ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 12

2024-08-27 08:08:44 | 徒然の記

            第三段階  日本国憲法制定

    1.    極東委員会決定とマッカーサー書簡

    2.   日本国内における憲法改正の検討の動き

 本日は上記 1. 2.毎に、「驚きの事実」と「目から鱗の事実」を紹介します。

   1.    に関する「驚きの事実」

    ・マッカーサー元帥の予測通り、「極東委員会」がGHQの政策に横槍を入れてきたこと

    ・元帥が、「マッカーサー書簡」を日本政府に出したこと

    ・その書簡で、憲法施行後 2年以内であればと憲法改正の検討を容認していたこと

    ・吉田首相がマッカーサー書簡に、積極的反応を示していなかったこと

   1.    に関する「目から鱗の事実」

    ・元帥が「マッカーサー憲法」を作らせていなかったら、「極東委員会」の介入で天皇制が無くなったかもしれないこと

    ・「マッカーサー書簡」で改正の検討が正式に容認と言われているので、「押しつけ憲法」と主張できなくなる可能性が出てきたこと

 「ねこ庭」ではこういう分類にしましたが、人によっては分類が逆になるのかもしれません。あるいはどちらも「驚きの事実」で、「目から鱗の事実」と考える人がいる気もします。

 単純でもあり、複雑でもありと前回言いましたのは、この点を指しています。これを自覚した上で、次に進みます。

   2.    に関する「驚きの事実」

    ・吉田内閣の退陣後の片山内閣、芦田内閣でも、国会で憲法改正の検討が進まなかったこと

    ・世論の強い支持がないことを理由として、憲法改正の検討が立ち消えとなったこと

    ・シリーズ7回で紹介した「公益社団法人 自由人権協会」の意見が、根拠を失ったこと。同協会の意見は、下記だった。

    ・「当時の多くの国民や学者、研究者にとっては、憲法は、敗戦後の日本の未来をつくる輝かしい出発点として、議論され受け入れられました。」

    ・「そうであったからこそ、その後何度も、憲法改正が声高に叫ばれた時期があったものの、改憲論は主流とはなりえず、戦後65年の間に国民の間に定着したのです。」

   2.    に関する「目から鱗の事実」

    ・昭和24 ( 1949 ) 年4月20日、2年後に再登場した吉田首相が、衆議院外務委員会で、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁していたこと

 国民に知らされていない事実ばかりですから、「政府資料説明」は、どこを読んでも「驚きの事実」と「目から鱗の事実」になります。

 しかし私たち国民が、本当に驚き、目から鱗の事実としなくてならないのは、暗殺された安倍首相のことではないでしょうか。

 「政府資料説明」が作られたのは平成28年の11月、第三次安倍内閣の時です。先のシリーズで研究したのに、「ねこ庭」が西田氏への不信感が拭えなかったように、安倍首相の名前を聞くと不信感と嫌悪を拭えない人々がいます。
 
 しかし安倍氏は口先だけで「憲法改正」を唱えていたのでなく、このような資料を衆議院の「憲法調査会」の審議のため、憲法審査会事務局に作らせていました。政府にとって都合の良いことも悪いことも調べさせ、国会での審議に役立てようとしていたのです。
 
 安倍首相だけでなく、過去に本気で「憲法改正」を口にした政治家が命をなくした例を、知る人は知っています。
 
 岸田首相は運良く暗殺されませんでしたが、演説会場で若い男から手製の爆発物を投げられています。評判の悪い岸田首相でしたが、戦後史の大河の前に立って眺める時、安倍氏と似たものを感じます。
 
 「憲法改正」を本気で進める首相は、国内外の反対勢力によって暗殺される。
 
 「政府資料説明」を読んで、「ねこ庭」が、息子たちと訪問される方々に紹介したかった、「驚きの事実」と「目から鱗の事実」はこれでした。
 
 安倍氏の逝去と共に、貴重な資料も生かされることなく政界の大河に流されていくような気がいたします。私の心境も大きく変化いたしました。
 
 突然ですが、資料の紹介は半分も進んでいませんけれど、当初の目的の半分を達しましたので、今回でシリーズを終わりたくなりました。
 
 酷暑の夏が過ぎましたら続きを再開するかもしれませんが、その時はまたおつき合いください。
 
 ・私がもし総理になったら、「憲法改正」を内閣の第一優先政策とします。そのために内閣が倒れるとしても、国のため、国民のため命をかけてやります。
 
 青山繁晴氏は、【僕らの国会】で訴えています。
 
 「憲法改正」を公言して立候補しているため、金儲け優先のグローバリスト集団のマスコミは、最初から氏を無視しています。反日左翼勢力とリベラル議員たちも不利益を感じて、氏に近づきません。
 
 連日報道される「自由民主党の総裁候補者」の中に、青山氏は一度も出てきません。最後に次の言葉を述べて、シリーズの締めくくりといたします。
 
 「ねこ庭」は「政府資料説明」を中断しても、「憲法改正」の主張は変えませんので、孤軍奮闘している青山繁晴氏への支援を続けます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 11

2024-08-26 18:41:43 | 徒然の記

          第三段階  日本国憲法制定

    1.    「極東委員会決定」と「マッカーサー書簡」

    2.   日本国内における憲法改正の検討の動き

 目次に従って、「政府説明」を紹介します。

 〈 1.    「極東委員会決定」と「マッカーサー書簡」 〉 

  ・帝国憲法改正案は、昭和21 ( 1946 ) 年10月7日に議会を通過したが、極東委員会の内部では、日本におけるこの手続がポツダム宣言等の意図した、日本国民の自由な意思の表明に当たるかどうかを疑う声があった。

  ・そこで、日本国憲法公布直前の10月17日、極東委員会は、新憲法が真に日本国民が、自由に表明した意思によってなされたものであることを確認するため、日本国民に対して、その再検討の機会を与えるべきである旨を決定した

