電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

坂本敏夫『典獄と934人のメロス』を読む(2)

2016年03月16日 06時04分46秒 | 読書
著者が、関東大震災下の横浜刑務所における囚人の一時解放と帰還、被災者救援の活動などを知るきっかけになったのは、無実の罪で収監されていた囚人・神田達也の妹サキを母に持つ女性刑務官との出会いでした。そこで、母サキに何度も聞かされた大震災をめぐる物語と、長年にわたり隠蔽されていた衝撃の史実を知ることになります。



有力者である上司の公金横領・使い込み事件で窃盗犯に仕立てられてしまった福田達也は、容疑否認のまま起訴され、懲役三年を宣告されます。母親に控訴審の弁護士費用を負担させるわけにはいかないと控訴を断念、服役していたのでした。担当看守の山下は、人の裁きには時に誤りもあろうと、彼の無実を信じ励ましながら仮出獄を目指して指導していたのでした。

一時解放でようやくたどり着いた自宅では母と妹ともに無事でしたが、妹サキの同級生の家では家具が倒れ、同級生の母子が下敷きになっていました。救出はしたものの住める状態ではなく、雨風をしのげる状態にまで片付けるために、サキは兄に助力を乞います。遅参は刑期の延長となることを承知しながら片付けに従事することを承知した兄の身代わりとして、サキは自分が刑務所に行き、手紙を届けることにします。危険な目にも遭いながら、ようやく到着した刑務所で、サキは兄の事情を報告し、担当の山下看守と椎名典獄に手紙を渡します。

一方、元船員の河野和夫は、横浜の火災で言い交わしたなじみの娼妓を喪いますが、港の崩れた桟橋で荷揚げの仕事を見つけます。市内では朝鮮人を襲撃する動きが起こるなど不穏な中で、便所を作るツルハシやスコップ、あるいは食料の調達などに奔走します。椎名典獄を中心とする囚人自治の動きでした。司法省は、横浜刑務所への救援を拒否しますが、千葉刑務所の救援船で一息つくことができます。

救援船は横浜港へ続々と到着しますが、壊れた桟橋で危険な荷揚げ作業に従事する人足が集まりません。河野ら六人の囚人が見事な連携で荷揚げに従事する姿を見た県警察部長は、横浜刑務所の椎名典獄に囚人の協力を依頼します。もちろん、法律上は「違法就労」です。このとき椎名は、生家である椎名家の家訓「南洲翁遺訓」を想起します。そこでは、「小人は己れを利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す」とされていました。囚人に鎖も分銅も付けずに構外作業を行うことこそ、更生を目指す真の開放処遇ではないのか、と。

司法省行刑局では、囚人の解放を行った椎名典獄を陥れる目的で、永峯書記官を視察名目で派遣します。永峯は横浜刑務所の不平分子の職員を脅し、デマで扇動し、典獄を孤立させようとします。それは一部成功しますが、姑息な策動は、大災害を眼前にした囚人と刑務官たちを分断することはできませんでした。裁判所の倒壊で妻が圧死した山下看守の傍らに、福田サキはそっと寄り添います。

横浜港での献身的な荷揚げ作業の姿をみて、一般市民の囚人たちを見る目も変わります。県知事の感謝の言葉も嬉しいけれど、名古屋刑務所からの移送の申し出もありがたい。帰還した多数の囚人たちが、裁判所の瓦礫の山を取り除き犠牲者を収容するという惨状を乗り越えた頃、典獄・椎名は、平沼麒一郎司法大臣と面会します。平沼大臣の用件は、日本人による朝鮮人虐殺が国際問題になろうとしていることを憂えて、横浜刑務所の解放囚の仕業ということにしてほしい、というものでした。

おそらく、この場面は著者の想像でしょうが、隠された歴史の裏面にあったのは、おそらくこういうものではなかったか、という推測は、生存当事者の貴重な証言を踏まえて、刑務官としての仕事の中で、長年考えに考え抜いた末の結論かと思います。



しかしながら。

囚人たちが大災害を前にして献身的に働いたこと、この事実は賞賛されるべきことでしょう。それを、典獄が自分の一存で、朝鮮人虐殺の犯人という不名誉な捏造事案に加担して良いのか。立派な典獄の姿とは矛盾するのではないのか。それは、歴史に対して不実であるだけでなく、当の囚人たちの誇りを無にすることになったのではないか? そういう思いを持ってしまうことも事実です。最初の読了後、何度もこのことを考えました。

おそらくは、関東大震災と囚人の一時解放を経験した横浜刑務所の囚人たちにとって、更生と静穏な市井の暮らしの価値は、何ものにも代え難いものであったろうと思います。真実はやがて現れるもの、隠し通すことはできません。人としての名誉はその時に回復されるものであり、当時としては早期の仮出獄釈放への道筋をつけることが大切だ、と考えたのかもしれません。

であるならば、本書はまさに、椎名通蔵と看守たちと934人の囚人メロスたちの真実、歴史における名誉回復の書なのかもしれないと感じました。久しぶりに読んだ、骨のある著作でした。

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