ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

共産党と不破委員長 - 2 ( 不破氏の変節と、情報操作)

2022-08-31 17:04:16 | 徒然の記

 「1984 ( 昭和59 ) 年に主張していた〈一国一前衛党論〉について、日本共産党が理論的に否定あるいは修正したことを明確に論じている同党発の文献は、現在 ( 2021年5月 ) のところ見当たらない。」

 前回紹介した情報では前記のように書かれていましたが、8月10日に書いた『統一教会と自民党  』のブログの時に調べた情報では、次のように説明されていました。

 「日本共産党はかって〈一国一前衛党論〉を掲げ、複数の共産党・労働者党がある国では、一つの党としか関係を持たなかった。」

 「ソ連共産党や中国共産党の〈複数前衛党論(併党論)〉を、大国の共産党による外国の革命運動に対する干渉を正当化する理論だとして、強く批判。」

 「1984 ( 昭和59  ) 年には、この〈複数前衛党論〉を全面的に批判し、〈一国一前衛党論〉を展開した論文を『赤旗』紙上で発表。」

 『しんぶん赤旗』も同党発行文献の一つですから、「見当たらない」という説明は間違っています。私がここで息子たちに言いたいのは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『Weblio 辞書』、『コトバンク』など、たくさんの情報があるけれど、鵜呑みにしてはいけないということです。

 こうした情報をもとに、共産党批判のブログを書いている私を、疑問視する人がいると思いますが、これについてはつぎのような説明をします。

  ・公開情報を活用してブログを書くのは、間違いではない。

  ・だだし一つの情報源に頼らず、常に複数の情報を調べ、不明な時は不明を不明とした上で利用する。

  ・公開情報であるから、共産党の関係者もチェックしているはずで、大きな間違いがあれば抗議・修正要求するだろう。

  ・異なった情報がそのまま公開されているのは、共産党にとってどちらも間違いでないと容認されているのではないか。

 共産党が抗議すべきは、公開情報サイトの運営者だと思いますので、多くの人がしているようにこのままブログを続けていきます。

 前にも述べましたが、一つの国の中に分断された共産党 ( 左翼勢力  ) が存在する場合、「一国一党」の原則によって複数の共産党を認めなかったのは、スターリンが指導するコミンテルンでした。日本共産党がソ連と中国に反論していると言いますが、元々は彼らの方が言い出した原則で、時の経過で状況が変化し、コミンテルンと中国が原則を変えたのでしょう。

 不破委員長になり、中国共産党との関係修復となった事情を紹介します。

 「1998 ( 平成10  ) 年6月に、北京で両党会談が行われて関係回復の合意に達した。このときの合意文書では、次の条項が盛り込まれた。」

  ・中国(共産党)側は、60年代の国際環境と中国の「文化大革命」などの影響を受け、両党関係において、党間関係の四原則、とくに内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方をとったことについて、真剣な総括と是正をおこなった。

   ・日本(共産党)側は、中国側の誠意ある態度を肯定的に評価した。

 「これにより、中国共産党が文化大革命時の日本共産党への干渉について、非を認めた。」「関係修復後は、両党の理論交流が下記に基づき再開した。」

  ・日本共産党は1976年から、自分たちの思想を表す表現を「マルクス・レーニン主義」から「科学的社会主義」に変更していた。

  ・しかし中国共産党が掲げている「マルクス主義」と意味は同じであり、日本共産党も用語として排除しているわけではないという立場を明確にした。

  ・中国共産党との理論交流では、共通語として自分たちの思想を「マルクス主義」という用語にした。

 やっている行為自体はいい加減なのに、こうして言葉の定義をし、論理尊重の建前を強調されると、科学的な党らしい立派な修復をしたように見えます。彼らが満足するのなら、ことさら苦情をいう必要がありませんので、情報の紹介を続けます。 

 「中国共産党との関係改善の影響で、不破哲三が主導した2004 ( 平成16  ) 年の日本共産党綱領改定では、次の記述が挿入された。」

  ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国々で、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始されている。

  ・人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。

 新しい共産党の独裁者不破氏が、このようにして中国共産党との和解をしました。

 「これは中国共産党が主張していた〈社会主義市場経済〉を〈社会主義を目指す新しい探求〉として肯定的に評価するものだった。」「他方で不破は、〈政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも〉、という但し書きによって、中国で起こっているすべてを肯定する立場に立つわけではないとも述べた。」

 言わずもがなの言い訳で締め括られていますが、マルクスは「社会主義市場経済」など述べていませんから、論理的に破綻した中国共産党との和解でした。

 不破氏のことはこの程度にし、次回は現在の委員長である志位氏と中国共産党との関係について紹介します。

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共産党と不破委員長 - ( 中国共産党との和解 )

2022-08-30 18:48:46 | 徒然の記

 「宮本氏の跡を継いだ不破、村上、志位委員長までを概要だけでも説明したいと思っています。」

 8月24日、シリーズ第4回目の最後でこのように述べましたが、やっと後継委員長の情報紹介になります。凶弾に斃れた故安倍総理について、マスコミはたった8年間の首相在任なのに「安倍首相、憲政史上最長の在任日数」と書き、一党支配の独裁者と酷評する記事を発信し続けました。

 宮本氏は40年間も共産党を支配した文字通りの独裁者でしたが、マスコミが報道しないため国民に知られないままです。不破、志位委員長の情報を紹介したくても、宮本氏に関する資料が格段に多く、今日まで伸びてしまいました。在任期間が短かったためか村上委員長については資料がなく、私も初めて聞く名前なので省略し、早速不破、志位両委員長に関する情報を紹介します。

 「1997 ( 平成9 ) 年に鄧小平が死去し、中国共産党の体制が名実ともに江沢民体制へ移行すると、中国共産党側から〈内部問題不干渉原則違反〉を反省する旨の、関係修復の非公式なサインが、朝日新聞の記事を通じて日本共産党に対してあった。」

 何気ない説明文ですが、中国共産党政府と朝日新聞の深いつながりが語られています。日本を敵視する中国独裁政権とここまで親密なのですから、同社が反日左翼報道を止めない訳です。

 「この年には日本共産党側でも、中国共産党と長年対立してきた宮本顕治議長が名誉議長となって党の実務から離れ、不破哲三が党指導権を確立していた。」

 「両国共産党の関係が悪化した時期の指導者の代替わりが完了し、これ以後日中共産党は関係修復に向けて動きだすようになった。」

 先に紹介した情報では、宮本氏は委員長職を譲った後も主導権を渡さず1998 ( 平成10 ) 年まで、40年間党を支配したと説明していましたが、この情報では不破氏が指導権を確立したと述べています。どの情報が正しいのか分かりませんが、次の二つの事実に変わりはありません。