 「日本の新憲法の 再検討に関する規定」と呼ばれるこの決定は、本当に11月3日の交付直前に出されています。

 マッカーサー元帥がこの規定に基づき、翌年の昭和22 ( 1947 ) 年1月3日に、吉田首相宛に次の内容で文書を出します。

 ・「憲法施行後1、2 年以内に憲法改正の検討をすることと、憲法改正の国民投票を容認する。」

 ・この「マッカーサー書簡」に対し、吉田首相は次のように返信した。

 ・「内容を子細に心に留めました。」

 ・なお3月27日、極東委員会の決定 ( 「日本の新憲法の再検討に関する規定」 ) が日本国民に向け公表された。

 同年5月3日から新憲法が施行されますので、極東委員会がマッカーサー元帥にギリギリまで抵抗していた事実が明確になりました。「政府説明」は参考資料として、当該規定を掲載しています。

 〈【参考】「日本の新憲法の再検討に関する規定」〉( 極東委員会が決定・公布  )

   1.   公布の後相当の期間をへて、極東委員会の検討と政策決定の結果、加えられた変更又は加えられるかもしれない変更とともに、現行の憲法の法的な継承者となる新憲法は、次項にかかげるところによつて、国会と極東委員会とによる再審査をうけるものとする。

     2.   日本国民が、新憲法の施行の後、その運用の経験にてらして、それを再検討する機会をもつために、かつ、極東委員会が、この憲法はポツダム宣言、その他の管理に関する文書の条項を充たしていることを確認するために、

       ・本委員会は、政策事項として、憲法施行後1年以上2年以内に、新憲法に関する事態が国会によって再審査されねばならないことを、決定する。

    ・極東委員会もまた、この同じ期間内に憲法の再審査を行う。ただし、このことは、委員会が常に継続して権限を持っていることを損うものではない。

      ・極東委員会は、日本国憲法が、日本国民の自由な意思を表明するものであるかどうかを決定するにあたって、国民投票、又は憲法に関する日本人の 意見を確かめるための、他の適当な手続をとることを要求できる。

 政府説明の1項目はこれで終わり、続けて2項目に入ります。

 〈 2.  日本国内における憲法改正の検討の動き 〉

  ・しかし、憲法施行直前に吉田内閣は退陣し、後継の片山内閣・芦田内閣時代においても、国会における憲法改正の検討は進まなかった。

  ・結局、憲法改正への世論の強い支持がないことを主な理由として、国会における憲法改正の検討は立ち消えとなり、

  ・昭和24 ( 1949 ) 年4月20日、衆議院外務委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と、吉田首相が答弁するに至った。

  ・なお、そもそも吉田首相は、「憲法改正」は、国民の総意が盛り上がって改正の方向に結集したときに、初めて乗り出すべきものと考えていたとされている。

 以上で「第三段階」の「政府説明」の全てを紹介しました。気づかれた方がいると思いますが、この中に「目から鱗の事実」と「驚きの事実が」含まれています。

 簡単と言えば簡単、複雑と言えば複雑なので、残されたスペースでは説明しきれません。申し訳ないことですが残りを次回にしますので、「目から鱗」の事実を確認し「ねこ庭」と共に驚きたい方は、ぜひ次回へ足をお運びください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 10

2024-08-26 13:20:31 | 徒然の記

 枝葉の説明が詳し過ぎ主題が不明確になるという、大薮教授のダメな論文のようにしないためには、現在、テーマのどの部分を紹介しているのかを、「ねこ庭」を訪問される方々にだけでなく、本人である自分が分かっていることが大切になります。

 ここで初心に戻り、「政府説明資料」の目次を確認のため書き出します。現在は第二段階が終わり、赤字で表示した第三段階にかかろうとする位置にいます。 

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

          第一段階   マッカーサー草案の提示まで

       第二段階   マッカーサー草案提示後~日本国憲法の制定まで

              第三段階  日本国憲法制定

 【 2  】日本国憲法の制定過程に関する主な論点  ( 日本国憲法の制定経過を問題視する主張について )

            論点1   改正の限界論をめぐる議論との関係·

            論点2   憲法の自律性(いわゆる「押しつけ憲法論」)

            論点3   ハーグ陸戦法規との関係

 【 3  】日本国憲法の制定過程に関するこれまでの議論

   1   衆議院憲法調査会における議論

   2   内閣の憲法調査会における議論

 え、まだこんなところでウロウロしているのかと、びっくりされる方がいるのかもしれません。あるいは目次を見ただけで、うんざりし「ねこ庭」を離れていく方がいるのかもしれません。

 しかし私は驚きもしませんし、シリーズをやめる気もありません。「憲法改正」が簡単なことなら、79年間もそのままになっているはずがありません。国会での激論だけでなく、それ以外の場所で保守と反日勢力が争い、死傷者まで出して衝突をし、それでも「憲法改正」は実現しません。

 対立する保守と反日の双方に言い分があり、二つの正義がぶつかっているため、簡単に結論が出ません。その困難な「憲法問題の制定過程」を政府が説明しているのですから、簡単に終わると考える方がおかしいのです。

 日本一頭の良い政府官僚諸氏が知恵を絞った説明資料を、普通の頭しかない「ねこ庭」の住人が紹介するのですから、シリーズが簡単に終われるはずがありません。

 そんなことは分かっているから、長い前口上を止め早く説明をしろと、怒っている方の声を信じて、「 第三段階  日本国憲法制定」の紹介に入ります。

 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々を安心させるために言いますと、第三段階の内容は下記の 2項目しかありません。

   1.    極東委員会決定とマッカーサー書簡

   2.   日本国内における憲法改正の検討の動き

 項目のタイトルは簡単で、政府の説明文も長くありません。しかしこの説明文の中には、戦後79年間の国民の汗と涙が閉じ込められています。

 二、三行読むたびに、日本の戦後史という大河に浮かんでは消えた多くの人々の姿が見えてきます。

 シリーズの6回目で生じた心境の変化を、今回も述べなくてなりません。

 ・戦後史という大河の流れに望んで眺めれば、これらの人々は皆日本の国民です。

 ・聖徳太子の言葉を借りて言いますと、意見が違っても争っていても、「和をもって尊しとなす」です。

 ・お互いの存在を認め合うのが本来の日本人ですから、「ねこ庭」も聖徳太子を見習おうと努力しています。

 ・戦後史の大河に消えた多くの政党と、故人となった政治家たちの名前と顔を考え、悲喜交々の人間模様を知りましたので、過去の個々人を憎む気持だけは捨てました。

 右か左か、保守か反日かと、物事が二つに分けられない複雑さを、「政府説明文」を読む過程で改めて知りました。

 「ねこ庭」ではこのシリーズ以前、南原東大総長を反日左翼の親玉として批判攻撃していましたが、違う顔を知りました。息子たちのためには、リベラリストとしての氏の意見も紹介しておく必要を感じます。

