味しており、」「体制への無批判、服従、事なかれ主義となりやすい。」

 「松陰は青年期から、体制秩序を批判の対象としてきた。」「場合によっては、大不忠とみなされる行動に踏み切る事こそ、」「真の忠誠であるという逆説を、」「松陰ほど真剣に体験し思索した武士は、稀であったかもしれない。」

 ペリーの艦隊に対する幕府の対応を眺め、松陰の思想が少しずつ、変化していきます。夷狄を払わない幕府への疑問、藩主への疑念が拭えなくなります。

  「天朝への忠誠を忘却している点で、幕府、諸侯以下、」「衆民に至るまで、同じ罪を負うている。」「己の罪をおいて、他の罪を論ずる事は、」「われ死すともなし得ず。」

 「死を恐れない、規諫の精神を奮起し、」「衆民から、将軍まで、推し及ぼす事より始む。」

 この努力が究極において挫折するとき、初めて幕府否定の行動が正当化されるだろうと、考えます。そして松陰は、幕府や諸藩、衆民の間違いに気づき強く怒ります。

 「天朝を憂え、よって夷狄を憤る者あり。」「夷狄を憤り、よって天朝を憂うる者あり。」「従前天朝を憂えしは、みな夷狄に憤りをなし、本末すでに誤まてり。」「真に天朝を、憂うるにあらざりしなり。」

 天朝を心配し夷狄に憤るのでなく、夷狄を憤り、その後に天朝について心配するのでは、順序が間違っていると松陰は言います。そしてここで初めて、「天下は、一人の天下にあらず」という、儒教的政治論を離れ、「天下は、一人の天下なり。」という立場に立ちます。

 一人とは、天皇のことで、国民の主権が天皇の一身に集中されるとき、他の一切の人間は「億兆」として一般化されます。

 「論理的には、もはや諸侯、志太夫、庶民の身分差は、その妥当性を失うこととなる。」「もともと松陰の気質の中には、封建的身分にかかわらないことがあったが、」「ここにきて、彼は、天皇への熱烈な敬愛を基軸として、国民という意識の、端緒を捉えたといえよう。」

 つまりこのことが、氏が評してやまない松陰の思想の変革です。天皇を除けば、日本人民はすべて平等であるという、彼の思想が近代国家としての日本の土台になるのです。そしてこれが、氏の結論です。

 「後に、松下村下の伊藤博文が、」「あらゆる宗教にかわって、皇室を日本の基軸とし、明治の国家体制を構想したとき、」「松陰が予見した、天皇制的国民の制度が完成されたと、言えよう。」

 古来より国民の敬愛の中心であった天皇を、日本の中心として再び据え、国際政治の荒海へと船出した先人の思想を、平成の今、私たちはもう一度、思い起こす必要があります。

 天皇があってこその「人間平等」であり、武力によらない天皇統治は、反日左翼の者たちが言う、絶対的権力者としての天皇でなく、敬愛の中心としての権威であると知るべきです。

 この天皇制を消滅させる「女系天皇」に賛成するなど、あってはならないことです。ですからたとえ偏見と批判されましても、反日左翼の政治家や活動家の意見を認めません。石破氏も、保守政治家として認めません。安部氏にしても、松陰の純粋さと一途さに比較すれば、保守政治家と素直に肯定できないものがあります。

 本日も、ここで一区切りとしますが、橋川氏に、少しだけ異論を述べます。確かに松陰は優れた人物で、日本の近代国家の礎となりましたが、もう一つ、大事なことがあります。

 それは、松陰の思想を理解し、賛同し、松陰と同様に、命がけで全国を駆け回った志士、町人、百姓がいたという事実です。草莽崛起と松陰は願いましたが、その願いに応えた日本人がいたという事実があります。これが誇るべき日本の宝であると、異論を述べます。

 「松陰先生も立派ですが、これに応えた多くの日本人も立派でした。」と、私はご先祖さまに、感謝と敬意の念を捧げます。

 書評はまだ100ページを残していますが、一番肝心なところを終えましたので、ブログをここで終わりといたします。

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ナショナリズム - 6 ( 忘れられている、松陰の功績 )

