朝日の記事です、秋篠宮の長男さん悠仁さまが天皇陛下宅を訪問されて夕食を一緒にされたというものです。昔から朝日は皇族に対して敬語を使わないのですが今回もこうです、悠仁さまとさま付けする、天皇陛下と敬称をつけておいて、夕食を共にした、悠仁さまは元気に遊んでいる、犬の写真を見てわんわんと言って喜んでいると。記事は続きます、何でも公募で選ばれた小学生達が皇居の吹上御苑で自然観察会が開かれたそうで、連中は網で昆虫を捕ったり、巨木の幹をのぞき込んだりして楽しんだと。二歳に足らぬ赤ちゃんですが皇族ですからね、その辺りの小学生と一緒くたというのはどうですかねぇ。いえ、単純にイデオロギー問題ですから朝日には朝日の譲れぬ信念があるのでしょうが、悠仁さまが遊ばれている、仰言っている、喜んでおられたと書けませんかねぇ。他のガキどもは虫を捕って楽しんでいたでいいんです。これは厳たる日本の文化の筈ですがね。理由なんか要りません。昔からそうだったし、今の皇族方もちゃんとその伝統を守っておられる、公務を粛々と果たしておられる(皇太子妃はどうか知りませんが)、なれば下々としてもちゃんと対応せねばなりますまいにと思うのです。お上とやら下々とやらの謂が気に入らぬは重々承知の助で言ってます。それとも人間皆平等!なんて振り回しますか、あなたも。
今朝の天声人語、ホームで不意に背を押される事件、船場吉兆の食べ残し再調理事件を挙げて、「暗黙の信頼」が揺れていると書きます。そんなことをするはずがないという信頼が揺らいでいると言います。確かに。料理屋の厨房という密室性は、客の信頼だけで成り立っているわけです。ちゃんとするだろうという信頼有ればこそ人は密室性を許すわけです。ま、バタバタしているところを見たくはない、魚捌いているところなんぞ見たくもないという気持ちも加わってはいますが。食べ残しを他の客に出す。手をつけてなければいいだろう、もったいないから。ここを糾弾するにコラム子はこう書きます、(もったいないを言い訳にしては)もったいないに申し訳ない、食べ物を大事にする思いと、商売のそろばんは顔つきは似ていても心根が違う、と。商売のそろばん云々はその通りですが、そのまま捨てるのはもったいない、誰も手をつけていないなら汚くもないじゃないかという理屈とは別の話ですよね。商業倫理というか、食べ物商売する者として守らねばならぬいろはのいじゃないかという誹り、それは安全性と衛生面での品質担保であり、それが客の安心信頼に繋がり、ひいては物品流通の促進、食品業界、経済の発展に繋がるという大上段の大風呂敷になっていって、そういう仕組みの根幹を揺るがす大変な不祥事だ!って怒っているんですね、それはわかります。でも、捨てるのはもったいないというあの女将のセリフとは食い違ってますでしょう。すれ違ってますよね。別の次元事ですよね、きれい(汚れてない、誰も箸を付けていない)なものを出すんだからそんなに怒られる事じゃないだろう。例えば(これは経験したことですが)ビアガーデンで客の飲み残しをそのままドバドバとサプライヤーに戻したり、シュウマイやら焼き鳥の残りをまとめて余所に出したりなんてこととは違うわけです。いや、同じことだと言われればそれもそうです、でももったいないという感想を非難できませんでしょう?食わぬなら、飲まぬなら頼むな!って。残すくらいなら初めから食うと言うなって。こうも言うじゃありませんか、肉を食べる魚を食べる野菜を食べる時、それぞれの命を頂くという思いで有り難く食しなさいって。食べ物を粗末にするなという道徳則と、客商売の倫理とはきっと交わりません。大量生産(調理)大量消費(全部捨てる)で成り立つのが後者です。「もったいない」に申し訳ない、なんて言い回しでごまかしているだけなんですね。女将の言う「もったいない」はどこのファミリーレストランでもファーストフードの店でもごくありふれた光景であって、一旦客に出した者は一も二もなく捨てるというとんでもない無駄浪費を指しているのです、大きく言えば。これが一般家庭なら(今時の若い主婦達はどうだかわかりませんが、少なくとも我が女房様辺りの年代の女の人達は)もったいないが優先されます、もっとも作らない買わないというより残さないが優先されましょうから女房殿は肥えていくわけですが。これは例の賞味期限消費期限の決め方にも及ぶ問題でしょうし、世界中で食糧が足りなくなってきている現況を思えば、それこそ「もったいない」をもっとちゃんと考えるべきだということでしょう。具体的には食べられるものを粗末に扱うなという簡単なことなんですが、商売商品の衣を着ると大量生産大量消費(破棄)の流通機構から抜けられません、作る者も売る者も買う者も金儲けですから。コラム子はそこを、同じに見えても心根が違うと書いています、利を上げようとする(卑しい)欲と食物を無駄にしないでおこうとする(美しい)気持ちとの差を言いたいのでしょうが、「もったいない」はつまりは節約倹約の勧めです、もっと平たく言えばお金を無駄にしなさんな、です。商売っ気が下等で、本来の「もったいない」精神はもっと上等高等なものなのだと言いたいのでしょうが、女将の言い分は商業倫理には反するものでしょうが「もったいない」という言葉の使い方には全く問題のないことだと思います。山本夏彦が言いました、正義と平和には気をつけろと。このように正義の味方を気取って書いている文章にこそ、嘘とすり替えが満ち満ちているのでしょう。そう思います。
