阪神、ウイリアムスが戻ってきてJFK揃い踏みなんて言ってます。久保田がどうにも不安定なので心強いことではあります。今岡も、この人のキャラクターなんでしょうが、覇気の見えん男ではあります。打ったろう!という気が見えません。あれじゃぁ三遊間抜くが精一杯ですかね。藤本は関本に負けたんでしょうか。今岡がレギュラーで出ないと田中秀太の出番もありません。桧山は代打にすっかり身を落とし。新しいのが入ればはじかれる者も出てくるわけですが。巨人、育成枠上がりが猛打賞!なんて広島みたいな事やってます。ええ?巨人にも育成枠ってのがあったんですか?って話。新聞にはご丁寧に年俸総額三十数億円のチームにあってこの人480万円だって載ります。480万なら少なくないですけれどね一般社会では。誰だか知らない若い連中が出てくるしかないチーム、清原いなくなったらまたすぐに次のお荷物が続々と。どうぞごゆっくり。
JR福知山線の脱線事故、何年経ったのかこの前記事になってましたのにもう忘れています、遺族が団体組んで団交するという記事です。あんな思いも寄らぬ、全くこちらに落ち度のない亡くなり方です、遺された方々の怒りや憤りは十分に理解します。当然JR側も十分な補償交渉に応じてきているんでしょうが、やはり役所体質は抜けていないんでしょうし、と言うか大企業になればなるほど大事故になればなるほど交渉は前例に沿う、お一人おいくらで総額いくらという掛け算になり勝ちでしょう。そこが気に入らない、被害は個人個人で違うのだって論です被害者側は。新聞にはこう載ってます、JRは一般的な人身事故を上回る基準で補償に応ずると言い、被害者側は二度とあってはならぬ重大事故なのに一般的な補償基準をベースにするのはおかしい、亡くなった命の重さを考慮すべきだと反論します。この団交は亡くなった人への思いをどう具体化させるかを考える機会なのだと言っています。うむ、平行線。JRもこれで間違いじゃないんですね、あとは感情の処理ですから。納得してくれるを待つ、ですか。怒りや悲しみは時間が経てば必ず薄まります。むろん薄めないようにするエネルギーが優ればいつまでも怒っていられるのでしょうが、その源は、大事な者を殺された怒り憎しみとJRの対応への不満(端的には補償金額の少なさへの不満)です。もちろん前者が前面です。金など要らないからあの時死んだ夫を妻を親を子をここに戻してくれ!なんて無茶を言っていればいいんです。相手はうつむいて押し黙るしかないですからね。でもそれでいいわけです、あれこれ言わない方がいい、言われるままでいいんです。これも何だかお定まり、予定調和の感すらあります。返せないんなら金たっぷり呉れよ。時間が経てば経つほど、亡くした悲しみが薄まれば薄まるほど、怒りを保つ源泉は金銭闘争しかなくなります。遺族側の言い分も段々屁理屈になっていきます。外から見ると単純な金銭闘争に変わっていきます。亡くなった人への思いとか亡くなった命の重さとかこういう抽象語になっていきます。直接の悲しみが薄まった証拠ですね。長引いて長引かせて最後は誰か政治家が仲介して政治的決着となるんでしょう、これもお定まり。先頭で旗振っているのが被害者の家族でなくでただの知り合いってのもよくある話(今回がどうかは知りません)「亡くなった人」から事態はどんどん離れていくわけです。こうやって人は忘れていけるのです、次の場面に向かえるのです。個人間の解決手段ではない、集団対企業交渉の過程として必要な事と言えばそういう事柄ではあります。
JR福知山線の脱線事故、何年経ったのかこの前記事になってましたのにもう忘れています、遺族が団体組んで団交するという記事です。あんな思いも寄らぬ、全くこちらに落ち度のない亡くなり方です、遺された方々の怒りや憤りは十分に理解します。当然JR側も十分な補償交渉に応じてきているんでしょうが、やはり役所体質は抜けていないんでしょうし、と言うか大企業になればなるほど大事故になればなるほど交渉は前例に沿う、お一人おいくらで総額いくらという掛け算になり勝ちでしょう。そこが気に入らない、被害は個人個人で違うのだって論です被害者側は。新聞にはこう載ってます、JRは一般的な人身事故を上回る基準で補償に応ずると言い、被害者側は二度とあってはならぬ重大事故なのに一般的な補償基準をベースにするのはおかしい、亡くなった命の重さを考慮すべきだと反論します。この団交は亡くなった人への思いをどう具体化させるかを考える機会なのだと言っています。うむ、平行線。JRもこれで間違いじゃないんですね、あとは感情の処理ですから。納得してくれるを待つ、ですか。怒りや悲しみは時間が経てば必ず薄まります。むろん薄めないようにするエネルギーが優ればいつまでも怒っていられるのでしょうが、その源は、大事な者を殺された怒り憎しみとJRの対応への不満(端的には補償金額の少なさへの不満)です。もちろん前者が前面です。金など要らないからあの時死んだ夫を妻を親を子をここに戻してくれ!なんて無茶を言っていればいいんです。相手はうつむいて押し黙るしかないですからね。でもそれでいいわけです、あれこれ言わない方がいい、言われるままでいいんです。これも何だかお定まり、予定調和の感すらあります。返せないんなら金たっぷり呉れよ。時間が経てば経つほど、亡くした悲しみが薄まれば薄まるほど、怒りを保つ源泉は金銭闘争しかなくなります。遺族側の言い分も段々屁理屈になっていきます。外から見ると単純な金銭闘争に変わっていきます。亡くなった人への思いとか亡くなった命の重さとかこういう抽象語になっていきます。直接の悲しみが薄まった証拠ですね。長引いて長引かせて最後は誰か政治家が仲介して政治的決着となるんでしょう、これもお定まり。先頭で旗振っているのが被害者の家族でなくでただの知り合いってのもよくある話(今回がどうかは知りません)「亡くなった人」から事態はどんどん離れていくわけです。こうやって人は忘れていけるのです、次の場面に向かえるのです。個人間の解決手段ではない、集団対企業交渉の過程として必要な事と言えばそういう事柄ではあります。