 大薮教授の論文を超える、まとまりのない話になるのを覚悟し、南原氏の国会発言を紹介します。

 〈 昭和21年8月27日 貴族院本会議での吉田首相への質問 〉

  ・歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へるということは、是は当然のことである

  ・将来日本が国際連合へ加入する場合、国連憲章で認められた自衛権と、国連軍への兵力提供義務の双方を放棄するつもりなのか

  ・また講和会議においても、最小限度の防衛をも放棄するのか

  ・もしそれならば、既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない

 この質問は、新憲法案の「戦争放棄条項」についてのもので、これに対する吉田首相の発言があの有名な「曲学阿世の徒」です。「ねこ庭」にとっては、南原総長も吉田首相も歴史の大河に消えた人々、ご先祖様です。聖徳太子の教えを真似ようと、努力しています。

 「戦後史という大河の流れに臨んで眺めれば、これらの人々は皆日本の国民です。」

 支離滅裂のシリーズとなりましたが、次回は「 第三段階  日本国憲法制定」の紹介に入ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 9

2024-08-25 20:21:26 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

          第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

        第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

              第三段階  日本国憲法制定

  第二段階の「政府説明」は、「マッカーサー草案」が日本側の検討を経て「憲法改正草案要綱」となり、さらにこれが衆議院、貴族院両院の審議を経て「日本国憲法」として公布されるまでの流れを説明しています。

 我妻氏が講演会で述べた下記日程と照らし合わせながら読むと、南原総長の影の苦労が伺えます。

  ・昭和21年2月14日   南原総長の発案で、学内に「憲法研究委員会」を設けた

  ・昭和21年3月6日  突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された

             これについて討議決定し、第一次報告書を作成した

  ・昭和21年4月17日   次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した

 特にコメントをせず「政府説明」をそのまま紹介しますが、注意深く読むと、学徒の好奇心が満たされます。クーデターでしかできない「憲法改正」作業を、自然な流れであるように説明していますけれど、一番苦労した部分だと思います。

  ・総司令部案に基づく日本案の起草作業は、それを日本語に翻訳するというかたちで、まず「3月2日案」にまとめられた。

  ・その主要な特色は、内容を整理するとともに、表現を改めることによって、できるかぎり日本側の主張を生かそうと試みたところにある

  ・【参考】「3月2日案」の主な特色 (総司令部案との主な相違)

     1.  前文を省略

    2.  天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思」を「日本国民至高ノ総意」と改めた

                (主権が天皇から国民に移るという、革命的な変革を条文上明記することを回避する趣旨)

    3.  天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛」を「補弼」に変更

    4.  2月13日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」条文である「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表トシテノ国家ニ帰属ス」を削除

    5.  一院制を二院制に変更

    6.  国会召集不能の場合における、応急措置に関する「閣令」規定の追加

     ・「3月2日案」は、同月4日に総司令部に提出されたが、総司令部から早急に確定案を決定したいという意向が示され、同日から5日にかけて徹夜の折衝が行われた。

 ・これは「3月2日案」を英訳し、英文に整えたものをさらに正確に内容を伝えるような日本語に再び翻訳するという作業で、全条項にわたり詳細な検討が行われた。

   ・3月6日、全条項について合意に達した結果が「憲法改正草案要綱」として決定され、国民に公表された

    ・草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、参議院の緊急集会制の新設など若干の点に修正が加えられた。

  ・それと並行して要綱を成文化する作業が進められ、4月17日、我が国で初めてのひらがな口語体の条文が作成され、それが枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。

 ここで我妻氏が語った「憲法案」検討日程と照らし合わせますと、4月17日という日付が一致します。

  ・昭和21年4月17日   次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。

 「憲法案」の名称が様々あるので戸惑いますが、「ねこ庭」は「政府説明」にある「日本側の検討・要望・修正」は、日本の憲法の第一人者である宮沢教授が深く関与していると推察します。

   ・内閣草案の公表に先立つ4月10日、はじめて女性の選挙権を認めた普通選挙制による総選挙が行われ、5月22日に第一次吉田内閣が成立した。

  ・枢密院で可決された内閣草案は、明治憲法73条の定める手続に従い、6月20 日、新しく構成された第90回帝国議会の衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書もって提出された。

 ・衆議院は、原案に若干の修正を加えたのち、8月24日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付した。

 ・貴族院の審議は8月26日に始まり、ここでも若干の修正が施され、10月6日これも圧倒的多数をもって可決された。

  ・翌10月7日、衆議院がその修正に同意し、帝国議会の審議が完了した。

  ・改正案は枢密院の審議を経て、10月29日天皇の裁可があり、11月3日 「日本国憲法」として公布された。

 ・日本国憲法は、昭和22 ( 1947 ) 年5月3日から施行された。

 次回は、「第三段階  日本国憲法制定」に関する政府説明を紹介します。この中に、「目から鱗」の事実が含まれていますので、ぜひ「ねこ庭」へ足をお運びください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 8

2024-08-25 14:12:00 | 徒然の記

  戦後の日本が抱える最大の課題となってる「憲法改正問題」で、吉田首相やマッカーサー元帥、あるいは宮沢氏に注目する人がいても、南原繁氏に焦点を当てる人はあまりいません。

