音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■■ 東北(とうぼく)への路 解説 ■■

2007-12-24 16:56:58 | ★旧・曲が初演されるまで
2006/6/29(木)

■伝通院でのコンサート「東北(とうぼく)への路」が明後日、7月1日となりました。


 当日、会場でお配りいたします解説です。


 (コンサートのもようは、また、お知らせいたします。)



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



【解説】

★ 東北(とうぼく)への路 =10弦ギター独奏 斎藤 明子


1) 草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家 
 
 「草の戸」とは、世捨て人の草庵。老い先短い世捨て人(芭蕉)が、隅田川の辺の庵を畳み、

 旅立ちます。

 後の庵には、お雛様を飾るような、子供や孫のいる新しい家庭が移り 住むことでしょう。

 “そうあって欲しい”と、念ずる芭蕉。散る桜を想う老人、お雛様 と無邪気に遊び笑う幼子の姿が

 重なり合います。

 老いと幼の対比、人の世の悠久の流れ、 流転、新生が、この一句に見事に込められています。


 ギターからは、枝折り戸を叩くようなコツコツという音。住み替わりの音、芭蕉を旅へ といざなう

 音でしょうか。

 中間部は明るく、谷中で上野で桜を楽しんだ芭蕉の若い甘い 時代。

 そして、旅に発った後も、隅田川は静かに流れ続けます。


2) あらたふと 青葉若葉の 日の光

 新緑の若葉一枚一枚に日の光が当たり、キラキラと生命が宿っています。


3) 五月雨の 降り残してや 光堂
 
 音もなく降る五月雨、廃墟から光堂が浮かび上がります。

 滅びた藤原三代の荒々しい魂 が甦り、また、消えていきます。


4) 荒海や 佐渡に横たふ 天の河

 静寂な七夕の空、暗い日本海は波立っています。天空には、天の川が白く淡く、刷毛で

 描いたように流れています。時の流れのようです。 



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



★ 最上川舟歌  (山形民謡) = 独 唱  神谷 光子  

  神谷さんは、小さいときからご苦労され、日々の辛い労働の後、歌うことで自分を慰め、

  生きるよすがとされてきたそうです。お母さんが歌う民謡を耳で聴いて覚えました。

  それが「最上川舟歌」です。鑑賞用でない本当の民謡、生きる糧として歌い継がれてきた歌です。

  鋼鉄のように張りのある声で歌っていただきます。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


★ もがみ川 =   第1ギター  :尾尻雅弘(7弦ギター)、
           第2ギター  :斎藤明子(10弦ギター)
     (最上川の流れをテーマにした6つの変奏曲)


第1変奏:西洋のバルカローレ(舟歌)風の主題。最上川源流の繊細な流れ。


第2変奏:流れに勢いがつき、瀬の岩が泡立ちます。


第3変奏:子を寝かしつけるお母さんの子守唄。神谷さんの幼少期でしょうか。


第4変奏:間断なく五月雨が降り、霧にけぶった川がとうとうと流れます。

     「五月雨を集めて早し最上川」。


第5変奏:夜のとばりがおり、芭蕉は昼間の光景を行灯の下、筆でしたためます。

    ゆっくりとした音が時を刻みます。


第6変奏:「暑き日を海に入れたり最上川」。

     盛暑のジリジリ焦げるような暑さが、変拍子で奏されます。 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


★ 白秋 ~波の間に~  
      =龍笛、楽琵琶、歌   八木  千暁(せんぎょう)
          
