今朝もいつものように起きて、5時20分過ぎにMBSテレビをつけたら、25分から始まるはずの「朝チャン」はやらず、特別番組が始まりました。
今日、1月17日は、6434人の命を奪った阪神・淡路大震災が起きた日で、その追悼番組でした。
5時46分に黙とう。僕も、テレビの前で頭を下げました。あれから24年が経ったのですね。テレビは、神戸市中央区の東遊園地というところからの中継でした。
今年の言葉は「つなぐ」でした。あの震災の記憶をつないでいく。そういう思いが込められた言葉なのでしょう。僕もこのブログで、ほぼ毎年この日は、震災に関する記事を続けてきました。記憶を「つなぐ」ということの大切さを、この日を迎えるたびに、しみじみと感じるのです。
また、特に去年の6月には大阪北部で観測史上最大の地震が起きたこともあり、改めて地震の恐ろしさを身近に感じているところです。
今朝の朝日新聞1面。隣に稀勢の里の引退記事も。
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“あの日”は、大阪に住む僕にとっても、忘れられない日でした。1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に震災は起きたのですが、15日(日)が華やかな成人の日で、16日(月)は振り替え休日でした。まだ成人の日が1月15日だった時代で、翌日がその振り替え休日だったのです。
そして次の17日の火曜日は3連休も終わり、
「さあ、また仕事に戻らなければ」
という日でもありました。
午前5時46分のことなので、僕はまだ寝ていたわけですが。
グラッと揺れを感じて目が覚めるとすぐ異常に気がついた。「あっ」と思っているうちに、ガタガタガタっと天井や壁が揺れ出し、大きな地震をあまり経験したことのない僕や妻は何をどうしていいのかわからず、ただ布団にうつぶせて揺れが収まるのを待つばかりだった。ひたすら布団の中で身を硬くし「早く止まってくれ」と念じていた。2階のキッチンで、ガチャンガチャンと食器などが落ちている音がした。
…ようやく揺れが収まり、NHKテレビをつけると、臨時ニュースで、早くもこの地震を報じていた。NHKの屋上のカメラから、まだ真っ暗な神戸の街の生の映像が流されていた。これで、地震の中心が神戸だったことを知ったのです。
TVのスタジオにいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
…そう伝えたのです。
街はまだ真っ暗だったし、火事も起きていなかったから、記者も状況をつかめなかったのだろうか。
ともかくそれを聞いた 僕は、ホッとしてテレビを消した。
「あぁ、大したことなかったんだ。しかし、すごく揺れたな」
台所で床に落ちた食器類を妻と2人で片付けて、僕はそのまま、朝のジョギングに出ました。そのあと、いつものように自転車に乗り、勤務先へ。だから地震の続報はまだ知らなかったのです。
仕事中にはもちろんテレビは見ていません。まさかこれほどの大災害であったとは、仕事をしている間は夢にも思いませんでした。しかし、昼休みにロビーでチラッとテレビを見ると、かなりの被害が出ているようでした。それでも、詳細は知りませんでした。
そして帰宅して妻から「ものすごく被害が出ているよ」と教えられ、初めて事態の大きさを知りました。ニュースを見ると、街中が炎に包まれたり、高速道路が崩れ落ちたり、信じられないような惨状でした。
その1月17日から同25日までの新聞を手元に残しています。
地震があったその日の夕刊で報じられた死者は333人。それが翌日の朝刊では、「死者1590人・不明1017人」となっていました。その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行ったのです。
1995年1月17日(地震当日)の夕刊
同じ1月17日夕刊の社会面。
高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。
翌18日(水)朝刊。
地震発生後、燃え続ける神戸市街。
その日の夕刊。
家が倒れ、焼け野原になった神戸。
1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきた。
写真では活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びていた。
同19日夕刊。
19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
(写真は、煙に包まれる高層ビル)
救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
それらを地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。
1月20日(金)の朝刊。
写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたという。
新幹線の新大阪~京都間はこの日から運転が再開された。
1月21日(土)朝刊。
当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
震度7が確認されたのは観測史上初めてとのことだった。
(2011年の東日本大震災の時の宮城県も震度7だった)
1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
死者はついに5,000人を超えたと報じられた。
阪神・淡路大震災で命を失われた方々の数は、最終的には6434人となりました。
改めて追悼の意を表し、心より犠牲者の方々の御冥福をお祈り致します。
2019年1月17日。午前7時30分。
あの時の地震の恐怖は最近の事のように
思い出されます。
階段を降りようとしたら、ぐにゃぐにゃに曲がっってるようで恐ろしかったです。
まだ子犬だったわんこをずっと抱えてました。
あの日も翌日も確か雪が降るくらい寒かったです。
あんな近くなのに、戦時中のように火の海になっていて。。。
完全な復興、というのはなかなか難しいでしょうね。
家も無くされ、生活も一変した人も多いでしょう。
ともかく、南海トラフもいつ起こるやらわかりませんし、他人事ではないです。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
教訓として日々、防災に心がけなければなりませんね。
yukariさんも、まだ娘さんの頃だったんですよね。
やはり、あの時のことは、皆さん、忘れられないと思います。
yukariさんは、ワンちゃんをずっと抱えておられたのですか。
東日本大震災の犠牲になられた方々は、ほとんど津波で亡くなった方々でした(思い出すだけで辛いですが)。
それを思うと、地震自体でこれだけの人たちが亡くなったのは、極めて稀有なことですね。
おっしゃるように、戦時中の映像のように、街中が火の海です。
また、ここのところ、南海トラフのことがいろいろと言われていますが、
阪神・淡路大震災のことを思うと、そういう災害に備えることがいかに大事かと痛感します。
心がけましょうね、お互いに。