2018-09-20 22:54:36 | 徒然の記

 朱子学者大橋訥庵の西洋学批判は本題でありませんので、本日は徳川斉昭の話に戻ります。

 国難に際し、同じく挙国一致を唱えても、斉昭の思想はフランス革命時のそれと比べれば、あまりに差異があると指摘し、その比較で、フランス革命期における、バレールの「国民への訴え」を、橋川氏が紹介しています。

 「すべてのフランス人民は、男も女も老いも若きも、祖国により、自由を防衛するよう、呼びかけられている。」「若者は戦え、妻子ある者は兵器を作り、」「荷物と砲を輸送し、必需品を生産せよ、」「女たちは、兵士の服を縫い、テントを作り、」「傷病兵の看護に当たれ。」「子供たちは、リンネルから包帯を作れ。」

 バレールは、身分や性別や年齢差にこだわらず、すべての国民に呼びかけている。しかるに、斉昭はどうであるかと、氏が比較論を述べます。

 「尊皇攘夷論者の中には、ここに示されたような、挙国一致体制への呼びかけは、ほとんど認めることができない。」「せいぜいそれは、幕閣と封建領主たち、」「ならびに、その家臣団への呼びかけにとどまり、」「一般民衆に対しては、むしろ予想される戦闘地域からの、排除が考えられていたのである。」

 「この心性が前提としてある限り、仮に日本国の意識が生まれたとしても、」「せいぜい封建諸侯の発言権を増大せしめる、という形のものでしかなかったであろう。」「水戸学を中心とする、攘夷思想からは、それ以上のビジョンの生まれてくる可能性は、なかった。」

  酷評する水戸学が、なぜ日本の隅々にまで波及し、幕府の体制を覆したのか。氏は次のように続けます。

 「水戸学の影響から出ながら、ある新しい人間感と、忠誠論の立場に到達し、日本人のネーションの意識に、」「かなり深刻な影響を与えることになった、一人の武士的知識人をとらえ、」「別の角度から、追求することとしたい。」「松陰吉田寅次郎が、その人物である。」

 吉田松陰は、山口県の松下村塾で、幕末の若い志士たちに、日本の未来を教え、塾生たちには、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義等々、多くの人材がいました。私塾だった「松下村塾」は、藩校の明倫館と異なり、武士や町人など、身分の隔てなく塾生を受け入れていました。

 国禁を破り幕府の怒りに触れ、獄に入れられたり、国元で閉門蟄居となったりと、29才で刑死した松陰に関する私の知識はそれくらいで、松陰が水戸学に触れた時期があるとは、氏に教わるまで知りませんでした。

 偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。氏は、松陰の思想の変遷を詳しく追っています。

 説明されたページを何度か読み返し、それでも真意がつかめず、この部分の理解に難渋いたしました。次に頭を悩ますのは、息子たちに氏の思考が、どうすれば伝えられるかという所にあります。

 水戸学の「尊皇攘夷論」を、さらに高め、武士階級だけのものでなく、天下万民の思考となるまでに噛み砕き、死を恐れずに生きた松陰の短い人生に、橋川氏は心酔しているようです。 

 「松陰が水戸を訪れ、会沢正志を始め水戸の長老たちに初めて面会したのは、嘉永四年(1851)、21才の時である。」「すでにそれまでに松陰は、山鹿流の兵学を修め、」「兵学師範吉田家を継いで、独立の兵学者となっていた。」

 しかし水戸で長老たちの精緻な歴史談話を聴き、大いに反省したと言います。

 「身皇国に生まれ、皇国の皇国たるゆえんを知らず、」「何をもって天地の間に、立たん。」と、嘆きました。元々彼は、歴史学を、人間とは如何なる存在であるかを教えてくれる学問と、考えていました。多く学問は事実より論理を大切にし、空論となる場合があるが、歴史は事実を扱い、人間を教えるという考えを持っていました。

 つまり水戸学は理論体系というよりも、それまで多く知ることのなかった、日本の歴史への関心を更に呼び起こし、松陰の思想に影響を及ぼしました。また、松陰の家学である兵学は、勝利に達するための合理性を追求する学問であり、他の学問より、イデオロギーから解放されやすいという側面を持っていました。