  1.  まる40年間党を支配していなかったとしても、宮本氏が故安倍総理の8年間を遥かに超える長期間の独裁者であったこと。

  2.  共産党の委員長は余程のことがない限り前任者の意向に縛られず、新たな方針を作ることができる独裁者であること。

 不破氏に関する情報は2点に触れていませんが、それとなく軌道修正をしているのが分かります。

 「不破哲三は、中国共産党は日本共産党を日本の政界で孤立化させたり、内部分裂させるために、他の政党との関係を利用した工作活動も行ったと主張している。」

 「日中両党関係が完全に決裂し、宮本が議長を引退した翌年の1998(平成10 ) 年、後を継いだ不破が〈中国共産党側が過去の誤りを認めた〉と述べて和解するまで、30年以上も交流が断たれていた。」

 「日本共産党は少なくとも1984 ( 昭和59 ) 年まで、〈一国一前衛党〉という考え方を主張していた。」

 「この考え方によれば各国の共産党は、科学的社会主義に基づく社会改革を目指す運動の中心的な組織であり、日本共産党と中国共産党の関係には、政策や路線的な意見対立は別にして、根本的な主義と目的を共有している唯一の組織関係である、という前提があったといえる。」

 40年間も党を支配した宮本氏の路線を変更するのですから、共産党らしい面倒な説明が始まります。一読しても何が言いたいのか、読む者をけむに巻く彼ら特有の屁理屈です。

 「1966(昭和41 ) 年の日中共産党の関係断絶では、前述の組織間路線の対立という意味合いがあったと言えるが、1998 ( 平成10 ) 年に日中共産党の関係が修復された段階で、日中共産党の関係にそのような対立の継続があり、そのレベルでの関係修復があったと言えるのかどうかは不明である。」

 委員長が宮本氏から不破氏へ交代すると、ここまで事実が曖昧に語られ、過去の独裁者の方針が変えられていくのかと感心させられます。

 「1984 ( 昭和59 ) 年に主張していた〈一国一前衛党論〉について、日本共産党が理論的に否定あるいは修正したことを明確に論じている同党発の文献は、現在 ( 2021年5月 ) のところ見当たらない。」

 私が「ねこ庭」の共産党シリーズを書く上で参考にしているのは、主として「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」と『Weblio 辞書』、『コトバンク』ですから、多少の齟齬はあると覚悟しています。

 そうだとしても、違った説明をそのまま紹介する訳にいきません。

 「しかし、議会制民主主義を積極的に肯定している現在(2021年)の綱領の記述と、〈一国一前衛党〉という主張は、相容れない部分があるように見える。」

 「相容れない部分があるように見える。」のでなく、「相容れない。」ともう一つの情報が説明しています。

 「宮本氏から不破氏に党の独裁者が交代すれば、そのくらいの違いは出てくるだろう。」「細かいことに拘らない方がいい。」

 たかが反日左翼共産党の話だと、こういう意見があるのかもしれませんが、私はこだわります。息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方々には、共産党の巧みな変節と巧妙な嘘のつき方を紹介せずにおれません。愚かな共産党員やその信者たちが騙されるのは自業自得だとしても、戦後77年間経った今、善意の国民がこれ以上たぶらかされるのは防止しなくてなりません。

 次回は彼らの変節ぶりと情報操作について、紹介します。興味のない方は、スルーしてください。

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共産党と宮本委員長 - 9 ( 中国共産党の狙い )

2022-08-29 17:56:55 | 徒然の記

 今回は横道へ逸れず、共産党に関する情報を紹介します。

 「1978 ( 昭和53 ) 年に福田赳夫首相が結んだ、〈日中平和友好条約〉の国会承認において、10月18日の参議院本会議で、共産党の立木洋が本会議の討論に立った。」

 「中国側がこの十余年来、日本国民の運動に対し武装闘争路線の押しつけを図り、大国主義的覇権主義行為に出ていると批判した上で、自党議員の訪中拒否と中国側による日本国内の親中国・反日本共産党系新左翼グループの支援が、内政干渉であると述べた。」

 新左翼グループというのは、中国式「武力闘争」で革命を達成しようとする左翼過激派のことです。国会の議事録にも記載されている発言ですが、予想していた通り中国政府は、日本国内の過激派集団を支援していました。それならば筋を通して「日中平和友好条約」に反対したのかと言いますと、そうではありません。

 「中国政府の一連の行為が、同条約が反対する覇権主義に含まれると日本政府が確認したという理由で、立木は日本共産党として承認に賛成した。」

 日本政府が中国の内政干渉を確認しながら、条約の承認を認めているのなら、共産党も認めてやろうという回りくどい理由づけをしています。

 立木議員の意見は、どう考えても共産党の日頃の主張と一致しせず、中国共産党に関する歯切れの悪さが目立ちますが、次の中国とベトナムの戦争時は違っています。ベトナムは親ソ蓮派の共産党政府で、反中国の立場を鮮明にしています。

 「1979 ( 昭和54 ) 年2月に始まった中越戦争では、1966 ( 昭和41 ) 年の宮本訪問団以来ベトナム共産党との友好関係を維持する日本共産党は、〈中国はベトナムに対する侵略行為をただちに中止せよ〉という声明を出した。」

 「中越戦争を中国の侵略と断じるとともに、中国の軍事行動を〈社会主義の大義とは全く無縁〉として批判した。」

 「同年3月には、中越戦争を取材中の〈しんぶん赤旗〉のハノイ特派員の高野功が、中国人民解放軍に射殺される事件があった。〈しんぶん赤旗〉編集長韮沢忠雄は次の声明を出した。」

 「正義と真実の報道に準じた高野特派員の死を深く悼むとともに、重ねて中国のベトナム侵略を強く糾弾する。」

 世界第2位の経済大国となった日本で、共産党のトップに立つ宮本委員長の矜持を、次の説明が教えています。

 「 中国共産党は文化大革命時の、世界各国の共産党への内政干渉を1970 ( 昭和45 ) 年末から順次、曖昧な〈どっちもどっち論〉や〈未来志向論〉などで修復していった。」

 「その流れとして、1985 ( 昭和60 ) 年にも一度は関係修復のための会談を、日本共産党に申し入れていた。しかしその内容が関係悪化の原因を、〈宜粗不宜細 ( 粗い方がよく、細かいのはよくない ) 〉と曖昧にするものであったため、宮本は、誤りを具体的に認めず、謝罪もしない中国共産党の姿勢を拒絶した。」

 「 1989 ( 昭和64) 年の天安門事件を日本共産党は、〈社会主義の大義に照らし、国際的にも絶対に黙過できない暴挙〉〈言語道断の暴挙にたいし、怒りをこめて断固糾弾する〉と批判している。」

 宮本委員長が中国共産党の関係修復の動きを何度拒絶しても、なぜ中国は諦めることなく日本共産党との対立を解消しようとするのか。現在の習近平体制下の尊大で攻撃的な中国政府からは、考えられない低姿勢です。

