2007/6/29(金)
★シューマンの「チェロ協奏曲」が聴きたくなり、
NAXOS・HISTORICALのGREAT CELLISTシリーズから、ピアティゴルスキーの
「協奏曲&アンコール集」(ADD 8-11069)を購入しました。
(シューマンの協奏曲は、1934年にバルビローリ指揮ロンドンフィルで録音)
すべてが、飛び切りの名演集です。
CDを聴き終わりますと、もう一度、最初から聴き直したくなります。
このようなことは、本当に久しぶりです。
シュナイダーハンとケンプのべートーベン「スプリング・ソナタ」以来です。
本人へのインタビューを基にした英文の解説が秀逸ですので、ご紹介します。
(それに比べ、一般論ですが、日本のCDの解説は、中身が薄いですね。)
★ピアティゴルスキーは、残念なことに、あまり日本では、知られていません。
レコーディングもあまりなされていないようです。
しかし「間違いなく、カザルス以来、私が聴いた最高のチェリスト」と、
ルービンシュタインが評したことが、すべてを語っています。
★1903年4月、グレゴール・ピアティゴルスキーは、ウクライナで生まれました。
バイオリニストの父から、最初はピアノとバイオリンを習いました。
1910年、ヴィクトール・クバツキーのチェロを聴き、殴られるような感動を覚えました。
(ショスタコービッチは後年、クバツキーのためにチェロソナタを書いています)
7歳の誕生日、チェロをプレゼントされ、急速に技法を習得します。
モスクワ音楽院などで勉強した後、16歳の1919年、
ボリショイ・オペラ・オーケストラの首席演奏者となります。
そこで、シャリアピンなど名歌手とも共演します。
シャリアピンは「グリーシャ!、君はチェロで大変うまく“歌う”が、
もっと“語る”ことをチェロでやったほうがいい」と言ったそうです。
★ソ連では、チェロをさらに学ぶことも、海外公演も許されなかったため、
1921年、ポーランドへ逃げます。
チェロを肩に担ぎ、家畜のトラックを乗り継ぎ、国境線を歩いて渡ろうとしました。
その時、二人の兵隊が、バン、バン、バンと、いきなり鉄砲を撃ってきました。
彼は、恐ろしく肥った(awfully fat)女性のオペラ歌手と、一緒に逃げていました。
バン、バンという銃声を聞いた途端、「彼女は、飛び上がって私の背中に抱きつき、
太い腕を首にキュッと巻き付けました・・・“ my cello is no more ”」。
★ワルシャワのホテルでチェロを弾くことから始め、
ライプチッヒで、ユリウス・クレンゲルに学びます。
(ベッチャー先生は、バッハのチェロ組曲を勉強する場合、原典以外に、
クレンゲル版も参照するように、とおっしゃています)
しかし、彼のライバルである「エマヌエル・フォイヤーマン」の演奏を聴くことで、
もっと、たくさんのことを、学んだそうです。
(フォイヤーマンは、斉藤秀雄の先生です)
1923年、ベルリンで、シュナーベルに助けられ、シェーンベルク「Piero lunaire」を演奏します。
★1924年、フルトヴェングラーによって、ベルリンフィルの首席チェリストに任命されます。
≪フルトヴェングラーは興奮すると、唾を飛ばすので、首席チェロの上に降ってくる。
ピアティゴルスキーは、さっと傘を広げた≫とは、ベッチャー先生の楽しいご冗談。
1929年まで首席を務め、その後、シュナーベル、フレッシュとトリオを組みます。
その他にも、ミルシュティン、ホロビッツともトリオを。
1931年、ルービンシュタインと出会い、「カザルス以来、最高のチェリスト」と評されます。
1930年代を通じて、彼の名声が高まります。
1940年代は、アメリカを本拠とし、42年に市民権を取得します。
1949年、ルービンシュタイン、ハイフェッツ、ピアティゴルスキーのよる
いわゆる≪100万ドルトリオ≫が結成されます。
教育の面でも、カーティス音楽院や南カリフォルニア大で教えます。
1962、66年には、チャイコフスキーコンクールの審査員として、モスクワに里帰りしています。
1976年8月、ロサンジェルス近郊で永眠、73歳。
彼が保有していたストラディバリのうち、「ロード・アイレスフォード」という名器は、
現在、ヤーノシュ・シュタルケルに引き継がれています。
★シューマンのチェロ協奏曲は、ピアティゴルスキーが、戦前に録音した
唯一の協奏曲で、カデンツァも、彼の作です。
音の輝き、技巧が縦横に発揮されています。
録音器がまだ回っている時、オーケストラのオーボエ奏者が、感動して
“ブラボー”と叫んでしまったそうです。
★アンコール集は、名人芸より、音色やフレージングを聴かせるよう選曲されています。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」は、かつてヴォリショイ・オペラで同僚だった
アントニーナ・ネズドノーヴァのために書かれた曲です。
★アンコール集のなかに、シューベルトの「楽興の時」D.780ヘ短調Op94の3が、あります。
この原曲は、有名なピアノ曲です。
ピアティゴルスキーは、思わず踊りだしたくなるような舞曲として、演奏しています。
このように見事なリズムで、この曲が演奏されるのを聴くのは、初めてです。
ピアノを弾く上で大変、参考になります。
シューベルトは、バイオリンや弦楽器を知り尽くしており、家族で弦楽合奏をしていました。
案外、このピアノ曲は弦楽器的な発想も、含まれているかもしれませんね。
是非、お聴きになることをお薦めします。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