 しかし憲法改正の流れを検討してみますと、南原氏が重要な役割を果たしていることが分かります。

 ホイットニー民政局長か、ケーディス大佐からなのか、絶妙のタイミングで極秘の「マッカーサー草案」を受け取り、学内の学者たちに検討させています。

 表には出ませんが、GHQとのやりとりを氏が行なっていることは、我妻氏の講演会での説明が教えていました。 

  南原氏の存在がなかったら、「日本国憲法」は制定できなかったかもしれない。

 こんな推測をするのは「ねこ庭」だけのようですが、検討する価値はありそうです。南原氏は著名人なので、探せば情報が見つかると思っていましたが、予想が外れました。

 東大総長としての氏に関する情報は、ウィキペディアに限らず沢山ありますが、GHQとの関係を教えるデータは見つかりませんでした。

 諦めかけていた時、富山国際大学・子供育成学部大薮俊宏教授の11ページの論文を見つけました。

 〈 戦後教育改革と戦時期南原繁の教え哲学 〉( GHQが「畏敬」した「洞窟の哲人」)

 分かりにくいタイトルがつけられていて、内容も読みにくい文章です。南原氏の専門は政治学ですが、大薮氏の説明では教育問題の専門家として語られています。

 GHQが畏敬したと書いてありますが、どんなところで、どのように畏敬したのかが分かりやすく書いてありません。戦前から氏はアメリカの教育界の専門家と交流があり、そのアメリカの専門家が、日本の教育改革のためやってきたGHQのメンバーだったと、そういう話のようです。

 GHQが畏敬していたのでなく、GBQの教育改革委員会のメンバーに尊敬されていたようですが、それがどうして「憲法改正」作業とつながるかについては、具体的に書かれていません。

 大薮教授の論文が分かりにくいのか、「ねこ庭」の理解力が無いのか、またテーマを外れますが参考のため一部を紹介します。忙中閑あり、知識の遊びも、息抜きになります。

 ・戦後教育改革の「教育基本法」や 「6・3・3制」は、米国流教育制度の直輸入なのか。

 ・これは、戦後教育の本質的理解に関わる。

 ・憲法制度をめぐる吉田茂らの動きと対照することによって、南原繁らによる戦後教育改革が有する連合軍進駐以前の、戦前・戦中期に遡る一貫性の一端を明らかにしつつ、南原茂がGHQに及ぼした影響力に焦点を当てる。

 枝葉の説明が詳し過ぎると主題が不明確になるという、ダメな論文の見本みたいで、読むほどに分からなくなります。GHQとの関係が知りたいのに、関係のない話にどうして力を入れるのかと、苦情が言いたくなります。

 これはまさに「ねこ庭」のブログと同じで、話があちこちへ飛び、読者はうんざりさせられます。自分の反省も加えながら、南原氏とGHQの叙述を探します。

 ・昭和20年8月30日にマッカーサーが厚木の飛行場へ降り立つと、連合国軍の総司令部が東大を接収して設置されると言う噂が流れた。

 ・この段階で先手を打つようにして、南原法学部長と内田総長が文部省を訪ねて、戦時中にも軍の接収を断って大学の使命を継続したことを、占領軍に理解してもらうよう交渉している。

 ・東大は軍の接収を断り続けたという実績が功を奏し、占領軍の接収を免れることとなり、GHQは日比谷の第一生命ビルを接収する。

 要するに大薮教授が説明しようとしているのは、南原氏が、日本軍に対しても、政府に対しても、GHQに対しても、「学問の自由と独立」を守るためなら妥協しない人物だったと言うことです。

 戦前から信念のある人物だったので、米国の教育界の学者に敬意を持たれていて、その学者だったか、同僚だったか、教え子だったかが、日本の教育改革のため組織されたGHQの委員になっていたと、どうもこんな話です。

 米国教育界内部の話が、対立する学者との関係で説明され、これが又軍人になって、上司と部下になったりと、詳細などうでも良い説明が続くので、必要な箇所が簡単に見つかりません。

 探すのに疲れますので作業を中断し、「ねこ庭」が理解した範囲での結論を紹介します。

 ・南原氏とGHQそのものとの関係は友好的でないが、教育改革委員会の主要メンバーに氏は高く評価されていた。

 ・南原氏の一貫したリベラルな態度が、やがてGHQの信頼を得ることとなり、「憲法改正」作業への橋渡し役につながった。

 「ねこ庭」の理解が正しいかどうかは、訪問された方々の判断にお任せします。関心のある方は、ネットで調べられると良いのではないでしょうか。

 話を切り上げて先へ進もうとしているのは、大薮氏の論文のように散漫なシリーズにしないためです。今回のテーマは、「憲法制定に関する政府資料」の紹介でした。

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

         第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

           第三段階  日本国憲法制定

 上記三段階の第一段階が終わり、次は第二段階の紹介です。もしかすると「ねこ庭」のシリーズは、大薮氏の論文どころでない「散漫さ」で訪問される方々を悩ましているのかもしれません。

 「目から鱗」の話を紹介すると言いながら、まだしていません。酷評した大薮教授にもお詫びしながら、次回の予定を述べます。

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 7

2024-08-24 13:31:52 | 徒然の記

 前回の約束通り、メインテーマを外れますが、変節した学者たちが残した厄介な遺物の一つを紹介いたします。

 公益社団法人「自由人権協会」が公開している、「憲法制定の経緯」がそれです。同協会は元法務省の所管でしたが今は離れて、次の活動を行なっています。

  ・人権侵害救済のための、訴訟支援事業

  ・基本的人権の擁護に関する調査研究、講演、出版、意見表明などの活動

 昨日はネットで読めましたが確認のため今日探しますと、「憲法制定の経緯」の説明文が消えていました。事情があって消したのかどうか分かりませんが、「ねこ庭」で紹介すると問題になるのかと気になります。

 goo事務局から警告や苦情がありましたら、即座に削除しようと思っていますので、「ねこ庭」を訪問された方々に予めお知らせしておきます。

〈 憲法制定の経緯 〉

 ・日本国憲法の「素案」となるものが、敗戦の翌年2月に、連合国最高司令官であるマッカーサーから示され、その後の論議はこれを出発点としたのも、そのとおりです。

 ・今の憲法は、アメリカに押しつけられたもの、屈辱的なものだから、独立した国家になった以上、憲法を改正するのが当然だという主張は、このような憲法ができる過程を問題にしています。