第1楽章:「石山の 石より白し 秋の風」

 龍笛の鋭くもの悲しい響きで始まります。

 楽琵琶は「平調(ひょうじょう)」という秋 の調弦。

 有名な越殿楽も平調です。楽琵琶を弾きながら、俳句が朗々と歌われます。

 楽琵琶の開放弦による分散和音が、風のようにそよぎます。悠久の響きです。

 山中温泉の 「観音堂」の境内には、とりどりの奇岩があり、白く枯れた風情を漂わせている。

 吹き 渡る秋の風は、それよりいっそう白く寂しく吹きわたる。

     
第2楽章:「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」

 再び、龍笛の独奏で始まります。景色が山から若狭の海へと移ります。

 敦賀の海上七里 にある「種の浜(いろのはま)」まで、小舟を走らせます。

 波が寄せては返すそのつか の間、浜の砂の上には、可憐な美しい桜貝に混じり、

 萩の花屑もまぎれこんでいるのが 見える。

 気がつくと、この辺鄙な浜辺もすでに秋色に染まっている。

 楽琵琶に続き、龍 笛の音が、旅の終わりを告げます。


▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲

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■「東北(とうぼく)への路■ その6 ~芭蕉という人物について~ 傑作(0)
2006/6/20(火) 午後 1:50作曲した曲が初演されるまで・・・その他音楽 Yahoo!ブックマークに登録 松尾芭蕉は1644年(寛永21年)、伊賀上野(現在の三重県上野市)で生まれました。


江戸幕府が始まってから41年後、三代将軍「家光」(在位1623~1651年)の時代です。


幕府体制の永続化を目指し、基礎となる制度の確立に努めていた時代です。


1635年には、大名に「参勤交代」を義務づけ、貿易統制やキリシタン弾圧を強化し、島原の乱を経て

1641年までに「鎖国」を完成させました。


「武断政治」の時代と言われています。


山国・伊賀上野は藤堂藩の城下町です。


同藩の本拠は津にあり、伊賀上野は支城でした。


父の松尾与左衛門は、「無足人(むそくにん)」という土着郷士。


苗字を許されるものの、俸禄は給付されません。


士農工商の「士」ではない、いわば準武士階級に属していました。


農業を業とし、地元の名家でした。


芭蕉は二男でした。


伊賀上野という国は、戦国末期の1581年、織田信長に襲われました。


殲滅され、焼土と化した残酷な歴史があります。


父から、その時代の暗く悲劇的な話を聴いて育ったようです。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


芭蕉が13歳のとき、父が没します。


長男が家を継ぎ、母、姉一人と妹三人の家族です。


当時、伊賀上野でも俳諧が、お金のかからない庶民文芸として愛好されていました。


芭蕉も少年時から俳諧を学びました。


19歳の春、その才能を見込まれ、伊賀上野の侍大将の嫡子・藤堂良忠に仕えます。


良忠は2歳年上。「蝉吟」と号し、ことのほか俳諧に執心し、芭蕉を寵愛しました。


しかし、芭蕉23歳のときに良忠が病没しました。


良忠の死は、寵臣として生きる望みが絶たれたことになり、失意のうちに城を去ったようです。


その挫折感が芭蕉の人生観に大きく影響した、という見方があります。


その後の経歴ははっきりしませんが、29歳のとき、江戸に上りました。


杉山杉風が出迎え、内藤風虎、談林派の西山宗因らと交友します。


やがて、江戸の俳諧宗匠では五指に入るまでになりました。


俳諧師は、黒衣円頂(墨染めの衣に剃髪、すなわち僧の姿)です。


本来、「士農工商」の四民の枠外にはみ出た存在、と自覚した人々の群れでした。


しかし、当時は、そうした自覚が薄れ、俳諧は滑稽味、放笑性を追求する低俗趣味に偏重していました。


宗匠の世界も俗化し、パトロンに媚び「座敷乞食」と蔑まれる者も少なくないほど堕していた、といわれます。


芭蕉は、34歳から4年ほど、神田上水工事の事務も副業としていました。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


