とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2021福島・日本三百名山登山ツアー:2日目会津若松・飯盛山観光

2021-05-13 21:56:25 | 観光
二岐山から会津若松市内に向かう。宿に行くには時間がまだ早いので、飯盛山周辺を観光していくことにした。飯盛山は、会津若松市街の東2キロにあり、城下町を一望に見渡す小高い山で、その頂上には約1650年~1700年前につくられた前方後円墳があり、地元住民の共同墓地でもある。そして古くは、日本武尊などの神話も残り、会津盆地を見守る信仰の山である。特に、戊辰戦争の折に白虎隊が自刃した地として知られ、あまりにも有名な場所だ。

まずは、白虎隊記念館に寄っていく。


入口には、白虎隊の少年兵の像が建っている。


記念館に入り、白虎隊や戊辰戦争の歴史を勉強する。主に「白虎隊」をはじめとする戊辰戦争関係の史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵、展示していて、アニメによる「白虎隊」の解説ビデオなどを見て回る。

飯盛山の山道は長い石段が続いているが、その隣には『動く坂道』(スロープコンベア)があり、山歩きをした後で、らくちんに行こうとスロープコンベア2機を乗り継ぎ、山頂に辿りつく。


まずは、白虎隊自刃の場に立ち寄る。慶応4年(明治元年)~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争で、会津藩は、15歳~17歳の少年で『白虎隊』を編成し、その中でも、士中二番隊は会津藩校日新館に学ぶエリート隊だった。彼らは明治元年(1869年)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。だがここから眺めた戦闘による市中火炎の模様、黒煙と炎に包まれる鶴ヶ城を見て、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったと、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶ったという悲劇的な場所である。そして、ここに鶴ヶ城方面を眺めている少年の像がある。


少年が眺めている方向には鶴ヶ城が見える(白いアンテナ塔の後ろ)。


イタリー記念碑。1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑が建っている。大きなこの石碑は、赤色花崗岩の古代円柱で、その上部には右足に鉞を持った青銅の鷲が羽を広げている。その碑文には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。』と記され、裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻されているそうだ。また、この碑の中心の円柱は、ヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱だという。


広場の奥にあるのが、白虎隊十九士の墓。白虎隊士中二番隊の37名のうち、20名が飯盛山で自刃したが、1人だけ蘇生したため19名の墓があるという。


白虎隊の墓から、下がったところにあるのが、さざえ堂だ。正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂だ。




その形が、さざえの殻に似ていることから俗に『さざえ堂』と呼ばれ、階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されている。


かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。しかし、明治の神仏分離令で仏像は撤去されてしまっている。


今まであまり関心がなかった会津の歴史を学び、史跡を訪ねることで新たな発見をしたような気持になった。帰る頃には、夕方ちかくとなり駅前のホテルに向かった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。