 ・しかし、憲法のつくられた過程を見れば、その主張は、あまりに自虐的であることがよくわかります。

 ・たしかに、憲法制定当時、戦前同様に「天皇主権」を信奉していた人々にとっては、「国民主権」や「基本的人権が最高の価値であること」を宣言する憲法は、天地がひっくり返るほど非常識に思われ、それでも「天皇陛下をお守りするために」受入れなければならない屈辱的なものだったでしょう。

 ・しかし、当時の多くの国民や学者、研究者にとっては、憲法は、敗戦後の日本の未来をつくる輝かしい出発点として、議論され受け入れられました。

 ・そうであったからこそ、その後何度も憲法改正が声高に叫ばれた時期があったものの、改憲論は主流とはなりえず、戦後65年の間に国民の間に定着したのです。

 これが同協会の基本的な考え方で、この視点から意見が展開されます。

 ・では、憲法はどのようにしてできたのでしょうか。

 ・マッカーサーが短期間でつくった草案を時の日本政府が押しつけられてそのままこの憲法となった、と思っている方があれば、それは間違いです。

 ・1945( 昭和20 )年8月の敗戦以降、「大日本帝国憲法」はある程度自由主義化して修正せざるを得ないと政治家も考えていました。

 ・しかし、当時の日本の政治の中心にいた人々は「天皇主権」の戦前の考え方の呪縛から完全に脱することは難しく、政府の委員会が考えた改正案も、民間から出た改正案の大部分も、「天皇主権」を前提に国民の権利を多少拡大するにとどまるものでした。

 東大の南原総長や我妻氏、あるいは憲法学の第一人者宮沢氏のような人物がいたのですから、まんざら間違った意見ではありません。

 ・そのような中で、翌1946(昭和21 )年2月には、内閣に設置された「憲法問題調査委員会」で議論されていた、松本烝治国務大臣の作成したいわゆる「松本案」が新聞にスクープされました。

 ・しかし、その内容があまりに保守的で「大日本帝国憲法」と変わらなかったために、マスコミからも国民からも非難が相次ぎました。

 ・他方、マッカーサーの率いる総司令部には別の心配がありました。

 ・2月末にアメリカ以外の国も参加する「連合国極東委員会」が開催される予定で、日本の憲法改正問題が議題となる際に、民主化の遅れが指摘され、当時高まっていた天皇制廃止の国際的世論を押さえられなくなる可能性がありました。

 ・総司令部には、国際世論を押さえて天皇制を温存した統治を進めるためにも、世界が認める民主的な憲法改正案が日本政府の手で準備されつつあることを早く示そうとの配慮があったようです。

 「政府資料の説明」と重複する意見がありますが、元法務省の所管協会ですから当然です。復習のつもりで読みました。

 ・しかし、スクープされた「松本案」では全く逆効果になります。

 ・そこで総司令部は、既に調査していた先進的な民間の「憲法研究会案」をも消化して、急遽いわゆる「マッカーサー草案」を作成し、2月13日、極秘のうちに政府に手渡し改正を促しました。

 ・たしかに、この「マッカーサー草案」の内容は、「国民主権」に基づき「基本的人権の尊重」をうたったいまの憲法の原型です。

 ・総司令部は、「この草案の考えを受け入れるか否かは日本政府の判断である」と言いました。他方で、受け入れなければ、「国民に公表する」とも言いました。

 ・当時の国民が、古色蒼然とした「松本案」ではなく、「マッカーサー草案」の方針を歓迎することは明らかでした。

 ・その場合、政府に対する反発が天皇制を廃止する方向に向かうのではないかという懸念を、政府は抱きました。

 この辺りの説明になりますと、「事実が半分、推定が半分」と言う色合いが出てきます。しかし全くの嘘ではないと言う、曖昧な意見になります。

 ・当時の日本政府の顔ぶれを見れば、「マッカーサー草案」を心底理解して歓迎した人ばかりではなかったでしょう。

 ・しかし、政府は大局的見地から「マッカーサー草案」を受け入れて活かす道を選択し、その後は、内部での議論をし、総司令部と協議し、

 ・一院制を二院制としたり、最高裁判所に違憲立法審査権をもたせたりする変更を加えて、1946 ( 昭和21)年3月に、憲法のどこを改正するかを説明した「憲法改正草案要綱」を国民に対して発表しました。

 ・この要綱に対する国民の反応はおおむね好評だったと、政府の調査にも記されています。

 敗戦後の混乱した日本で、国民は明日の食べ物の確保のため、懸命になっていました。調査に応じた国民とは、誰だったのでしょう。いったい何人だったのでしょう。

 同協会の説明に、「ねこ庭」の学徒の単純な疑問が生じます。

 ・そして、衆議院の総選挙(このときから婦人参政権が認められています)をその年の4月に行い、政府が作成した憲法改正草案は、新しく選出された議員によって構成された衆議院に提案され審議が行われました。

 ・その結果、8月24日、421対8の圧倒的多数の賛成で可決されたのです。

 この説明も事実を調べている「ねこ庭」からみますと、「事実が半分、説明不足が半分」です。全くの間違いと言えない「曖昧」な意見です。

 ・もちろん、衆議院では実質的な論戦があり、その過程で修正もされましたし、内容に賛成できない議員は最後まで反対を貫いて反対票を投じたのです。

 ・本当に総司令部が押しつけたのであれば、反対票を投じることもできなかったでしょうが、僅かとはいえ、反対した議員もいました。

 ・それ以外の大多数の議員たちは、自らの判断で賛成票を投じたのです。

 ・もともと「大日本帝国憲法」の改正手続にのっとっていますから、衆議院以外に枢密院と貴族院でも議論がなされ、修正も加えられて可決されています。

 同協会の詭弁が、ここで行われています。簡単な、常識的な話をしますと、「日本国憲法」は「大日本帝国憲法」を根本から否定する憲法です。

 「憲法が憲法を否定する改正手続き」というものが、果たして有り得るのかと言う疑問が生じます。中西輝政教授は、そう言うことができるのはクーデターしか考えられないと語っています。

