30日朝、フジテレビの「とくダネ!」を見ていたら、先日八丈島沖で転覆漁船から救出された船内の実寸の模型を公開していたが、ほんの半畳程度の板の間でよくぞこんなスペースで丸3日半もじっと我慢していたものだ、と驚嘆させられた。奇跡の生還を果たした3人はまだ会見していないので、心境など詳細はわからないが生死を分けたものが何だったのか、興味は尽きないが、海をよく知る人にとっても今回の生還は考えられない偶然の産物だったようだ。
佐賀県唐津市の鎮西町漁協所属のキンメダイ漁船「第一幸福丸」(8人乗り、19トン)が下田港を出港したのは20日で、折りからの台風20号の直撃を受けて、24日午後8時に転覆してしまい、当時操舵室にいた牧山新吾船長はは救命いかだに乗って脱出したが、残る7人の船員は後部のある居住区である船室に閉じ込められた。ところが、海水が床下から迫ってきており、7人のうち4人は順次か、同時にかわからないが、海水を潜って船外へ脱出を試みて、残った3人が居住区にとどまった。
もちろん、居住区とはいえ、明かりも灯らず真っ暗のなか、食料も水も満足になく、海水も迫ってきて、ただひたすらいつ来るかわからない救助を待つのみの時間を過ごすこととなった。水らしきものはペットボトルが海水に浮いていて、少し飲んだところ、味がおかしかったので、捨ててしまった、という。スペースはとても3人が横になれるほどもなく、代わりばんこに眠るのがせいぜいだったようだ。
幸運だったのは海水の温度が摂氏25度と比較的高く、体力の消耗を防いでくれたことと、呼吸して吐き出す2酸化炭素が海水に溶け込み、海水からは酸素を供給されて、窒息しなくて済んだ、ということだ。海に浮かんでいれば、風にさらされて体力が消耗してしまうが、密室のなかで風が吹くこともなく、エネルギーの消耗もなかったわけだ。
で、丸3日半経った28日午前10時半ごろ、八丈島の北北東約55キロの海域で転覆している「第一幸福丸」を海上自衛隊機が発見し、その後海面に出た船底を叩いたところ、中から反応があり、奇跡の生還となった。生還した3人のなかには初めて漁船に乗り組んだ人がいたて、海難の際の対処や海の怖さを全く知らずに何も考えずに無心に残ったことが運命の分かれ道となったようだ。
1人救命イカダに乗り込んだ牧山船長はその3時間前に八丈島の北約20キロの海域で漂流しているのを発見され、死んでいるのが確認された。また、船室から先に脱出した4人の生存は確認されていない。
過去、転覆した漁船から救出された例はあるが、丸3日半も生存していたケースは聞いたことがない。71年11月に北海道・稚内で漁船が転覆し、1人救出されたが、この時は転覆してから25時間経っていたのが最長である。船室に残っていたのが4人だったら、酸素の供給が追い付かなかったかもしれないし、数々の偶然が重なったことが生還となったようだ。
3日半もの間、救助が必ず見つけてくれる、との信念を持っていたのだろうか。水も食料もない暗闇のなかで、何を考えていたのか、ドキュメンタリー小説の一本でも書けるようなドラマがあったのは確かなことだろう。
追記 31日午後1時から静岡県下田市の伊豆漁協で会見した3人は奇跡の3日半の状況を語ったが、居住区でなく船底のエンジンとスクリューを結ぶキールと呼ばれるスペースに横たわっていたことが判明した。しかも、自らの意思で残ったのではなく、逃げ遅れ、調理室の冷蔵庫にふさがれて脱出できなくなったことも判明し、運命の岐路が偶然だったことを物語っている。3人のなかで一番生きることに執念を見せたのは最年長のベテランで、残る2人は諦めていたこともわかった。一番若い船員は途中、脱出を図ろうとして、2人に止められた、ともいう。漁船は海洋ブイなる装置を積んでいないのだろうか、気になるが、こんな事態を想定しての対策が果たして立てられるのだろうか、わからないが、ぜひ今後に生かす教訓を見つけてほしいものだ。
佐賀県唐津市の鎮西町漁協所属のキンメダイ漁船「第一幸福丸」(8人乗り、19トン)が下田港を出港したのは20日で、折りからの台風20号の直撃を受けて、24日午後8時に転覆してしまい、当時操舵室にいた牧山新吾船長はは救命いかだに乗って脱出したが、残る7人の船員は後部のある居住区である船室に閉じ込められた。ところが、海水が床下から迫ってきており、7人のうち4人は順次か、同時にかわからないが、海水を潜って船外へ脱出を試みて、残った3人が居住区にとどまった。
もちろん、居住区とはいえ、明かりも灯らず真っ暗のなか、食料も水も満足になく、海水も迫ってきて、ただひたすらいつ来るかわからない救助を待つのみの時間を過ごすこととなった。水らしきものはペットボトルが海水に浮いていて、少し飲んだところ、味がおかしかったので、捨ててしまった、という。スペースはとても3人が横になれるほどもなく、代わりばんこに眠るのがせいぜいだったようだ。
幸運だったのは海水の温度が摂氏25度と比較的高く、体力の消耗を防いでくれたことと、呼吸して吐き出す2酸化炭素が海水に溶け込み、海水からは酸素を供給されて、窒息しなくて済んだ、ということだ。海に浮かんでいれば、風にさらされて体力が消耗してしまうが、密室のなかで風が吹くこともなく、エネルギーの消耗もなかったわけだ。
で、丸3日半経った28日午前10時半ごろ、八丈島の北北東約55キロの海域で転覆している「第一幸福丸」を海上自衛隊機が発見し、その後海面に出た船底を叩いたところ、中から反応があり、奇跡の生還となった。生還した3人のなかには初めて漁船に乗り組んだ人がいたて、海難の際の対処や海の怖さを全く知らずに何も考えずに無心に残ったことが運命の分かれ道となったようだ。
1人救命イカダに乗り込んだ牧山船長はその3時間前に八丈島の北約20キロの海域で漂流しているのを発見され、死んでいるのが確認された。また、船室から先に脱出した4人の生存は確認されていない。
過去、転覆した漁船から救出された例はあるが、丸3日半も生存していたケースは聞いたことがない。71年11月に北海道・稚内で漁船が転覆し、1人救出されたが、この時は転覆してから25時間経っていたのが最長である。船室に残っていたのが4人だったら、酸素の供給が追い付かなかったかもしれないし、数々の偶然が重なったことが生還となったようだ。
3日半もの間、救助が必ず見つけてくれる、との信念を持っていたのだろうか。水も食料もない暗闇のなかで、何を考えていたのか、ドキュメンタリー小説の一本でも書けるようなドラマがあったのは確かなことだろう。
追記 31日午後1時から静岡県下田市の伊豆漁協で会見した3人は奇跡の3日半の状況を語ったが、居住区でなく船底のエンジンとスクリューを結ぶキールと呼ばれるスペースに横たわっていたことが判明した。しかも、自らの意思で残ったのではなく、逃げ遅れ、調理室の冷蔵庫にふさがれて脱出できなくなったことも判明し、運命の岐路が偶然だったことを物語っている。3人のなかで一番生きることに執念を見せたのは最年長のベテランで、残る2人は諦めていたこともわかった。一番若い船員は途中、脱出を図ろうとして、2人に止められた、ともいう。漁船は海洋ブイなる装置を積んでいないのだろうか、気になるが、こんな事態を想定しての対策が果たして立てられるのだろうか、わからないが、ぜひ今後に生かす教訓を見つけてほしいものだ。
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