同行者2人の富士山遭難死亡事故で、泣き崩れる片山右京の姿は痛々しかった。
「天気図から判断して、片山さんたちは途中で下山すべきだった」
ある山岳気象予報士は、そう言っていた。 しかし、時間は戻ってくれない。
久しぶりに片山右京をテレビで見たというのに、痛恨の会見となった。
自分ひとりが生き残ったことは、死ぬこと以上に辛いのかもしれない。
その片山右京で、思い出すことがある。
きわめて個人的な話で恐縮だけど…。
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僕は自分の実の父親のことを、ほとんど知らない。
京都で生まれ、まだ幼稚園にも行かないうちに、両親が離婚してしまった。
そして、父親は、僕の前から姿を消した。
その後、母は僕を連れて再婚し、大阪へ出てきた。
僕が小学生になる直前のことであった。
それから、母と義父と僕の3人暮らしが、僕が結婚する時まで続いた。
母は、僕の実父のことについては、いっさい話さなかった。
僕が成人し、結婚し、子供が出来、40歳になり、50歳になっても話さなかった。
別れた夫のことなど、思い出したくもなかったのだろう。 そう思っていた。
写真も処分したのだろう…。 僕の幼い頃の写真に、実父は写っていなかった。
僕も別段、実の父親がどんな人だったかは、聞こうともしなかった。
だから僕は、父の顔や体つきをよく知らない。
母は今年81歳になり、特別養護老人ホームでお世話になっている。
3年前に脳内出血で、半身が付随になってからは、車椅子の生活である。
義父は、7年前に亡くなっている。
僕と両親との小さな歴史を語れば、そういうことになる。
さて、今から5年ほど前のことである。
その頃、母は、まだ元気でひとり暮らしをしていた。
母の家に、妻と一緒によく遊びに行った。 その時の話である。
ある日、母の家に行くと、母は、僕の顔をしげしげと見つめながら、こう言った。
「きのう、テレビを見ていたら、片山右京という人が出てはってなぁ、
その人の顔を見て、ドキッとしたわ。 ほんまにびっくりしたでぇ。
その右京さんという人の顔がな、…あんたのお父さんとそっくりやった」
「へぇ~。 そう…? そんなに似ていたの?」 と僕。
「ふん。 世の中に、あんな同じ顔の人がいてはるとはなぁ…」
と言って、母は、「それにな、あんたとも、よぉ似てるねん」 と付け加えた。
僕は、片山右京の顔って、どんな顔なのか、はっきり知らなかった。
「そんなに似ているんやったら…」
…と言いながら、僕は母に、冗談めかして、
「ひょっとしたら、僕のお父ちゃんが再婚してできた子が片山右京やったりして…」
「……」
「そんなら、僕は片山右京と腹違いの兄弟やがな~」
そう言って高笑いをした。
母は、ため息をつくように、少しだけ気のない笑みを浮かべた。
その後片山右京をテレビで見て、顔だけではなく背格好まで自分に似ていると思った。
かたや元 F 1 レーサー、かたやペーパードライバーという大きな違いはあるけれど…
昨日、報道番組で、右京さんが、
「申し訳ない気持ちです。 全部、自分の責任です」
と、慟哭の会見をしている様子を見て、思わずもらい泣きした。
そして、同時に、母のあの言葉を思い出した。
片山右京。
…その名前が、また京都っぽい。
顔だけではなく、小柄な体格もそっくりだ、と母も言っていた。
昨日、妻が、再三テレビに映る右京さんの顔を見て、僕の顔と見比べながら、
「よ~く似ているねぇ。 ほんと、そっくり」 と言った。
ということは、僕は母親似ではなく、父親似だったのか…
と、生まれて60年経ってから、その 「事実」 に気がついた次第である。
それほど、50年以上も前に夫だった人と右京さんとは、よく似ていた、ということです。
僕はその息子ですからねぇ、似ていると言っても父ほどではなかったと思います。
事故の後の記者会見を、改めて見てみますと、本当に気の毒です。
亡くなられた方の御家族のコメントを聞いても、おっしゃるように、涙が出ます。
冒険家…というのは、いつも死と隣り合わせであるということでしょうね。
植村直己が、アラスカのマッキンレーで遭難死した時、つくづくそう思いました。
一時は「冒険家」になりたい、と思ったこともある僕ですが、現実は、そんな甘くはありませんね。
一度確認しておきます。
そう言えばノンさんの小さい頃のお話聞いたことがありましたね。おとうさんのお顔は覚えていなくてもお母さんが立派にノンさんを育ててくれましたものね。勿論、義理のお父さんもそうです。
人生色々ですわ。
本当にみんな色んなことがありますよね。
それにしても右近さんは可哀そうですね。
だけども、なくなったお二人の身内の方のコメントも胸を打つものがありました。
好きなことをやって、好きな人間のもとで死んで、良かったと--。本当にほろりときます。