 国民の無知を幸いと、同協会の説明は捏造の色が濃くなります。

 ・つまり日本国憲法は、総司令部から促された案が出発点ではあったものの、国民に歓迎された内容であり、その後、国民の代表者が議論し賛成してつくったものなのです。

 ・ずっと後になって当時の総理大臣吉田茂は、「私は制定当時の責任者としての経験から、押しつけられたという点に、必ずしも全幅的に同意し難いものを覚えるのである。」

 ・として、政府案を作成する過程について、最初は総司令部からせかされ、内容に注文があったことを認めつつ、その後のやりとりは、総司令部は徹頭徹尾強圧的もしくは強制的というのではなかった、わが方の担当者の意見に十分耳を傾け、わが方の言分、主張に聴従した場合も少なくなかったと述べています。

 吉田首相の発言の根拠として、昭和12年に新潮社が出版した同氏の著書『回想十年』を挙げています。「ねこ庭」がシリーズを書くにあたり根拠にしているのは、昭和42年に日本経済新聞社が出版した同氏の著書、『日本を決定した百年』です。

 読む人の立場が、受け取り方を変化させるのかもしれませんが、吉田元首相はそんな言い方をしていませんでした。

 いずれの意見が正しいかと、そのような話をしているのではありません。今回のテーマは、変節した学者たちが残した厄介な遺物の一つとしての、「自由人権協会」の意見の紹介です。

 戦後レジームの遺物である「憲法改正」をどう進めていくのか、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に参考情報として取り上げました。

 次回はこれも又テーマから外れますが、南原繁氏はいったいどこでGHQと接点を得ていたのかにつき、検討します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 6

2024-08-24 07:01:30 | 徒然の記

 まず、政府説明にある事実を整理しますと下記の通りです。

  ・昭和21年2月1日  松本案「憲法改正要項」が毎日新聞にスクープされた。

  ・昭和21年2月3日  マッカーサー元帥が驚き、ホイットニー民政局長へ「マッカーサー三原則」を指示

  ・昭和21年2月4日  ホイットニー局長が、総司令部案作成にかかった

  ・昭和21年2月8日  日本政府が、松本案「憲法改正要項」を総司令部へ提出

 次に、我妻氏の説明にある事実を整理して並べます。

  ・昭和21年2月14日   南原総長の発案で、学内に憲法研究委員会を設けた。

  ・昭和21年3月6日  突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された

             これについて討議決定し、第一次報告書を作成した

  ・昭和21年4月17日   次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。

 つまりホイットニー局長の指示で作成された「マッカーサー草案」は、極秘で南原総長へ渡され、憲法研究委員会で逐条審議が重ねられていたのです。審議委員会のメンバーの名簿があります。

 再度紹介しますので、確認してください。

 委 員 長   宮沢俊義 ( 法学部 )

 特別委員 高木八尺 ( 法学部 )  杉村章三郎           岡 義武         末弘厳太郎

      和辻哲郎 ( 文学部 )  舞出長五郎 ( 経済学部 )

 委  員 我妻 栄 ( 法学部 )  横田喜三郎           神川彦松           尾高朝雄

      田中二郎        刑部 荘             戸田貞三 ( 文学部 ) 

      板沢武雄       大内兵衛 ( 経済学部 )       矢内原忠男

      大河内一男         丸山真男 ( 法学部助教授 )  金子武蔵 ( 文学部助教授 )  

  著名な教授たちの中にはマルキストもいますし、愛国者だったのに変節した人物もいますが、一番有名だったのは宮沢俊義氏で、憲法学では日本の第一人者と言われていました。

 えっ、こんな人物も仲間だったのかと、驚く名前もあります。こうした著名な教授が、嬉々として「マッカーサー草案」を検討したのですから、総司令部と国内の反日左翼勢力が喜びました。

 「アメリカの押しつけなんてとんでもない。日本人が自主的に作ったんだ。」

 と、こんな意見が出てくるようになりました。だから「ねこ庭」では7年前、名簿にある教授を「変節した学者たち」と呼び酷評しました。

  ・委員のうちの相当の数が貴族院議員や、法令制定を任務とする委員会の委員となったので、その際には、「憲法研究委員会」で得た知識を活用した。

 講演会で我妻氏が語っていたように、東大の左翼教授たちは政府委員として、あるいは国会議員として、その発言が重要視されるようになります。

 東大だけにとどまらず、関西、近畿、中部、中国、四国、九州、北海道と、左系・リベラル系教授たちの連携が広がり、GHQと阿吽の呼吸で通じた彼らが学界の一大勢力となりました。

 彼らは「日本学術会議」や「東大社会科学研究所」のメンバーになり、現在の「憲法改正反対勢力」の先頭に立つ反日左翼系学者を育てました。

 こういう先生たちが栄光に輝いていても、「ねこ庭」からは、GHQを足がかりに出世し、反日左翼思想を広げた「獅子身中の虫」にしか見えませんでした。

 7年前は彼らを酷評するだけでなく嫌悪し憎みましたが、今は激しい嫌悪と憎しみが消えています。

 先日西田議員の研究をし、「今は消滅した政党」について検討して以来、大きな心境の変化を経験しました。

 日本の戦後史という大河の流れで眺めれば、これらの人々は皆日本の国民です。聖徳太子の言葉を借りて言いますと、意見が違っても争っていても、「和をもって尊しとなす」です。

 お互いの存在を認め合うのが、本来の日本人なのでしょう。「ねこ庭」も聖徳太子の言葉を見習おうと努力しています。

 別の視点から考えますと、彼らは昭和天皇を守るため「マッカーサー草案」を命じた元帥に協力していたのですから、陛下のお命を守ることに貢献したと言えないでもありません。

 だから「日本国憲法」がこのままで良いとするのではなく、日本の独立を取り戻すための「憲法改正」の意見は不変です。

 戦後史の大河の流れに消えた多くの政党と、故人となった政治家たちの名前と顔を考え、悲喜交々の人間模様を知りましたので、過去の個々人を憎む気持だけは捨てました。

 次回はメインテーマを外れますが、変節した学者たちが残した厄介な遺物の一つを紹介いたします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 5

