ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ミンスク市立第5児童図書館所蔵のチェルノブイリ関連書籍

2016-04-26 | 放射能関連情報
 以前、ベラルーシでは子供向けの放射能教育はどうしているんですか? と日本人から質問を受けましたが、ごく一般的な市立の児童図書館でも、これだけ放射能関連の書籍を所蔵しています。
 10歳から14歳までを一応対象にした開架式の貸し出しコーナーに置いてあります。
 一応というのは、別に14歳を過ぎていても大人でも児童図書館で本を借りることができるからです。

 20年以上前の話ですが「ベラルーシで『原発は危険だ』などという本を読んでいることがばれたら、逮捕されてシベリア送りになるんでしょ? こういう本は地下出版なんでしょ?」
と日本人に言われたことがありますが、大きな偏見です!

 この画像のようにごく普通の児童図書館で開架状態で貸し出しコーナーにあり、自由にベラルーシ人児童、ベラルーシ市民が借りて読んでいます。
  


日本文化情報センター所蔵のチェルノブイリ関連書籍

2016-04-26 | 日本文化情報センター
 4月26日に行われた事故処理作業員の方々のお話を聞く会ですが、会場には日本文化情報センターとミンスク市立第5児童図書館所蔵のチェルノブイリ関連書籍も展示されました。
 画像でご紹介します。
 この画像は日本文化情報センター所蔵のものです。
 チェルノブイリ原発事故以外にも東日本大震災と福島第1原発関連書籍もあります。
 数は少ないですが、在ベラルーシ邦人向けに閲覧・貸し出しも行っています。

チェルノブイリ30年 2

2016-04-26 | 日本文化情報センター
 4月26日会場にはマルィシェフさんの墨絵作品「チェルノブイリ・フクシマ 生命線」が展示され、そのほかチェルノブイリと福島に捧げるマルィシェフさん自作の詩をロシア語と日本語で朗読しました。
 またマルィシェフさんが3年前チェルノブイリを訪れたときに撮影した写真、ウクライナで制作されたチェルノブイリ原発事故をテーマにしたドキュメンタリー映画の上映も行いました。

 日本大使館からもご出席いただきました。また今SOS子ども村で保養滞在中の子どもたち(ゴメリ在住)も出席しましたが、小さい子どももおとなしくマルィシェフさんの体験談を聞いていてびっくりしました。
 このようにつらい体験であっても語ってくれる人がいれば、若い世代に受け継がれていくことが大事だと思いました。
 
 少し遅れてさらに二人の事故処理作業員の方が参加しました。
 セルゲイさんとイーゴリさんです。
 セルゲイさんは「当時は放射能について無知な人が多かった。放射能のことをウイルスのように伝染するものだと勘違いしている人もおり、事故処理作業から帰ってくると、友人が握手してくれなくなった。しかし何年か経って、放射能が何なのか正しい知識が広まり、その友人も握手してくれるようになって、今でも友達だ。」と話していました。
 セルゲイさんは健康状態もいいのですが、娘さんはひどいアレルギー体質で困っていました。娘さんは4年前にアメリカに引っ越したところ、アレルギーが現在治っているそうです。
 セルゲイさんも語り部として自分の体験を話しているのですが、事故処理作業員とそうでない人のことを
「みなさんは焚き火の周りにぐるっと座って火が燃えているのを何となく見ているようなもので、事故処理作業員はその焚き火の上に直接座ってしまったようなもの。」
とたとえて言っていました。
 ぐさっときますね。当事者にしか分からないことがたくさんあるのだと思います。

 イーゴリさんは警察官でした。チェルノブリ原発事故が起きたあと避難命令が出た地域に刑務所がありました。
 刑務官も逃げていくわけです。当然脱獄する人が増えて、あちこちに逃亡。幸い避難民が残してきた家は空っぽなので、そこに潜伏しました。
 その脱獄犯を逮捕するために大勢の警察官が投入され、汚染地域内で捜索しているうちに警察官は被爆・・・
 直接事故処理作業に関わったわけではないのですが、もし原発事故が起きてなかったら、汚染地域に行くこともなく、被爆もしていなかったでしょう。
 このような話は初耳ですね。
 原発事故が起きると、多くの人の運命が変わってしまうということが改めて分かりました。