今朝の天声人語、ホームで不意に背を押される事件、船場吉兆の食べ残し再調理事件を挙げて、「暗黙の信頼」が揺れていると書きます。そんなことをするはずがないという信頼が揺らいでいると言います。確かに。料理屋の厨房という密室性は、客の信頼だけで成り立っているわけです。ちゃんとするだろうという信頼有ればこそ人は密室性を許すわけです。ま、バタバタしているところを見たくはない、魚捌いているところなんぞ見たくもないという気持ちも加わってはいますが。食べ残しを他の客に出す。手をつけてなければいいだろう、もったいないから。ここを糾弾するにコラム子はこう書きます、(もったいないを言い訳にしては)もったいないに申し訳ない、食べ物を大事にする思いと、商売のそろばんは顔つきは似ていても心根が違う、と。商売のそろばん云々はその通りですが、そのまま捨てるのはもったいない、誰も手をつけていないなら汚くもないじゃないかという理屈とは別の話ですよね。商業倫理というか、食べ物商売する者として守らねばならぬいろはのいじゃないかという誹り、それは安全性と衛生面での品質担保であり、それが客の安心信頼に繋がり、ひいては物品流通の促進、食品業界、経済の発展に繋がるという大上段の大風呂敷になっていって、そういう仕組みの根幹を揺るがす大変な不祥事だ!って怒っているんですね、それはわかります。でも、捨てるのはもったいないというあの女将のセリフとは食い違ってますでしょう。すれ違ってますよね。別の次元事ですよね、きれい(汚れてない、誰も箸を付けていない)なものを出すんだからそんなに怒られる事じゃないだろう。例えば(これは経験したことですが)ビアガーデンで客の飲み残しをそのままドバドバとサプライヤーに戻したり、シュウマイやら焼き鳥の残りをまとめて余所に出したりなんてこととは違うわけです。いや、同じことだと言われればそれもそうです、でももったいないという感想を非難できませんでしょう?食わぬなら、飲まぬなら頼むな!って。残すくらいなら初めから食うと言うなって。こうも言うじゃありませんか、肉を食べる魚を食べる野菜を食べる時、それぞれの命を頂くという思いで有り難く食しなさいって。食べ物を粗末にするなという道徳則と、客商売の倫理とはきっと交わりません。大量生産(調理)大量消費(全部捨てる)で成り立つのが後者です。「もったいない」に申し訳ない、なんて言い回しでごまかしているだけなんですね。女将の言う「もったいない」はどこのファミリーレストランでもファーストフードの店でもごくありふれた光景であって、一旦客に出した者は一も二もなく捨てるというとんでもない無駄浪費を指しているのです、大きく言えば。これが一般家庭なら(今時の若い主婦達はどうだかわかりませんが、少なくとも我が女房様辺りの年代の女の人達は)もったいないが優先されます、もっとも作らない買わないというより残さないが優先されましょうから女房殿は肥えていくわけですが。これは例の賞味期限消費期限の決め方にも及ぶ問題でしょうし、世界中で食糧が足りなくなってきている現況を思えば、それこそ「もったいない」をもっとちゃんと考えるべきだということでしょう。具体的には食べられるものを粗末に扱うなという簡単なことなんですが、商売商品の衣を着ると大量生産大量消費(破棄)の流通機構から抜けられません、作る者も売る者も買う者も金儲けですから。コラム子はそこを、同じに見えても心根が違うと書いています、利を上げようとする(卑しい)欲と食物を無駄にしないでおこうとする(美しい)気持ちとの差を言いたいのでしょうが、「もったいない」はつまりは節約倹約の勧めです、もっと平たく言えばお金を無駄にしなさんな、です。商売っ気が下等で、本来の「もったいない」精神はもっと上等高等なものなのだと言いたいのでしょうが、女将の言い分は商業倫理には反するものでしょうが「もったいない」という言葉の使い方には全く問題のないことだと思います。山本夏彦が言いました、正義と平和には気をつけろと。このように正義の味方を気取って書いている文章にこそ、嘘とすり替えが満ち満ちているのでしょう。そう思います。