2024-08-23 22:25:07 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

          第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

        第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

              第三段階  日本国憲法制定

 以上で上記「第一段階」が終わり、次は「第二段階」の紹介になりますが、「第一段階」の最後に書かれている説明が思っていた以上に重要なので、追加します。

  ・なお、総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2月26日に活動を開始することが予定されていた「極東委員会」の一部に、天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが、必要かつ望ましいと考えたからだと言 われる。

  ・「極東委員会」は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、インド、オランダ、カナダ、オース トラリア、ニュージーランド及びフィリピンの 11 ヵ国の代表により構成されていた。

 極東委員会の一部とはソ連とオーストラリアのことで、両国は天皇制廃止を主張していました。また当時日本を憎んでいた国は、イギリスとオランダだったとのことです。

 このような状況下で、なぜマッカーサー元帥は昭和天皇を守ろうとしたかについて、私たち国民は、陛下がなさった元帥との会見にあると信じています。

 戦争責任を認められた陛下の言葉に感動し、元帥は昭和天皇が日本最高の紳士であると称賛したと言われています。かって「ねこ庭」の過去記事で取り上げましたが、元帥が昭和天皇を守ろうとしたのは、こう言う美談だけではなかったということでした。

 「もしも連合国軍が昭和天皇に不都合なことをしたら、日本はたちまち内乱となる。」

 世界最強といわれた命知らずの日本軍が、平穏裏に武装解除に応じたのは、天皇のお力にあったと知る元帥は、占領統治を成功させるためにも「陛下のご協力」が不可欠でした。

 ですからここには、政治家としての元帥の決断があったと今も考えています。初めて陛下が元帥と会見されたのは昭和20年9月27日でしたが、最後の会見は、元帥がトルーマン大統領に解任され日本を離れる前日の、昭和26年4月15日に行われていました。

 会見は一度だけと思っていましたが、なんと11回もお会いなされていたのです。GHQの統治下で、陛下は11回も元帥と会見をされ、ご意見を述べられていたと言うことになります。

 田島宮内庁長官が、昭和天皇を外界と遮断していたとばかり思っていましたが、事実は違っていました。意外なことばかりで、びっくりします。

 しかしこれ以上踏み込むとメインテーマから外れますので、政府資料の説明に戻ります。

  ・もっとも、草案の起草は 1週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和20年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、「アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘もある。

 「第一段階」の結びの言葉のため、日本政府とGHQとの意見交換が、どのように準備されていたかについては省略されています。

 7年前の2月に、「変節した学者たち」と言うタイトルで11回のシリーズを書いたことを思い出しました。こんなところで役立つとは思っていませんでしたが、どうやら「ねこ庭」の過去記事の生きる時が来たようです。

 必要と思われる部分を紹介します。

  ・今日は『知られざる憲法討議』という表題で講演した、我妻栄氏を紹介します。今回氏の講演により、貴重な事実を教えてもらいました。

 氏の講演をわざわざ引用するのは、日本国憲法の制定過程の秘話が語られているからです。以下は講演会での氏の話です。

  ・終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の帝国大学総長南原繁は、学内に 憲法研究委員会を設けた。

  ・敗戦日本の再建のために、大日本帝國憲法を改正しなければならないことは、当時一般に信じられていただけでなく、政府はすでに改正事業に着手していた。

  ・多数のすぐれた学者を持つ東京帝国大学としても、これについて貢献する責務があると考えられたからであろう。発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも確かであった。

  ・委員会が議論を始めた時、突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された。委員会が発足してから、わずか二十日の後 ( 3月6日 ? ) である。

  ・そこで委員会は予定を変更し、追って発表された「内閣草案  ( 政府案 )」と取り組むこととなった。

  ・「憲法改正要綱」について討議決定し、第一次報告書を作成した。

  ・次いで ( 4月17日 ?  ) 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。

  ・報告書は南原総長に提出され、総長は、学内の有志に求められるままこれを示したが、正式に公表しなかった。

  ・当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。

  ・今一つは、「憲法改正要綱 」が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。

  ・それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。

  ・ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだと思った。

  ・当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかも、これを「押しつけられた不本意なもの 」と考えた者は一人もいなかった。

 我妻氏は曖昧に語っていますが、委員会が「第一次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「松本私案」で、「第二次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「マッカーサー草案」です。

 「極秘にされていた出所」とは、GHQのことです。

 次回はこの事実を、政府資料の説明と併せて検討します。面倒な話が嫌いな方は、スルーしてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 4

2024-08-23 12:58:29 | 徒然の記

 〈 4. 「マッカーサー草案」の提示 〉

   ・完成した総司令部案 ( いわゆる「マッカーサー草案」 ) は、2月13日に日本政府 に手渡された。

  ・この会談には、日本側から吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣等が出席したが、その席上、総司令部側から、松本委員会の提案は全面的に承認すべからざるものであり、

  ・その代わりに、最高司令官は基本的な諸原則を憲法草案として用意したので、この草案を最大限に考慮して憲法改正に努力してほしい、という説明があった。

  ・総司令部案は、国民主権を明確にし、 天皇を「象徴」としていたほか、戦争の放棄を規定、貴族院の廃止及び一院制の採用等を内容とするものであった。

  ・日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正 を強く進言されて大いに驚いた。
 
  ・そしてその内容について検討した結果、 松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。
 
  ・ 上述のとおり、「マッカーサー草案」が提示され、この草案を指針として日本国憲法が作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの見解がある。(【参考】いわゆる「押しつけ憲法論」 ) 
 
 本文の中に「参考」や「注書」が挿入されるので読みにくいのですが、正確さと言う点ではありがたい説明です。いかにも政府の役人らしい、律儀な資料作りがされています。「押しつけ憲法論」の存在についても、取り上げられています。
 
 「ねこ庭」も政府に協力して、最後の資料編の中にある「マッカーサー草案」を紹介します。日本の戦後史と「憲法問題」に関心のある人ならびっくりする内容ですが、勉強不足の学者や評論家、政治家はおそらく知りません。「ねこ庭」の住民である私は勉強不足の仲間なのに、びっくりしています。
 