 「それは、宮本委員長の率いる日本共産党の存在が大きいからだ。」

 共産党員の答えは、常にこんなものだろうと思いますが、ここでも私の考えは違います。昭和60年は保守の中曽根内閣で、アメリカは反共のレーガン大統領でした。二人は互いをファーストネームで呼び合うほど、親密な関係だとマスコミが騒ぎ、「ロン・ヤス関係」という言葉がしばらく流行りました。

 同年の3月、ソ連ではチェルネンコ書記長が死去し,政治局最年少のゴルバチョフ政治局員が新書記長に就任し、彼は短期間のうちに党・政府幹部人事の大幅刷新と若返りを進めました。この時の状況を説明する情報がありますので、紹介します。

 「ゴルバチョフ書記長は4月の中央委員会総会で、〈社会・経済発展の促進〉がソ連の主要な課題であると述べ,こうした政策姿勢が外交面にいかなる影響を及ぼすかが注目された。」

 「かかる背景の下、ソ連はより積極的な外交姿勢をとり始め、米国の呼びかけに応じて、米ソ首脳会談が11月19日から21日にかけて開催された。」

 「特に同会談では、両首脳のみの会談が5時間余にわたって行われ、極めて異例なこととして注目された。会談後の共同発表文は、〈適切に適用された〉米ソの核兵器の50%削減の原則、暫定的なINF合意の考え方等,これまでの米ソ両案の共通点を確認したほか両国間対話の強化をうたっている。」「また1986 ( 昭和61 ) 年にゴルバチョフ書記長訪米、87年にレーガン大統領訪ソが行われることとされた。」

 「さらにソ連は、我が国、西欧各国との外交に積極姿勢を示し、また北朝鮮との関係緊密化を図り、さらにオマーン、アラブ首長国連邦との外交関係を樹立するなど、外交の幅の拡大を図る動きを見せたことが注目された。」

 説明を読めばわかる通り、中国が日本共産党に秋波を送っているのは、宮本委員長の指導する日本共産党の存在が大きいためでなく、経済大国となり、超大国アメリカと親密になり、しかも敵対国ソ連が積極的に近づいているからでした。世界経済と政治の舞台で、無視できない日本の存在があるため、中国は日本共産党との関係修復を狙っているのだと、共産党員には気の毒ですが私はそう考えます。

 次回は、次の委員長になった不破氏と志位氏の共産党と、中国の関係に関する情報を紹介します。

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共産党と宮本委員長 - 8 ( 矛盾と弱点の共産党 )

2022-08-28 13:55:22 | 徒然の記

 前回は話が横道へ逸れましたので、本日はテーマを外さないようにします。日本共産党との関係で語られる資料は、探してみると思いのほか沢山あり、取り上げるのに迷うほどです。よほど乱暴な情報でない限り、紹介します。

 「文化大革命終結後の1978 ( 昭和53 ) 年、中国の新しい最重要指導者となった鄧小平は、文化大革命に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体した。」

 「また鄧は、文化大革命によって疲弊した中国経済を立て直すために、改革開放政策を開始することによって市場経済体制への移行を試みた。」

 鄧小平のしたことはスターリンの死後、フルシチョフがした「スターリン批判」以上の方向転換でした。彼が中心となって実施した経済政策は、文化大革命で崩壊した中国経済を立て直すため、具体的には経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などいわゆる市場経済への移行でした。

 資本主義社会を否定する社会主義中国が、部分的にとはいえ資本主義の制度を取り入れると言うのですから、一歩間違うと体制崩壊につながる政策でした。きわどい政策を取り入れなければ中国が経済破綻し、共産党独裁政権が国民に否定される・・と、当時の中国はここまで追い詰められていたということになります。

 毛沢東は「清貧な社会主義」と「共産党の一党独裁」を信念としましたが、リアリストの鄧小平は「豊かな社会主義」と「共産党の一党独裁」を信じ、共産党の独裁については同じでも、経済に関する主張が土台から違っていました。彼の生涯が、毛沢東との闘いだったということがよく分かります。

 私は今この意見を、7年前に読んだ『鄧小平秘録』を思い出しながら述べています。伊藤正氏が平成20年に、産経新聞出版社から出した本です。また本題を外れますが、当時の中国を理解するため、あえて紹介します。

 「穏健な周恩来は終生毛沢東に異議を唱えなかったが、鄧小平は節を曲げなかった。だから彼は、劉少奇と共に反革命分子や走資派などと批判され、二度も毛沢東から失脚させられた。」「だが有能な彼は何故か毛に庇護され、職位剥奪で冷遇されても決定的な処分を受けなかった。」

 日本人である私は毛沢東にも鄧小平にも好感をもちませんが、この二人の人物が中国の歴史に残る傑物だったことは否定しません。7年前の書評ですがそのまま紹介しても、不自然さがありません。

 「鄧小平は歯ぎしりするほど毛沢東を恨んでいながら、彼へ敬愛の念を失わないという矛盾の中で生きた。その思いが阿吽の呼吸で毛沢東に伝わっていたことが、首の皮一枚で命を長らえた理由だったのかも知れない。」

 「生涯を傍で支えてくれた周恩来について、毛沢東はつれない評価をしている。〈彼は言われたことはなんでもするが、それだけの人間だ〉・・」

 「当時ナンバーツウだった林彪を、事故に見せかけて粛清した毛沢東は、周恩来が末期ガンと知った時、後を任せられるのは鄧小平しかないと即断した。」「文革四人組の江青夫人などの猛反対があったにもかかわらず、地方に蟄居していた彼を、すぐさま北京へ呼び戻した。」

 こうしてみますと、毛沢東も鄧小平もよく似ています。二人は「目的のためなら、手段を選ばない」人間でしたし、信念を曲げない彼らは、逆らう者を容赦なく切り捨て、自分に献身する者でも裏切りを見せられると即座に断罪しています。

 過去の書評と合わせて今回の情報を読みますと、いっそう理解が進みます。

 「鄧小平は、経済の面では一貫して積極的に自由化を進めたのとは対照的に、〈四つの基本原則の堅持〉に象徴されるように、政治改革には消極的であった。」

 「ここでいう四つの基本原則とは、〈社会主義〉、〈人民民主主義独裁〉、〈共産党の指導およびマルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持〉のことである。」

「これは、彼が心から共産主義を信奉しているというよりも、経済建設の前提条件となる政治の安定を保つためには、一党独裁を維持することの必要性を認識していたからであろう。」

 「鄧小平氏は、毛沢東晩年の過ちへの 〈行き過ぎた批判〉を戒めている。 その理由は、〈このように偉大な歴史上の人物を否定することは、我が国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く〉 からだというものだった。」