 「彼にとって兵学は、もはやたんに、封建諸侯に奉仕する学問でなく、」「全く新たな兵器と戦術を備えた、外敵に対抗しうる、現実の科学でなければならなかった。」

 ということで、松陰は兵学家としての合理的精神を有し、水戸学に触発された歴史学においても、合理的精神で理解を進めました。彼の中にある、普遍的な知識への要求は、封建的な藩体制内に収まるものではありませんでした。その象徴的な事件が、嘉永四年の暮れ、亡命により東北旅行に踏み切ったことでした。

 結果として松陰は士籍を削られ、世禄を奪われる処分を受けますが、藩の枠を超えた有士たちの交流が、ここから次第に広まったと氏が説明します。

 「この交流が、当時において、いかに大きな思想的変化を引き起こしたかは、」「今では想像もできないことであることを、想起しておこう。」

 氏は述べ、徳富蘇峰の書籍中の文章を紹介します。

 「松陰が処分を受けた原因は、ただ彼が、東北遊歴の期日を宮部鼎蔵らと約し、「その約束を重んじ、藩庁から交付さるべき、身分証明書の到達を待たずして、亡命したことにあった。」

 「彼は自覚したるにせよ、せざるにせよ、」「既に長防二州をもって任とせず、天下をもって任としたり、」「亡命の一件は、けだし氏が、天下の士となりし、洗礼と見るも、過当ならず。」

 こうして志士が、藩を超えて横行することが流行し、維新の原動力になったと説明します。そして彼らの多くは脱藩し、浪人という境遇になります。テレビのドラマでは、自由に志士たちが全国を移動していますが、その裏には、松陰の死を賭した行動があったと、これもまた初めて知る「目から鱗」の事実でした。

  「偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。」

 橋川氏の考えを伝えるには、スペースが足りなくなりました。大切な部分ですから、息子たちには、端折らずに伝えなくてなりません。今夜も中途半端ですが、ここで終わります。

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ナショナリズム - 5 ( 国学者、儒学者と要学者の対立 )

2018-09-19 23:33:39 | 徒然の記

 氏の著作を読んでいますと、歴史を知っていると自惚れていた自分が、恥ずかしくなります。

 維新前の事情については詳しいと思っていましたが、とんでもない誤りでした。幕末の雄藩は、薩摩、長州、土佐、肥前で、維新の大業を動かした名高い藩主は 、四賢公だと、名前までそらんじています。

 福井藩第14代藩主の松平春嶽、土佐藩第15代藩主の山内容堂、 薩摩藩第11代藩主島津斉彬、宇和島藩第8代藩主伊達宗城の四人です。

 このうち島津斉彬は、安政5年(1858年)に急死しますが、新たに島津久光が加わり多くの会議で活躍します。会合は俗に「四賢侯会議」などと呼ばれていました。

 しかし氏は、四候に言及せず、水戸藩主徳川斉昭に注目します。幕藩体制を転覆させたのは、「尊皇攘夷」思想で、これは斉昭を中心とした「水戸学」から来たものであるという説明です。氏が詳細を省いていますので、別途で調べますと、次の事実が分かりました。

   ・「尊皇攘夷とは、古代中国の標語を、国学者が輸入し、使ったもので、」「王を尊び、夷を攘う(はらう)の意味である。」

  ・「元々は尊王と書いたが、幕末に尊皇と書き、天皇を意味するようになった。」

  ・「幕末期における、尊王攘夷という言葉の用例は、」「水戸藩校弘道館の教育理念を示した、徳川斉昭の著した書によるものがもっとも早い。」

  ・「幕末に流布した尊王攘夷の出典は、ここに求められる。」

 なるほどそうであったかと、これは「目から鱗」の知識でした。この上で読みますと、氏の言葉がよく理解できます。

 「幕末の、日本貴族層の意識を代表する人物として、」「水戸藩主徳川斉昭を、第一に取り上げることは、おそらく、不当ではないであろう。」

 「嘉永から安政にかけての、政治的激動の一つの中心が、斉昭であったこと、」「幕末における、特異なナショナリズムの理論体系が、水戸学であり、」「斉昭は言わばその、政治面における、最も代表的な、スポークスマンであったことからして、」「まずその思想の吟味から、始めることとしたい。」

