柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

現状維持

2008-08-21 08:44:37 | Weblog
当地一昨日に世に言うゲリラ雷雨、昨朝にはいわゆる夕立が降り、久しぶりの雨に草木や畑ものは潤ったのでしたが、昨昼夕と涼しいこと。その後夜になっても涼しいまま、夜は肌寒いほどで窓は閉めるわ掛け物引っぱり出すわでした。なんと極端なことです。やはりおかしいんですかね。こんな天候が思い出したように挿間されるのはよくあることではあるのでしょうが、大雨が降り続いている東北日本を思えばやはりそんな気にもなることです。
 福島の県立病院での帝王切開出産での死亡事故裁判、地裁は医師の無罪を言い渡しました。読売新聞はコラムで情理の間で揺れる判決と表現しています、医療事故裁判はどれもそうです、この例に限った話ではありません。遺族側は情(怒り、不信)を原動力にして、慣れない専門用語や専門文献に格闘します、有能な弁護士(検察官)が付けばいいのですが気の毒にも医学にも法定手続きにも不慣れな素人には非常に高い壁です。一方で医師側は自分の土俵でとれる相撲です、医学に素人の裁判官を騙くらかすのは簡単です。言葉が悪いのでしょうが、この場でも何度も書いてきましたが裁判とは正しい間違いを決める場ではありません。遠山の金さんなんかいません。大岡越前なんかいませんよ。検察官と弁護士と、どちらがもっともらしいこと言って裁判官をその気にさせるかの勝負です。本当の事をどうやって判定できるんです?裁判官自体が大の素人です。だから参考人とか鑑定人とか、肩書きちゃらちゃらさせたお偉いさんが重々しく言うとそっちに傾くんです、当然ですね。私のような天の邪鬼がいれば面白いんでしょうが、あの業界もやっつけ裁判官が多いんでしょうし。一見は医師側が理を詰めて弁明する如き様相ですが、あくまで「情の遺族」に対置しているだけです、仕方なかったのだと言い訳しているだけです。素人の遺族が用意せねばならぬのはこの医者のした処置が間違っていたという証拠なんですが、どうやって捜しましょうか、気の遠くなりそうな雲を掴むような話です。法定手続きに沿わねばなりません。検察官の指示に従うばかりです。さぞや悔しい事でしょうね、自分のこの怒り、不信感を直接にぶつけられないもどかしさです。裁判とはそういうものです。情をくみ取るようにはできていません。でも、訴え出るしかないのです、泣き寝入りはしない、死んだこの子に申し訳ないという悲壮感が後押しします。医療事故はきっとなくなりません。各紙の社説が言うように、医学医療を科学と位置づけるならちゃんと科学的に解明すべきです、都合が悪くなると個人差に逃げるのではなくて。確かにそうなのですが、しかし医療が科学である、つまり物理現象のように数字で一般式化できる、再現性に富んだものだという前提からして間違いなんですから、個人差はどうしても排除できません。出産模様も誰一人として同じものはないのです。そう分かっているならちゃん用意して準備して万全下に対応しろ!ということになるのでしょうが、となると日本の医療が崩壊します。今回も県立病院であるにもかかわらず一人医長状態だったんですから。そして彼はきっとちゃんと対応したんです。ううむ、ここのところで永遠にすれ違うのでしょう。寄り合えぬ、つまり現状を維持するが精一杯なんだと思います。そう思います。
 
コメント
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