★シューマンの「チェロ協奏曲」が聴きたくなり、
NAXOS・HISTORICALのGREAT CELLISTシリーズから、ピアティゴルスキーの
「協奏曲&アンコール集」(ADD 8-11069)を購入しました。
(シューマンの協奏曲は、1934年にバルビローリ指揮ロンドンフィルで録音)
すべてが、飛び切りの名演集です。
CDを聴き終わりますと、もう一度、最初から聴き直したくなります。
このようなことは、本当に久しぶりです。
シュナイダーハンとケンプのべートーベン「スプリング・ソナタ」以来です。
本人へのインタビューを基にした英文の解説が秀逸ですので、ご紹介します。
(それに比べ、一般論ですが、日本のCDの解説は、中身が薄いですね。)
★ピアティゴルスキーは、残念なことに、あまり日本では、知られていません。
レコーディングもあまりなされていないようです。
しかし「間違いなく、カザルス以来、私が聴いた最高のチェリスト」と、
ルービンシュタインが評したことが、すべてを語っています。
★1903年4月、グレゴール・ピアティゴルスキーは、ウクライナで生まれました。
バイオリニストの父から、最初はピアノとバイオリンを習いました。
1910年、ヴィクトール・クバツキーのチェロを聴き、殴られるような感動を覚えました。
(ショスタコービッチは後年、クバツキーのためにチェロソナタを書いています)
7歳の誕生日、チェロをプレゼントされ、急速に技法を習得します。
モスクワ音楽院などで勉強した後、16歳の1919年、
ボリショイ・オペラ・オーケストラの首席演奏者となります。
そこで、シャリアピンなど名歌手とも共演します。
シャリアピンは「グリーシャ!、君はチェロで大変うまく“歌う”が、
もっと“語る”ことをチェロでやったほうがいい」と言ったそうです。
★ソ連では、チェロをさらに学ぶことも、海外公演も許されなかったため、
1921年、ポーランドへ逃げます。
チェロを肩に担ぎ、家畜のトラックを乗り継ぎ、国境線を歩いて渡ろうとしました。
その時、二人の兵隊が、バン、バン、バンと、いきなり鉄砲を撃ってきました。
彼は、恐ろしく肥った(awfully fat)女性のオペラ歌手と、一緒に逃げていました。
バン、バンという銃声を聞いた途端、「彼女は、飛び上がって私の背中に抱きつき、
太い腕を首にキュッと巻き付けました・・・“ my cello is no more ”」。
★ワルシャワのホテルでチェロを弾くことから始め、
ライプチッヒで、ユリウス・クレンゲルに学びます。
(ベッチャー先生は、バッハのチェロ組曲を勉強する場合、原典以外に、
クレンゲル版も参照するように、とおっしゃています)
しかし、彼のライバルである「エマヌエル・フォイヤーマン」の演奏を聴くことで、
もっと、たくさんのことを、学んだそうです。
(フォイヤーマンは、斉藤秀雄の先生です)
1923年、ベルリンで、シュナーベルに助けられ、シェーンベルク「Piero lunaire」を演奏します。
★1924年、フルトヴェングラーによって、ベルリンフィルの首席チェリストに任命されます。
≪フルトヴェングラーは興奮すると、唾を飛ばすので、首席チェロの上に降ってくる。
ピアティゴルスキーは、さっと傘を広げた≫とは、ベッチャー先生の楽しいご冗談。
1929年まで首席を務め、その後、シュナーベル、フレッシュとトリオを組みます。
その他にも、ミルシュティン、ホロビッツともトリオを。
1931年、ルービンシュタインと出会い、「カザルス以来、最高のチェリスト」と評されます。
1930年代を通じて、彼の名声が高まります。
1940年代は、アメリカを本拠とし、42年に市民権を取得します。
1949年、ルービンシュタイン、ハイフェッツ、ピアティゴルスキーのよる
いわゆる≪100万ドルトリオ≫が結成されます。
教育の面でも、カーティス音楽院や南カリフォルニア大で教えます。
1962、66年には、チャイコフスキーコンクールの審査員として、モスクワに里帰りしています。
1976年8月、ロサンジェルス近郊で永眠、73歳。
彼が保有していたストラディバリのうち、「ロード・アイレスフォード」という名器は、
現在、ヤーノシュ・シュタルケルに引き継がれています。
★シューマンのチェロ協奏曲は、ピアティゴルスキーが、戦前に録音した
唯一の協奏曲で、カデンツァも、彼の作です。
音の輝き、技巧が縦横に発揮されています。
録音器がまだ回っている時、オーケストラのオーボエ奏者が、感動して
“ブラボー”と叫んでしまったそうです。
★アンコール集は、名人芸より、音色やフレージングを聴かせるよう選曲されています。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」は、かつてヴォリショイ・オペラで同僚だった
アントニーナ・ネズドノーヴァのために書かれた曲です。
★アンコール集のなかに、シューベルトの「楽興の時」D.780ヘ短調Op94の3が、あります。
この原曲は、有名なピアノ曲です。
ピアティゴルスキーは、思わず踊りだしたくなるような舞曲として、演奏しています。
このように見事なリズムで、この曲が演奏されるのを聴くのは、初めてです。
ピアノを弾く上で大変、参考になります。
シューベルトは、バイオリンや弦楽器を知り尽くしており、家族で弦楽合奏をしていました。
案外、このピアノ曲は弦楽器的な発想も、含まれているかもしれませんね。
是非、お聴きになることをお薦めします。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
北海道の由仁町の畑の中に暮らしています。