 毛沢東を否定することは、彼が作った共産党の中国、つまり一党独裁を否定することで、そのまま社会主義国中国の崩壊につながります。だから彼らには、「文化大革命」の検討ができませんし、「二つの天安門事件」の検証ができません。これが尊大な中国政府が抱えている「国家的矛盾」であり、「ウィークポイント」です。

 宮本氏が中国共産党政府の矛盾や弱点を知らないまま、中国共産党を批判しているとは考えられませんので、日本共産党は相変わらず本音を隠し、建前だけの中国批判やソ連批判をしていることになります。

 「マルクス主義は科学的社会主義論で、矛盾や曖昧さのない理論だから、マルクス主義に則って指導している共産党の政策に間違いはない。マルクス主義は科学であり、根拠のない精神論ではない。」

 宮本氏の指導する共産党は、令和の時代になっても同じ意見を述べていますが、恥ずかしげも無くよく言えるものです。矛盾だらけの共産党が、自民党政府の矛盾ばかりを国会で責めていますが、多くの国民はもう騙されないはずです。

 今回も横道へ入り込み先へ進みませんでしたが、日本共産党と中国の情報は次回で紹介します。77年間も共産党に翻弄されて来たことを思えば、「ねこ庭」の話が進まないとしても、それが何だろうとそんな気がします。心に余裕のある方だけ、次回も「ねこ庭」へ足をお運びください。

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共産党と宮本委員長 - 7 ( 頑迷な保守と、教条主義的共産党 )

2022-08-27 14:54:16 | 徒然の記

 中国最後の皇帝と呼ばれた毛沢東が死去し、鄧小平の時代になりますがこの辺りの状況は、すでに別の書評として何度か「ねこ庭」で取り上げています。

 しかし日本共産党との関係で語られる情報に接するのは、今回が初めてです。歴史の復習という意味からでも、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介しようと思います。

 「1976(昭和51 ) 年 に周恩来と毛沢東が死去し、中国共産党は文化大革命を終結させた。」「党中央委員会主席の華国鋒を実質的に棚上げし、実務中心・近代化路線を採る鄧小平が最高権力者となる体制に移行した。」

 「日中共産党間の対立は続き、日本側からの議員訪中団についても、日本共産党の所属議員は中国側から拒否された。」

 神格化された毛沢東と違い、好々爺の顔を持つ鄧小平は、1977 ( 昭和52 ) 年から翌年にかけて訪日し、日本で愛想を振り撒きました。この時彼は世界第2位の経済大国になった日本から、多額の資金援助と技術支援を引き出すことに成功しました。

 経団連会長だった稲山氏が、最新鋭の製鉄所をそっくり中国へ渡すという英断をし、巨大な製鉄所の工場設備一式が、分解され梱包され、日本の港から積み出され中国へ渡りました。何ヶ月もかかる国家的大事業でしたが、この時鄧小平は日本を「熱烈歓迎」しました。当時のマスコミの興奮ぶりと熱狂が今も忘れられませんが、思えばあれが最初で最後の「日中蜜月時代」でした。

 同時期に松下電器の創業者松下幸之助氏も、稲山氏同様に、松下の工場設備と技術移転を行ない、「熱烈歓迎」されています。

 今回の情報はそういう時代の、日本共産党の状況を説明しています。

 「政府自民党内には、日中国交正常化に強く抵抗する党内グループが存在し、国交正常化後も台湾(中華民国)との関係が深く残っていた。」

 「しかし台湾では反共主義を掲げる中国国民党が、一党支配を続け戒厳令を維持していたため、日本共産党が友好関係を持てる可能性はなかった。」

 「結局日本共産党は、中国問題において実質的な影響力を発揮できず、中国共産党を厳しく批判しつつも、台湾との統一を目指す同党の〈一つの中国論〉は支持し続けた。」

 マルクス主義は科学的社会主義論で、矛盾や曖昧さのない理論だから、マルクス主義に則って指導している共産党の政策に間違いはない。マルクス主義は科学であり、根拠のない精神論ではないと、共産党は常に主張していますが、この時の決定は曖昧さと矛盾という点で彼らの主張のウソを露呈させています。

 矛盾を抱え、時には妥協をするのが現実の政治です。「党の指導に間違いはない」と主張し続けると、結局は論理が破綻します。「党の指導に間違いはない」と宮本氏以下の共産党員が口を揃えるのなら、私は質問せずにおれなくなります。

 「日本共産党の意見に間違いがないというのなら、あなた方が批判するソ連共産党と中国共産党は、間違っていることになります。」

 「ソ連も中国も、同じ科学的社会主義の国ですが、どうして間違ったのでしょう。」「マルクス主義が矛盾や曖昧さがない理論なら、どうしてソ連と中国はそうならないのか。」

 「日本共産党の意見の正しさは、世界の誰が認め、誰が証明しているのでしょう。」

 こうなりますと頑迷な日本の保守が、「神国日本は絶対正しい。」「日本こそが世界一の国だ。」と主張する頑さと同じものになります。滑稽で軽蔑せずにおれなくなりますが、頑迷な保守も教条主義的な共産党も消えて無くならず、無用の騒ぎを世間に広めています。

 頑迷な保守は私でさえ相手にしない少数者で、何の影響力もありませんが、共産党は違います。「日本学術会議」に所属する反日左翼学者と反日マスコミ、日本弁護士会、日教組を通じ、日本の歴史とご先祖を否定し憎む思想を、日々拡散させています。その影響力の大きさと悪辣さを、これ以上看過していると日本がダメになります。

 中国式「武力闘争路線」を放棄したとして、根なしの浮き草の彼らは「議会制度」を利用し何をしているのか。私たちは何度でも検証しなければなりません。彼らの狙いが「左翼革命」であることは、今でも変わりません。政権をとれば皇室を廃止し、自衛隊を廃止し、代わりに国民弾圧の赤軍を作り、共産党の委員長が日本の最高権力者になります。

 「党の指導に間違いはない」と言い張り、従わない国民を容赦無く刑務所へ送り込みます。金日成やスターリンや毛沢東がしたように、政敵を抹殺するだけで無く、疑問や異論を言う国民は殺してしまいます。そんな共産党と分かっていながら、支持する人間がいますが、彼らはおそらく歴史も世界情勢も知らない劣等生なのだろうと思います。

 安倍元総理の国葬に反対する彼らは、「国民に弔意の強制をするな。」「国民個人個人の気持ちに寄り添うべき。」などと、相変わらず反対のための詭弁を弄しています。テレビには反日左翼の学者たちが、国葬は憲法違反の疑いがあるとか、政府の決定を憲法は認めていないとか愚論を述べています。

 新聞やテレビがこんな報道を毎日続ければ、多くの国民が洗脳されます。戦後77年間 こういう情報操作をやってきた大本は、共産党です。共産党が存在し、威勢の良いことを言う限り、他の弱小野党が影響されます。共産党よりもっと過激な意見を言わないと目立たないので、マスコミ受けを狙って出来もしない強硬論を言います。