 〈 「マッカーサー草案」の主な内容 〉

   1.   国民主権と天皇について

          主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的な君主とする。

   2.  戦争放棄について

          マッカーサー三原則における、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」をも放棄する旨の規定が削除された。

   3.   国民の権利及び義務について

      (1) 現行憲法の基本的人権がほぼ網羅されていた。

      (2) 社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置かれた。

   4.   国会について

   (1) 貴族院は廃止し、一院制とする。

   (2) 憲法解釈上の問題に関しては最高裁判所に絶対的な審査権を与える。

   5.  内閣について

  内閣総理大臣は国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議会に責任を負い、不信任決議がなされた時は、辞職するか、議会を解散する。

  6.   裁判所について

  (1) 議会に三分の二の議決で、憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める。

  (2) 執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与える。

 7.   財政について

  (1) 歳出は、収納しうる歳入を超過してはならない。

  (2) 予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める。

  (3) 宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁止する。

 8.   地方自治について

  首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、州権というようなものはどんな形のものも認められない。

 9.   憲法改正手続について

  反動勢力による改悪を阻止するため、10年間改正を認めないとすることが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。

 「マッカーサー草案」を日本政府が認めなければ、昭和天皇が戦争犯罪人として処刑されると、ホイットニー民政局長が政府を脅したのは有名な話です。

 政府資料を読みますと、「押しつけ憲法論」を疑う人はいなくなります。中西教授も兵頭氏も間違っていませんが、これがやがて「日本国憲法」は日本人が自主的に作ったと、話が逆転します。

 敗戦国となった日本の混乱とご先祖の苦労が、これから語られますので、日本を愛する国民の方は次回も「ねこ庭」へ足をお運びください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 3

2024-08-23 07:17:22 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

         第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後~日本国憲法の制定まで

          第三段階  日本国憲法制定

   第一段階は下記5項目に分かれていますので、順番に紹介します。これはそのまま戦後史の復習にもなります。

     1. ポツダム宣言の受諾   2. 松本委員会の調査  3. マッカーサー三原則        4.マッカーサー草案の提示

 〈 1. ポツダム宣言の受諾 〉

  ・昭和20 ( 1945 ) 年 8月14日に受諾されたポツダム宣言は、日本の降伏の条件を定めたもので、さまざまな条項を含んでいたが、憲法制定との関係で問題となった のは10項と12項であった。

  ・深刻な問題となったのは10項で、日本の「国体」が護持されるかどうかであった。

  ・12項は、国民主権の原理を採用することを要求している、と連合国軍総司令部は解していたが、日本政府は、ポツダム宣言は国民主権主義の採用を必ずしも要求するものではなく、国体は護持できると考えてい た。

  ・したがってまた、ポツダム宣言には必ずしも明治憲法の改正の要求は含まれておらず、明治憲法を改正しなくとも、運用によって宣言の趣旨に沿う新しい政府をつくることは可能であると考えていた。

 政府はここで参考情報として、ポツダム宣言の2項目を紹介しています。( 原文は仮名書きですが、「ねこ庭」でひらがなに書き換えました。)

   10 項・・・日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一 切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に、基本的人権の尊重は確立せらるべし。

   12 項・・・前記諸目的が達成せられ、且日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向 を有し且責任ある政府が樹立せられたるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし

 さらに「国体」についても丁寧な説明をしていますが、ここまで平易で明確な説明を今まで読んだことがないので、勉強になりました。

  ・ここで国体とは「天皇に主権が存することを根本原理とする国家体制」及び「天皇が 統治権を総攬するという国家体制」を指す。

 〈 2. 松本委員会の調査 〉

  ・昭和20 ( 1945 ) 年10月9日、東久邇宮内閣に代わって幣原喜重郎内閣が誕生した。

  ・幣原首相は、10 月11日総司令部を訪問した際に、マッカーサー最高司令官か ら明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆を受けた。

  ・同月25日、国務大 臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会 ( 松本委員会 ) を発足させた。

  ・松本国務大臣は、以下の四原則2に基づいて改正作業を進めた。

  政府はここでも参考情報として、「松本四原則」を紹介しています。

     ア.  天皇が統治権を総攬せられるという大原則には変更を加えない。

          イ.   議会の議決を要する事項を拡充し、天皇の大権事項を削減する。

          ウ.   国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめるとともに、国務大臣は議 会に対して責任を負うものとする。

          エ.   国民の権利・自由の保障を強化するとともに、その侵害に対する救済方法を完全なものとする。

 「松本四原則」と連合国軍総司令部 ( GHQ ) の間には大きな認識の差があり、後日問題になりますが、ここではサラッと説明しています。

  ・上記アの原則は、統治権の総攬者としての天皇の地位を温存しようとするものであり、「国体」護持の基本的立場がここに現れている。

  ・この四原則に基 づいて松本案が起草され、「憲法改正要綱」として昭和21年2月8日に総司令部に提出された。

 〈 3. マッカーサー三原則 〉

  ・昭和21 ( 1946 ) 年2月1日、松本案3が正式発表前に毎日新聞にスクープされ、それ によって松本案の概要を知った総司令部は、その保守的な内容に驚き、総司令部の側で独自の憲法草案を作成することにした。

   ・マッカーサーは2月3日、 ホイットニー民政局長に対し草案の中に次の三つの原則を入れるよう命じた。

  ・【参考】マッカーサー三原則

   ア. 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、 人民の基本的意思に対し責任を負う。

    イ.   国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。 日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。

     いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。

   ウ.  日本の封建制度は、廃止される。 皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。

  ・ホイットニーは翌 4 日、ケーディス民政局次長等民政局員を招集し、マッ カーサー三原則を伝え、総司令部案作成に取りかかった。

 この辺りの状況については、戦後史に興味のある方は知っていると思いますが、復習のつもりで読んでいただければと思います。(「マッカーサー三原則」の具体的な内容を初めて知り、ここまで踏み込んでいたことに驚きました。)

 スペースがなくなりましたので、続きは次回にします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする