電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

広島原爆ドームと資料館を見学し、亡父の体験を思う

2009年08月08日 06時15分47秒 | 散歩外出ドライブ
亡父の一周忌を機会に、広島原爆ドームと平和記念資料館を見学してきました。当方も被爆二世にあたるだけに、感慨は格別に強いものがあります。例年よりも数度ほど低めの気温とはいうものの、30度を超える蒸し暑さの中で、20代だった父が、破壊された都市を前にして連日不眠不休の救援活動に当たったことを思い、あらためて大きな衝撃を受けました。



父が広島市内に入った8月10日には、新型爆弾の正体は原子爆弾であることが判明(*)しておりましたが、無惨な姿の傷病者を救護し、遺体を運搬する兵士たちに、残留放射能の怖さや、放射性物質を含む灰の吸入の危険性などは知らされていなかったことでしょう。たまたま船舶通信隊に所属し、外地から原隊復帰してきたばかりの、東北の片田舎の農家の長男であった青年は、こうして入市被爆したわけです。

直接被爆した広島市民の悲惨で過酷な運命には、生前から父の話を聞いていた私でさえ、思わず目をそむけたくなるほどです。同行した妻などは、資料館の展示に思わず気持ちが悪くなり、しばらくしゃがみ込んで動けませんでした。ましてや、救援活動とはいうものの医薬品があるわけでもなし、皮膚がとけ、肉がはがれ落ち、ただ水を求める人々には手当てのしようがなく、実際には広島市内「ヒジヤマ」という場所(*2)での遺体の運搬が主な仕事だったという亡父には、涙もでないほどの衝撃だったことでしょう。当方の幼年時代にさえも、明け方などに、父がヒロシマの悪夢にうなされることがありました。今で言えば、典型的な心的外傷(PTSD)の症状でしょうか。



終戦(敗戦)後、除隊した父は、復員列車がどこに停車するのかも知らされず、破壊された仙台を通過し小牛田まで行ってから下車することができました。さらに仙台まで戻ってから仙山線経由で山形県に入り、真夏の道を何キロも歩いてようやく帰郷した父は、農業を守る父親と病気失明し全盲となっていた母親らの家族に迎えられます。
生還を喜んだものの、疲れやだるさが、被爆によるものであるとは当時は考えてもみなかったようで、40代に献血のため受けた血液検査で血液の異常を知らされ、原爆症を悟ったようです。赤血球数の少なさ、白血球数の異常。消化器系を中心に、合計八回もの手術を受け、最後は直腸ガンの再発で死去することとなりますが、近所の人たちも、本人の死去と葬儀に際して戦友会の方の弔辞を聞くまでは、たんに病弱で体力がないとしか考えていなかったようでした。

初めての広島旅行は、亡父の鎮魂と、被爆二世であることをあらためて自覚させられた旅でした。

(*):広島市への原子爆弾の投下~Wikipediaの記述
(*2):比治山陸軍墓地
コメント (12)