 落ち目の社民党を離れ、立憲民主党の元に集まっている過激派集団の跳ねっ返りたちが、この時とばかり騒ぎ出します。その一例が、先日の広島原爆忌の式典を妨害したデモ集団でした。

 鄧小平時代の日本共産党について紹介するつもりでしたが、横道へ逸れてしまいました。次回は本論へ戻ります。

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共産党と宮本委員長 - 6 ( 中国に利用される、自民党・公明党・社民党 )

2022-08-26 18:34:14 | 徒然の記

 宮本氏が中国との関係を断絶した後、反日左翼の世界はどうなったのか。情報の続きがありますので、紹介します。

 「1966(昭和41 ) 年 10月には日中友好協会が、日本共産党派と非日本共産党系に分裂し、後者は「日中友好協会正統本部」を結成した。」

 「続いて日本アジア・アフリカ連帯委員会も、日本共産党派と非日本共産党系に分裂し、日本ジャーナリスト会議や新日本婦人の会でも両派が対立し、分裂した。」

 共産党系も非共産党系もどちらも反日左翼革命勢力ですが、宮本委員長が中国式「武力闘争路線」と決別したため、暴力革命を信奉する過激派勢力が社会党の方へ移動しました。その結果革命路線だけを比較すると、共産党の方が社会党より穏健に見えるという奇妙な姿になりました。

 私のように反日左翼勢力を嫌悪し、内輪揉めに関心を払わない人間にとっては、経緯が分からず不思議な現象だけが見えました。自民党と共にかって日本の二大政党と言われた社会党が、今は社民党と名前を変え消滅寸前となっているのは、福島瑞穂党首の教条主義的反日主張が国民に疎まれているだけでなく、抱え込んでいる過激派集団のせいもあったようです。

 選挙のたびに議員の数が減り、党首の福島氏や吉田氏さえ落選するという零落ぶりです。反日マスコミの先頭を走っていた朝日新聞も、読者の激減で赤字会社となり、社員の6割を対象に今年から自主退職者を募るという状況にあります。選挙の一票を持つ国民が本気になると、反日勢力が消滅するという事実がやっと見えてきました。

 そんな時であるだけに、最も忌むべき政党である共産党が国民の目を眩ませ、このまま生き延びていくことが見過ごせません。「共産党は、国民の命を守る反戦と平和の党です。」と、こんなキャッチフレーズに騙されている人間がまだいることに、危機感を覚えます。

 シリーズが長くなっても、宮本氏と共に反日共産党に関する情報を紹介し、安倍元総理へ捧げる鎮魂歌にしたいと頑張る理由がここにあります。話が横道へ逸れましたので、本題へ戻り情報の続きを紹介します。

 「中国共産党からの批判・内政干渉・分派作りに直面し、宮本は中国共産党との関係断絶に踏み切らざるを得ず、これ以降日本共産党は、他国の共産主義政党とは距離を置く〈自主独立〉の旗を掲げるようになった。」

 「しかしソ連のみならず、中国も敵に回したことにより、日本共産党は国際共産主義運動の中でほぼ完全に孤立した。また国際共産主義運動自体も、ソ連派、中国派、チェコ派、中立派などの四分五裂を起こして事実上崩壊状態となった。」

 共産主義革命の総本山として世界の共産党を束ねていたソ連が、スターリンの死後フルシチョフの主張する「平和共存論」へと舵を切り、二番手の大国である中国と非難の応酬を始めたのですから、国際共産主義運動が四分五裂して不思議はありません。するとまた、ソ連共産党が宮本委員長へ歩み寄ってきます。

 「1968( 昭和43 ) 年には、日本共産党と中国共産党の決裂を知ったソ連共産党が、日本共産党との関係を修復しようと、スースロフを団長とする代表団を代々木の日本共産党本部に送った。」

 「日ソ両共産党は一応共同コミュニケを出したが、〈自主独立〉路線の日本共産党はソ連とも距離を置く姿勢を取った。」

 「同年にソ連がチェコスロバキア侵攻を行うと、〈兄弟党の内部問題不介入の原則に、著しく反する〉としてソ連を批判し、そのためソ連共産党と日本共産党の関係回復も短期間で終わった。」

 「この時期日本共産党は、ユーロコミュニズム掲げるイタリア共産党との友好関係を強め、議会内政党として国政での影響力を高めたことで、毛沢東主義による文化大革命を続けた中国共産党とは全く異質の党となった。」

 次の説明では、中国共産党へ擦り寄っていくのが自由民主党と社会党 ( 現社民党  ) 、公明党へと代わり、手玉に取られていく日本の政界の情けない状況が見えてきます。

 「その後、1972 ( 昭和47 ) 年のニクソン大統領の中国訪問によって、中国の外交政策が変わり、同年10月に北京を訪問した田中角栄総理と周恩来総理が共同宣言を発表した。」

 「日中国交正常化が実現しても、日中共産党の関係改善はされず、国交回復のための地ならしとなる野党外交では、党内過激派グループの影響もあり、党として中国共産党と友好関係を持っていた日本社会党 ( 現社民党  ) と、田中訪中の3カ月前に周恩来から親書を受け取っていた公明党よって担われた。」

 消滅寸前の社民党が命脈を保っているのは、もしかすると中国共産党のお陰なのかもしれません。日本国内を掻き回し、混乱させるためなら、中国は何でも利用する共産党独裁政権です。

 どこまでできるのか自信はありませんが、次回は不破、志位委員長と交代した日本共産党と中国がどうなっているのかを紹介します。

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共産党と宮本委員長 - 5 ( 宮本氏、毛沢東を酷評 )

2022-08-25 23:04:20 | 徒然の記

 1966(昭和41 ) 年帰国した宮本氏は、4月27日と4月28日に第四回中央委員会を招集しました。その席上で、氏が述べた言葉がありますので紹介します。

 「毛沢東は、老衰して頭がぼけてしまっている。」

 「そのうえ思いあがって、党内でも孤立している。」

 毛沢東との会談内容は書かれていませんが、中国の独裁者毛沢東は宮本氏に向かい、きっと言いたいことを喋ったのでしょう。小国とはいえ氏も日本共産党の独裁者ですから、帰国と同時に我慢の糸が切れたのだと思います。それ以後氏は、さらに明確な反中路線に転換したと言います。以下文章をやめ、項目で紹介します。

  ・毛沢東一派の「極左冒険主義」への批判が、『しんぶん赤旗』紙上に載るようになった。

  ・昭和41年から昭和42年にかけて、西澤隆二ら中国派の中堅幹部30数名が除名された

  ・中国共産党は宮本を「修正主義者」と認定し、日本共産党を「宮本修正主義集団」と批判するようになった

 先に自分に逆らったソ連派を追放し、今度は中国派の党員を除名し、宮本委員長の独裁ぶりが遺憾無く発揮されています。こうした情報を読みますと、平成22年5月13日の新聞『あかはた』の記事を、いちがいに「大うそ」と言えなくなります。