 節目の日が過ぎ、新しい原発を建設中のベラルーシはこれからますますチェルノブイリのことを忘れていこうとするでしょう。
 しかし放射能の影響はまだまだ続きます。福島第1原発のことも心配です。
 ベラルーシの事故処理作業員の方々にはがんばってほしいですね。
 我々日本人も自分ができることは少しでもしないといけないと思いました。

チェルノブイリ30年 1

2016-04-26 | 日本文化情報センター
 2016年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生してから30年になりました。
 当時のことを覚えていない世代がこれから過半数になります。そんななかで、当時の自分の体験を語ってくれるベラルーシ人の存在は貴重です。
 この日、日本文化情報センターのあるミンスク市立第5児童図書館内で、記念行事を行いました。
 メインプログラムは、元事故処理作業員だったウラジーミル・マルィシェフさんのお話です。

 マルィシェフさんは事故当時、職業軍人で22歳。ミンスク生まれのミンスク育ちですでに結婚しており、1歳になる息子さんがいました。
 1986年11月ウクライナのとある都市に行くように指令が下ります。そのときはチェルノブイリ原発の事故処理作業のために行くとは伝えられていませんでした。
 本人は予感していたものの奥さんにも、任務執行のためしばらく家を空けると言って出発しました。
 ウクライナのとある都市にはソ連軍の空港がありそれに乗せられチェルノブイリ入りしました。そのとき初めて、事故処理作業に従事すると言われたのですが、軍人なので拒否することはできず、そのままプリピャチへ。
 実際に足を踏み入れるときは、怖かったそうですが、もちろんそんなことを周囲の誰も言わないし、黙々と任務をこなす毎日。
 マルィシェフさんは事故処理作業を行う車両の燃料補給を4ヶ月担当していました。
 その間、奥さんに心配をかけまいと思って電話をしますが、当時は電話交換手を通して電話をするシステムだったので、奥さんが電話を取ると交換手が
「チェルノブイリからです。」
と告げたので、秘密にしていたのに原発に行ったのがばれてしまいました。

 作業中は先輩軍人が現場を指揮。毎日のように
「我々はもうすぐ死ぬ。しかし任務を遂行しなくてはならない!」
と激を飛ばしていたそうです。
 1986年10月から土地の除染作業が始まったそうですが、雪が積もると作業ができなくなってしまうため休止。除染作業と称して、避難地域の人家に入り、腐敗した食料品を冷蔵庫から出して廃棄する仕事もしたそうです。
 作業員にはそれぞれ被爆量を知るための線量計を胸や腰につけるよう、支給されていましたが、どれもこれも「動いていなかった」そうです。それは不良品で壊れていたのかわざと壊した線量計を与えていたのか、どっちですか? と質問したのですが、「全く分からない。とにかく全く動いていなかった。」という返事でした。
 
 6年後28歳で軍を退役。
 ここ5年ほどはたびたびチェルノブイリ原発を訪れているそうです。
 最初に行くときは怖かったチェルノブイリ。しかし今はノスタルジーを感じるそうです。 
 線量計は毎時1000マイクロシーベルトほどを示す場所を訪れ、(もちろん防護服はなし。原発を後にするとき、線量のチェックを受けます。)
 
 今は草木に覆われているプリピャチの町。野生のイノシシやキツネ、オオカミが増えているそうです。
 会場の出席者から「鳥は戻ってきていますか?」ときかれ、「鳥には気がつかなかった。ただ、30年前車両にのって移動中、路上にカラスが大量死しているのを見た。」と話していました。

 現在マルィシェフさんのは健康で、「我々はもうすぐ死ぬと毎日聞かされていたけれど、その言葉を信じなかった。だから病気にならなかった。」と話していました。

 マルィシェフさんは墨絵に合気道、詩作に日本語の勉強と、活動的な日々を送っています。