人が(観客が)感動するのは、もちろん技や力の優れているところへの驚き、その結果を出すまでの才能や努力を総合評価してのことですが、やはり人なのだと昨日書きました。人というのは人柄のこと、その人の発する言葉のこと、付随的には新聞やTV、雑誌が教えてくれるその人のプロフィールも含めてです。言葉ってのは本当に大事なものなんです。その人の頭の中知りたければ喋らせればいいです、何でも良いです話をさせる、すれば丸見えです。自分の頭の中からしか言葉は出てきませんからね。自分の育ってきたところの言葉、今自分が生きている場所の言葉遣いしかできません。人はそんなに器用じゃありません。そういう生な姿を見て、観客はがっかりもし、バカにもし、感動もするわけです。ステレオタイプの返答には食傷するわけですが、負けて悔いなしとか満足してますとか、言わなければならぬのでしょうかね、連中はそう言うのが格好いいと思っているのでしょうか、こう言うべきだとマニュアル化されているのでしょうか、こう言えばいいわけになると思っているのでしょうか。オグシオなる組が負けて、そのどちらかが言ってました、今までのプロセスに満足してますって。ああ、そうですか。見ている方にはプロセスなんてのは聞きたくもないことです。思いがけずに勝ったもう一組、とってつけたようにスエマエなんて書く新聞の節操のなさ。こっちがダメならこっち。こっちもそんなにビジュアル的に劣るわけでもないぞってか。浅薄。軽佻浮薄。強いものが勝つと限らないのが五輪だ、なんてね。スターは日替わり、誰が彗星になってもおかしくないなんて、これも言い訳。解説者や実況アナの弁解やら絶叫の内に次々に負けていく日の丸選手を見ながら多くの日本人は「いつもの光景」と諦めてはいるのでしょうが。柔道、こういう時にしか見ませんからよくわかるのでしょうが、すっかりレスリングですね。服を着た、服を掴んでもいいレスリング。お互いに構えて、なんて美しさが全くありません。バタバタするばかり。そうかと思うとすぐに這いつくばる。背中をつけては負けになりますから奇妙な(美しくない)姿勢で反り返ったり、くるくる回転したりする。剣道の高段者達の漂わせる気品、高潔さ、美しさ、きっと柔道にもあるはずなのですが、世界のスポーツになってしまうと(これをグローバル化なんて言うそうですが)外人達にはとても通じない「地域性」「民族性」なのでしょう。何かの本にありました、日本人は郷にいれば郷に従えという感覚があるが、日本人以外の連中はこっちの都合に向こうを合わせようとするのだと。柔道もそうなんでしょう、日本のルールに合わせはしません、連中の都合のいいようにどんどん変えていく訳です。レスリングに変わっていきます、仕方ありませんか。柔道から Judo への誤訳、なんて表現している新聞がありましたが、別の土俵を作ればいいんです。柔道はかくあるべしって。講道館柔道という競技を作り直すとか。負け惜しみですかね。
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