  ここで氏は、斉昭を貴族という名称で呼んでいますが、フランスのルソーにこだわるあまり、違った呼称を無理やり使っています。斉昭は、武家であり、貴族ではありません。古来日本では、武家に相対する者として貴族があり、公家とも呼ばれていました。

 「武力をもって朝廷に仕える鎌倉幕府が、武家と呼ばれるようになると、」「従来の貴族は、政務一般で朝廷に奉仕する文官、」「すなわち公家と呼ばれるようになった。」

 武家と公家(貴族)が別物であると、言いますのは、身分制の再構築が図られた江戸時代に、「禁中並公家諸法度」が制定されているからです。これは従来の貴族階層に対し、幕府側が統制する法であり、徳川家の斉昭は、対象になるはずがありません。本題と無関係な些事なのか、基本的な重要事なのか、自分には分かりませんが、氏のこうした理論のほころびがなぜか気になる私です。

 氏は、斉昭の思想を明らかにするため、斉昭が幕府に提出した意見書を取り上げます。長いだけでなく、古文なので、私たちには馴染めません。氏が要約した、説明文がありますので紹介します。

  「斉昭の述べるところは、何よりもまず、」「キリスト教の、政治謀略的性格に対する、強い疑念を表明することに始まり、」「西洋は、交易を求めるという口実を用いているが、」「その商船・鯨船は、直ちに軍艦となり、決して、油断してはならないとか、」

 「大船は見かけしだい、二念なく打ち払うべしとか、」「オランダを窓口とする、海外情報の聴取も、」「日本のため毒にも薬にもならない、無駄ごとなので、」「交易も停止すべきとか、」「蘭学にも取るべきものが見えないので、ご禁制されるが良いとか、」

 「むしろ鎖国政策を倍加するような提案を、次々と述べている。」「その全体を貫くものは、日本国の優越性への、不動の信念と、」「一方では、外国の宗教と科学、とくにその政略に対する、首尾一貫した猜疑心と,蔑視であったと言えよう。」

 幕末の諸大名は、西欧の文明にひたすら敬服し、外界を知らない井の中の蛙とばかり思っていましたので、斉昭の考えを知り、意外感に打たれました。日本の指導者たちが、無知蒙昧でなかったという発見です。もう一つ驚いたことは、斉昭を中心とする国学者と、昌平校の儒学者と、西洋の学問を是とする学者たちの対立です。

 中身は違いますが、保守を任じる人間たちが、国をないがしろにする反日左翼と、対峙する姿を思わせます。ともに譲らない頑固さがあり、歴史の繰り返しを見ているような気がします。本論と離れますが、身につまされますので、あえて紹介します。朱子学者大橋訥庵の書籍からの引用と、説明されています。

 「一度洋学に入りたる者は、必ず西洋贔屓になりて、」「国体の異なることを、たえて弁ぜず、」「何もかも西洋のごとくにせざれば、是ならぬことと、思えるさまなり。」

 「内外の医方も、西洋にしくものは無しと言い、」「平生の器物も、西洋に擬したるを尊びて、ひとつとして、西洋の説にあらざるものはなし。」

 「平日の言論上も、泰西・西洋などとは呼べども、」「決して、夷狄の言を用いることなきは、」「いつか彼をも、我が国と同じと思いて、敵視すべきことを、忘れしなり。」

 私たちが、反日左翼の人間たちを批判する姿も、後世の日本人から見れば、似たものに見えるのでしょうか。いつの時代の日本にも、対立する人間がいて、さまざまな考えがあったのだと教えられます。時の試練に耐えた思想が、折々の思潮となり、歴史が動いていくのだという教えでもあります。

 保守だ左翼だ安部だ石破だ、愛国だ反日だと攻撃し合わなくとも、日々を正しく生きていれば答えが出ると、そんな気持ちにさせられました。穏やかな気持ちになれたましたので、本日はここで終わりたくなりました。

 猛暑の夏が去り、窓から入る夜風はすっかり秋の気配です。「ねこ庭」には、白い秋明菊が咲きました。

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