 「もともと共産主義=科学的社会主義とは、自国の民族のことを他国に干渉されずに自分たちで決めるという、〈民族自決権〉を大事にする立場です。」

 大国ソ連と中国の干渉を撥ねつけ、日本共産党の委員長として〈民族自決権〉を通していることになります。自民党政府はおろか、反日左翼のマスコミや学者でさえ中国には気を使い、一つの批判もしません。まして毛沢東は、不可触の扱いです。これほど遠慮なく毛沢東を酷評した日本人を、私は氏以外に知りません。

 超大国のソ連と中国が大東亜戦争の敗戦国である日本共産党に、どうしてここまで干渉するのか。親ソか親中かと、なぜ関心を持つのか。どうでもよい弱小国の共産党なら、高みの見物をしていれば良いのに、ソ連と中国が自分の側につけようと画策するには、それだけの理由があります。

 「それは、宮本委員長の率いる日本共産党の存在が大きいからだ。」

 共産党員ならこのように答えると思いますが、私は別の考えをしています。息子たちのためにもなるので、昭和41年の日本の政治・経済情勢をネットで調べました。自民党の佐藤栄作氏が第一次佐藤内閣を組閣し、1月早々椎名悦三郎氏が外相として初のソ連訪問をしています。以下主な出来事を、抜書きで紹介します。

  ・3月25日 明治100年記念事業を、国家規模で行うと政府決定。

  ・5月28日 椎名外相インドネシア副首相と、3000万ドルの緊急援助供与を共同声明

  ・以降1970年代を通じ、インドネシアは日本最大の被援助国

  ・5月30日 米原子力潜水艦、横須賀に初入港。

  ・6月25日     国民の休日として「敬老の日」「体育の日」「建国記念日」を新設

  ・7月  4日 新東京国際空港建設予定地を成田市三里塚に閣議決定

  ・9月  7日 石川島播磨重工業  巨大タンカー出光丸 (20万9千トン) の進水式

  ・この年国債発行による好景気。自動車生産高世界3位になる。

  ・法務省が、日本の総人口が1億人を突破したと発表。

 「もはや戦後ではない」と、10年前の昭和31年に経済企画庁の「経済白書」が書き、流行語になりました。大東亜戦争で焦土となった国を連合国軍に占領され、敗戦の痛手を負いながら日本は蘇り、経済大国への道を進んでいました。自国を守る軍はGHQの作った「憲法」で持てなくされても、経済という武器で世界市場を席巻し日本の力を見せ始めていました。

 宮本氏の率いる共産党は、日本の国際的地位が大きくなるにつれ、ソ連も中国も無視できなくなったと、これが私の見方です。他国の指導者が驚く日本の復興は、「20世紀の奇跡」とも言われ、称賛と受け止めるお人好しもいますが、実際には日本への警戒心の現れだと考えます。完膚なきまでに打ちのめされ、焼け野原となった貧困状態から、10年足らずで復興したのですから他国は真似ができません。

 捕虜となりシベリアの炭鉱で働かされていた父が、復員してきた時のこと、ソ連国境近くのハイラルから、幼い私を背負って懸命に引き上げてきた母のことなど、私は忘れていません。両親だけでなく、着の身着のままで多くの日本人が、満州、朝鮮から引き揚げてきました。日本を復興させたのは、宮本氏の共産党でも、自民党の政府でもありません。

 名前も知られない多くの国民が、寝る間も惜しんで働いたから奇跡の復興ができました。侵略したアジアに何も返していないと、広島原爆忌の式典を妨害する反日過激派の愚か者が言っていましたが、日本はアジアの国々に対し経済復興の巨額援助をしています。今は敵対国となった中国は、おそらく最大の受益者のはずです。資金は全て国民が働いて納めた税金で、汗と涙の結晶のお金です。

 国力を回復した日本となっていたため、毛沢東への酷評もソ連の干渉の拒絶もできたのですが、こういう歴史的事実になりますと、宮本氏もやはり反日左翼共産党の委員長ですから、率直に語りません。今もそうですが、共産党の主張は「東京裁判史観」そのままの「日本国家悪人説」で、汗水垂らして苦労した国民を無視しています。 

 国を大切にしている国民を無視している党が、国民に支持されるはずがありません。共産党にとって氏は大きな指導者だったのかもしれませんが、国民にとっては無縁な人物です。息子たちにもその理由がわかったと思いますので、そろそろこのシリーズを終わりにしようかと考えます。

 宮本氏の跡を継いだ不破、村上、志位委員長までを概要だけでも説明したいと思っています。

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共産党と宮本委員長 - 4 ( 中国共産党との会談情報、2つ)

2022-08-24 22:57:11 | 徒然の記

 ソ連との対立に続き、今回は中国との対立を紹介します。昭和28年にスターリンが死去した後、日本共産党内で対立していた国際派と所感派を和解させたのは、平和共存路線に変更したソ連共産党でした。これを受け昭和30年に日本共産党は、中国の革命方式「武装闘争路線」放棄を決議していますから、今回説明する中国共産党との対立は、2度目ということになります。

 宮本氏が共産党内で主導権を握ったのが昭和33年以降ですから、最初の対立時には当事者でなかったことになります。その後中ソが対立し、中国とソ連のどちらかを選ぶように迫ってきた昭和38年に、〈中国寄りの中立〉で党内の意見をまとめたのは氏でした。

 きっかけになったのが、米英ソ三国以外は原爆実験をできなくする「部分的核実験禁止条約」で、氏は三国による「核兵器の独占」に反対しました。このためソ連共産党は氏が親中国になったと警戒し、オルグを派遣してきたというのが前回まででした。

 ここまでの情報で、宮本氏の考えが見えたのは次の2点でした。

  1.  日本で革命を成功させるために、「中国式武装闘争路線」は取らない

  2.  核兵器を米英ソ三国だけで独占することは、認められない

 1. の方針から言えることは、広島原爆忌を妨害している左翼過激派集団を氏は認めていないということです。激しい火炎瓶闘争など暴力と流血が、国民に受け入れられないと知った氏は、議会政治を通じての革命を志向します。40年間も共産党の独裁者だった氏が、党の方針の邪魔をする中核派や革労協をなぜ放置していたのか。忙しくて、小者の相手をする暇がなかったのでしょうか。

 2. の方針から言えることは、氏が単なる理想主義者でなく、現実論者だという事実です。日本の核保有まで考えていたかは不明ですが、「核兵器全廃」を主張していません。「米英ソだけに、核兵器を独占させるなどとんでもない。」と言い、次には五大国だけの核兵器所有を認める「核拡散防止条約」にも反対しています。