37歳の冬、華やかな江戸文化の中心地「日本橋」から、隅田川の向こう岸に渡ります。


新開地「深川」の草庵に居を移しました。


俗物の跋扈する俳諧の世界から足を抜き、本当の俳諧を求める“旅”に出たのです。


それまでの俳号「桃青」を捨て、ここで初めて「芭蕉」と号しました。


「芭蕉」は、門人から芭蕉の株を贈られたことから当初、草庵につけた号でした。


芭蕉は、バナナのような大きな青々とした葉を茂らせる樹木。


「夜雨に鳴り、秋風に戦(そよ)ぐ」葉音を愛でた中国の詩人を偲んだと、伝えられます。


弟子を教えて生活する宗匠を捨て、隠遁生活に入りました。


自らを「風雅の乞食(こつじき)」「乞食(こつじき)の翁」と称しました。


しかし、芭蕉を慕う弟子たちが生活の支援を惜しみませんでした。


ここで芭蕉は、李白、杜甫など漢詩文の世界に傾倒します。


1684年、41歳になった芭蕉は、「浮雲無住」の漂白詩人として旅に出ます。


その後7年余りの間に、4年以上も旅で過ごしました。


文字通りの「乞食」ではなく、地方俳壇を支える豪商、名望家、上級藩士を訪ね歩く旅でした。


その間の作品が、「奥の細道」をはじめ「野ざらし紀行」「笈の小文」、「更科紀行」、「嵯峨日記」などです。


「奥の細道」は、1689年、46歳のとき、旧暦3月27日(新暦5月16日)に出立しました。


身の回りの世話をする曾良(そら)という若い男性と一緒です。


曾良は、出発の日の明け方、剃髪し、僧衣に着替えます。


千住、草加、日光、那須野、白河、須賀川、松島、石の巻、平泉、尾花沢、最上川、酒田、象潟、

市振、金沢、山中、永平寺、福井、敦賀と巡ります。


終着は大垣で、旧暦9月6日に筆を置きます。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


この頃から、芭蕉の「不易流行」という俳諧に対する中心的概念が出てきます。


時を超えて永遠に変わらないもの(不易)と、時により絶えず変わりゆくもの(流行)とは、

実は、一つのものであり、異なる視点から眺めたものである。


その理想のありかたは「風雅の誠」である、としています。


「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」


その後、2年間ほどは、京都周辺の去来、凡兆らの門人を転々と訪ね歩いています。


江戸に戻ったのは1691年(元禄4年)の冬です。


「奥の細道」の原稿ができたのは、旅を終えてから3年後の1692年です。


その間、推敲に推敲を重ねたのでしょう。


当時、書物は書写によって普及するのが通常でした。


清書が完成したのはさらに2年後の1694年初夏です。


「紀行文」としてではなく、旅を舞台に借りた創作とみたほうがいいでしょう。


そして、この年の10月12日に芭蕉は世を去ります。


51歳でした。現世の人からみると、はかない短い一生です。まさに人生50年でした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


芭蕉の時代は、元禄時代(1,688~1704年)の初めで、井原西鶴(1642~1693)、

近松門左衛門(1653~1725)も活躍しています。将軍は五代「綱吉」です。


ちなみに赤穂浪士討ち入りは、旧暦・元禄15年12月14日(1703年1月30日)夜です。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


芭蕉については、謎の面も多く、男色であったとか、往来に制限があった時代にかくも自由に旅が

可能だったのは、幕府の隠密であり、使命を帯びて、諸国を歩いていたのではないか、という説も

強いようです。


昔、とても珍しい苗字の方と偶然、お話をする機会がありました。


ある地方出身の方でした。「田舎には同姓の方はかなりいらっしゃるのでしょう」と尋ねました。


「実は、田舎でも我が家一軒だけなんですよ。この苗字は・・・」というお返事。


一軒だけ?

「先祖は、○○藩で代々、とても特殊な仕事をやっていまして、親戚もつくれなかったようです」


特殊?

「幕府が絶えず隠密を放ってくるので、それを探し出し、闇から闇へと始末するのが任務だったんです」

「男の子を一人だけ育て、女の子が生まれても、育てることが許されなかったようです」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


CIAとKGBの暗闘のようなお話ですが、江戸時代のこのようなお話を聞きますと、芭蕉も単なる

隠者ではなく、その時代の歴史を人知れず背負った複雑な側面をもった人であったかもしれませんね。



★中村洋子ホームページ http://homepage3.nifty.com/ytt/yoko_r.html

★「東北への路」チケットお申込みは...
  平凡社出版販売株式会社 中崎 まで。 電話 03-3265-5885 FAX 03-3265-5714


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