 全世界の核兵器を無くそうという考えなら、「部分的核実験停止条約」と「核拡散防止条約」を無視し、最初から「核兵器全廃」を主張していたはずです。

 話がまた横道へ逸れましたので、今回のテーマである「中国との対立」を紹介します。宮本氏が毛沢東と会談した情報ですが、二種類ありましたので、A・Bと区別して双方を紹介します。ニュアンスが違うので、どちらも私たちには参考になります。

  〈 毛沢東との会談 A  〉

    ・宮本は1966(昭和41 ) 年、北ベトナムと、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の三国を訪問

    ・2番目の訪問先となった中国で毛沢東と会談。席上毛は日本共産党の活動を「修正主義だ」批判

    ・始まったばかりの文化大革命の路線に、日本共産党も従うよう要請

    ・宮本は毛の発言を、第7回党大会で自身の手で否定した、武装闘争路線の復活につながると警戒

    ・中国、ソ連への追従により壊滅的打撃を受けた過去の反省から、党としての関係を断つべきと宮本は判断

  これがAの情報ですが、毛沢東が、文化大革命の実行を日本に求めていたとは知りませんでした。次にBの情報を紹介します。
 
   〈 毛沢東との会談 B  〉

    ・1966年2月、日本共産党中央委員会は、ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願い、ベトナム、中国、北朝鮮の三カ国と会談するために、大型の代表団を送った。

    ・2月9日福岡の若松港から、中国の貨物船で上海に向かい、上海で予備会談を行った

    ・2月17日にハノイに入り、10日間滞在し共同コミュニケに調印し、2月28日に北京に到着

    ・北京に1週間滞在し4回中国側と会談したが、「アメリカのベトナム侵略に反対する国際統一戦線」か、「反米反ソの統一戦線」かで双方の主張の隔たりが埋まらず

    ・共同コミュニケを出せないまま、一行は朝鮮に向かう。3月11日平壌に着き、21日に共同声明を発表

    ・同日北京を経由し帰国予定だったが、中国側から共同コミュニケを発表するという提案あり

    ・会談で中国側がソ連を名指しで批判するよう提案したが、日本側は同意せず、双方の一致点を三千字のコミュニケにまとめた。

    ・一行は上海にいる毛沢東を訪れ、最終的会談。宮本らは会談は形式的なもので、コミュニケが了承されると予測

    ・宮本らを迎えた毛沢東は、コミュニケの内容が軟弱だと批判し、コミュニケは発表されず

    ・毛沢東は「この会談はなかったことにしよう」と言い、宮本らはそのまま帰国

 以上、コメント無しでAB二つの情報を紹介しました。会談に関する宮本氏の帰国後の談話と、私のコメントはスペースの都合で次回といたします。興味のある方だけ、「ねこ庭」へお越しください。

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共産党と宮本委員長 - 3 ( ソ連派共産党員の除名 )

2022-08-23 15:32:52 | 徒然の記

 宮本委員長を「隠れた日本の支配者 ? 」と書いたのは、表現過剰だったのかも知れません。中国に同調する左翼過激派を共産党内から追放しても、広島原爆忌の式典を妨害する中核派や革労協勢力を日本から追放する力はなかったからです。

 氏が戦ったのは「共産党」と言うコップの中でしたが、そこだけでおさまらなかった原因は、氏が「日本学術会議」の反日学者と反日マスコミを手中に収めいてたからでした。大嘘の「反戦平和の共産党論」を、傘下の学者やマスコミを通じ見境なしに発信したやり方は、広島原爆忌を妨害するバカ者たちがそっくり真似ています。他人の迷惑を考えず場所を占拠し、手前勝手な強弁をマスコミの前で主張し、騒動が全国へ発信されるのが、平和活動の一環だと思い込んでいます。

 それでも宮本氏の頃は、まだ戦後を引きずっていて、「鉄や竹のカーテン」に隠され社会主義国の実態が見えない時でした。社会主義政権が国民弾圧の全体主義政府しか作れず、国民を幸せにするどころか、政府に従わない人間を容赦無く獄へ送り、最後に殺してしまうことを知る人は、ほとんどいませんでした。たとえ現場を見た人間が事実を伝えても、そんなはずはないと、誰も信じない時代でもありました。情報社会が発達したお陰で、現在は社会主義国家の実体が誰の目にも見えますから、広島原爆忌の式典を妨害する過激派勢力は、いっそう国民に疎まれます。

 時代から置き去りにされているのに、左翼過激派たちはとっくの昔に廃れた反日の歌を合唱しています。人殺しの悪人が童謡を歌っているような、釣り合いの取れない姿になります。デモ隊の横を通る市民の視線は、胡散臭そうな、迷惑そうな冷淡さで、耳を傾ける人もいません。

 「日本共産党」というコップの中には、ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムなど世界の共産党が侵入し、それなりの広がりを持っていましたので、宮本氏の足跡を辿ると、金日成に劣らない党内闘争が見えます。金日成と氏の違いは、氏が一人だったのに対し金日成が数百人だったという、殺した政敵の数でしょうか。

 広島原爆忌で横道に逸れた話を、元に戻します。1963( 昭和38 )年7月に、ソ連と米英が締結した「部分的核実験禁止条約」を、中国の側に立ち賛成しなかった宮本氏の話です。興味深いネットの情報がありましたので、紹介します。

  ・1964(昭和39)年1月、日本共産党の親中反ソ傾向が強まったことに気づいたソ連共産党は、オルグ3人を日本に送り込み、日本共産党を内部から切り崩そうと計った。

  ・同年2月日本共産党は、袴田里見を団長とする代表団をモスクワに送り談判を行ったが、けんか別れに終わった。

  ・その帰りに北京に立ち寄ると、中国共産党から「反修正主義の英雄」として大歓迎を受けた。

  ・同年5月、来日したソ連のミコヤン第一副首相が、衆議院本会議を傍聴席から眺めた。

  ・その会議においてソ連派の志賀義雄が党の方針に反し、「部分的核実験停止条約」の批准に賛成票を投じた。

  ・参議院でも鈴木市蔵が賛成票を投じ、この報を受け急遽中国から帰国した宮本は、二人を党から除名した。

  ・さらに同年9月25日にはソ連派の神山茂夫と中野重治も除名し、党からソ連派を一掃した。

 ミコヤン氏来日の事実を知らなかったので、この時期に志賀氏や鈴木氏など多数の党員ががなぜ追放されたのかが疑問でしたが、この情報で納得しました。ところが今度は中国との対立が発生し、これもまた私の知らなかった事実なので、息子たちと「ねこ庭」を訪れる方々へ紹介します。

 この時期は氏だけでなく、共産党にとっても多忙な時だったらしく、それだけ国際情勢が動いてたと言うことなのでしょうか。現在もプーチン氏の「核の脅し」で世界が揺れ動いていますが、何時になっても国際社会は揺れを止めず、平和な時が少ないと言うことなのでしょうか。

 スペースの都合で、続きは次回と致します。興味のある方だけ、残暑厳しい「ねこ庭」へ足をお運びください。

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広島の原爆忌を妨害する平和団体

2022-08-21 16:19:24 | 徒然の記

 「ねこ庭」を訪問される方のブログで、下記タイトルの動画を知りました。

〈【喧嘩勃発】広島の平和式典で迷惑行為をする無政府主義者を注意してみた!〉

 長い名前ですが、動画は10分ほどの短さでした。8月6日の広島原爆忌式典の日、式典に反対する反日左翼団体のメンバーに、動画作成者が問いかけるという内容でした。

 「死者を束ねてはいけない !  広島の歴史を忘れてはいけない  ! 」

  彼らが掲げている横断幕にはこのように書かれ、手に持つプラカードには「平和記念式典反対」の文字がありました。

 「8.6 広島集会実行委」と、いかにも左翼らしい、いい加減な団体名が横断幕の隅に表示してあります。式典会場の近くには、広島県民と広島市が掲げた横断幕が見えます。

 「平和式典中は、静かにお願いします。」

 式典会場の周りには、広島県民の願いを無視するように、反日左翼団体が横断幕とプラカードを掲げ、マイクを手にした者もいます。遠くにいる団体は、中核派や革労協だそうです。動画の様子ではまだ式典が始まっていないらしく、動画作成者がデモの参加者に問いかけていました。

 「貴方たちが戦争反対のデモをするのはかまわないが、式典のある今日1日だけは静かにして欲しいと、広島県民と広島市がお願いしているのが、聞けませんかということです。」

 デモ参加の若者たちが、口々に反論をしていました。30代と見える彼らが、今でもこんな愚かな意見を言うとは予想していませんでした。記憶している言葉を順不動に紹介します。

 「反平和をやっている奴らが、平和式典をやる資格はない。」

 「国家事業としてやらなくていい。会場の設営もしなくていい。国がやる式典はまやかしの存在だ。」

 「式典を止め、死者の一人一人に向き合うべきだ。」

 「国は侵略したアジアに対しては、何もしていない。」

 「今日1日静かにして欲しいと言われても、世界から戦争がなくならない以上、毎日が戦いだ。」

 動画作成者とのやりとりですから、まだ沢山ありますが、これ以上紹介する必要を感じません。以前の自分でしたら怒りに震えたと思いますが、今はこの若者たちの存在を憐れみます。デモ列の後にいる白髪の老人たちが、彼らに反日左翼思想を浸透させているのだと思いますが、まともな歴史を学ばず、国を憎むしかできない馬鹿者集団を気の毒に思いした。

 中核派や革労協と言う反日過激派団体は、とっくに消滅し化石にでもなっていると思っていましたが、まだ存在していました。息子たちのために、概要だけを紹介しておきます。

 〈 中核派 〉

  ・正式名称は、革命的共産主義者同盟全国委員会

  ・昭和38年2月、革マル派と分裂し発足 勢力は約4,700人

  ・反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」を掲げる。

  ・拠点は前進社、機関紙は「前進」、機関誌は「共産主義者」

  ・過去には数多くの「テロ、ゲリラ」を実行

    平成2年「90年天皇決戦」を主張し、1年間に124件のテロ、ゲリラを実行

    国鉄闘争を基軸に、反原発闘争、改憲阻止闘争等を継続し、組織の維持・拡大を企図

 〈 革労協 〉

  ・正式名称は革命的労働者協会、社青同系の日本の新左翼党派の一つ

  ・解放派とも呼ばれ、1999 ( 平成元  ) 年に社会党社青同解放派から分派 

  ・スローガンは「万国の労働者団結せよ!」目的はプロレタリア世界革命

  ・機関紙誌は『解放』(週刊)、公然拠点は赤砦社、非公然組織は「革命軍」 

  ・警察白書では「極左暴力団」、マスコミは「過激派」と呼んでいる。

 彼らが盛んに活動していたのは、今から61年前、私が大学生の頃でした。ヘルメットを被りタオルで顔を隠し、手にはゲバ棒と呼ばれる角材を持ち、暴力を振るっていました。意見が少しでも違うと仲間同士で殴り合いをし、殺してしまうこともありました。
 
 共産党が宮本委員長になって以来、暴力革命を否定し、議会制を通じて革命をする路線になりました。レーニンと毛沢東の暴力革命を信奉する彼らは、生ぬるい手段で革命はできないと共産党を離れ、旧社会党の傘下に集まり、現在では立憲民主党のもとに群がっています。
 
 その極左暴力集団が民主党政権で内閣を作り、菅直人、仙石由人、枝野幸男氏などが仲間でした。政権につかせてはならない極左過激派集団でしたが、政権担当能力のなさがすぐ露呈し、たった3年間しか政権が続きませんでした。彼らが政権を得た原因は金権腐敗政治に堕した自民党にありましたが、国民は反日左翼政権の悪政に愛想をつかし、より増しな政党として再び自民党を選びました。
 
 口先で威勢の良いことを言うだけで、現実の政治が担えない彼らの無能さは民主党政権で実証されましたが、残党が広島の原爆忌で騒いでいるところを見ると、まだ生き延びていると分かりました。61年前から一つも進歩せず、学びを忘れた劣等生集団なのに、その彼らに洗脳されている若者たちはどれほどの劣等生なのか、見当がつきません。
 
 極左暴力主義は、宮本氏が中国共産党と決別した理由のひとつでもありました。根無しの浮き草政党である共産党にも見放された彼らは、一般国民からも顔を背けられ、消滅寸前の社民党と立憲民主党で身を寄せ合っています。
 
 「広島原爆忌に反対するのは、われわれの権利だ。」「デモをするのも、われわれの自由であり、権利だ。」と神聖な会場で騒いでいますが、こんなことがいつまで許されるのでしょう。彼らの反戦平和と核兵器廃絶が本当の叫びなら、広島の人々に理解されないはずがありません。米国の原爆で犠牲となった人々は、広島の原爆忌の式典を通じて世界の人々に核兵器の恐ろしさと悲惨さを伝えています。
 
 原爆投下の残酷さが戦争の終結を早めたことを思えば、私たちは犠牲となった方々に哀悼の意だけでなく、感謝の気持ちも捧げなくてなりません。その大切な祈りの日の式典を、無知な馬鹿者たちが騒音と罵声で汚すのですから、国民は誰も賛成しません。彼らは反戦平和を口実に、日本の平和を乱す「獅子身中の虫」に過ぎず、騒げば騒ぐほど人々に見放されていきます。
 
 日本では必要とされない無用の集団です。哀れとは思いますが、自業自得です。
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