『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

さぁ! 『名人戦』開幕! 七冠への道

2023-04-05 09:03:00 | 藤井 聡太

 

きのうは
タイヤ交換に
30年来、お世話になっている
整備工場に出向いてきた。

 

途中、陸橋の頂点で
吾妻山の「雪兎」を撮ってみた。

標高1705mの山頂も
もはや雪が降ることもなく、
残雪の「雪兎」も
これから段々と痩せ細っていく。

*

ブロガー仲間のM先生は、
城山に赴いて、
桜の合間から「雪兎」を
撮影していた。

自分も桜が満開の頃は、
毎年、出かけて、
このスポットから撮っていたが、
どーいうわけか、この春は、
あまり花見に「行きたい」
という欲動が湧き起らずにいる。

三年越しの坐骨神経痛に
あらたに顎関節症痛が加わり、
花粉アレルギーも例年より強いので
行動エネルギーが
低下しているのかもしれない。

*

そんなんでも・・・
整備工場の帰路、
ランチ・タイムにさしかかり、
ついつい「かつ丼」への
喰い気はしっかり起こり(笑)、
衝動的に『峯亀』に
寄ってしまった(笑)。

なんだか、
最近、「かつ丼」が
プチ・マイブームになっている(笑)。

体調がワルイ時は、
「かつ丼」なんて
とても食べれたもんじゃないが、
こうも食べたくなるんだから、
決して心身衰弱というワケでも
なさそうだ(笑)。

それとも、
単なる「イヤシイ」だけか・・・(笑)。

京都旅行から帰ってきてこっち、
なんやかやで、
体重が増えてしまい、
新学期を前にして困ってるが、
「かつ丼」なんて
最も高カロリーのものに
色目が衰えないから・・・
ほんに、困った・・・(笑)。

理性が食欲に勝てない(笑)。

*

カミさんは、
始業式前でも、
新年度体制の仕事のために
毎日、出勤してるので、
毎夕食の支度係になっている。

ゆんべは、
おとつい味わった水餃子を
作ってみたくなり、
薄力粉と強力粉を適当にブレンドして
ウドンを作る要領で
湯コネした。

それから、
麺棒で延して
粉だらけの真っ白けに
なっちまった(笑)。

ほいでも、
思ったより上手くできあがり、
茹でたては
ツルツル・モチモチ食感で、
カミさんも
「美味しいねぇ・・・」
と、気に入ったようだった。

つけダレも
4種ほど用意してみた。

いちばん合ったのは、
庭の山椒の若芽と
白味噌・蜂蜜を
すり鉢でズリコロやった
「山椒味噌」だった。

この“手前味噌”は
秀逸だったので、
今晩もこしらえて
豆腐田楽に仕立ててみようと思う。

幼児の頃から
包丁でクズ野菜を刻んでた
“料理大好き少年”だったので、
【栴檀は双葉より芳し】
の格言のごとく、
“料理大好きジジイ”に
なってしまった(笑)。

*

きょうは
朝9時から
ソーちゃんの『名人戦』が
いよいよ始まる。

これまで、
タイトル戦で
全勝してきた渡辺名人が
相手なので、
確率的な可能性では
「必勝」と「七冠達成」が
濃厚である。

でも、人生と同様に、
そのプロセスを
これからじっくりと
味わいたいと思っている。

*

三週間もの
春のロンバケなので、
ライフ・ワークである
『魂理学』研究と
その成果をまとめて
三冊目の関連書の
執筆にかかっている。

出来の如何によっては、
出版社に売り込むか
Amazonで独自販売しようかとも
考えてはいるが・・・
“持ったが病”の
「タレカ(横着)症」で、
ま、そうなりゃそうでもええが、
そーならんでもええわ、
ってないい加減さである(笑)。

何よりも、自分の為の研究であり、
自分が納得できりゃ、
それでオシマイなのである(笑)。

今日も、
棋戦を見ながら、
スピ本を再々読して、
あらたな発見が出来る事を
期待している。

 


**** 『魂理学』試論ノート 4 ****

「無限性」というものが
実在するとすると、
 「何でもあり」という事が
成り立つように思う。

そして、
オールマイティ・全知全能・万能は、
まさに、「神性」とも言える。

それが、「原存在」であり、
そのコピーが我われヒトであり、
その「自意識」である、
と魂理学的には考えている。

*

数学者のロジャー・ペンローズは
「数学的実在論」について・・・

・数学の諸対象は客観的に、
人の知識にかかわりなく実在する。

・数学の諸対象は物理的なものではなく、
肉体的経験の時間と空間の外に存在する。

・数学の諸対象は経験の外にあるが、
人は数学の諸対象を知覚・認識できる。

・・・と、説いている。

魂理学では、
「似ている現象を根拠にして
異なる現象について推量する」
アナロジー的な観点と
「直感」を依拠としているので、
ペンローズの立場には
抗っている。

数直線について観ると、
「0」を起点として、
「+」方向と「ー」方向の
両側へ無限大の拡がりがある。

数の概念そのものに
「∞」の性質がある。

また、「0」から「1」の間にも
「0.1」「0.001」「0.0001」
「0.9」「0.99」「0.999」
・・・と、
無限に微分化していく事もできる。

これは、
現宇宙の以前の状態と仮定する
「原存在」においても
当てはまるのではないか、
と直感的に推論するのである。

量子力学の立場から
ヒュー・エバレットが提唱した
「多世界解釈」(パラレルワールド)では、
やはり「無限」の可能性世界が存在する、
と説いている。

これは、従来の
「粒子の位置や状態は
観測されるまで特定できず、
空間の各点ごとの存在確率の
大小としてしか把握できない」
とする『コペンハーゲン解釈』よりも
支持する物理学者が近年、増えている。

現象界を記述する物理学では
「∞」の概念を導入すると、
方程式が成り立たない、作れない、
という数式的破綻が生じるという。

それ故に、
エバレットのパラレルワールド説は
可能性世界が「無限」に存在している、
と説いたのは、
かなりに大胆な世界観と言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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思い替え/リフレーミング

2023-04-04 09:20:40 | メンタル・ヘルス

まだ、春休みである。

ロンバケである。

何をしてもいいが、
何をしなくてもいい(笑)。

何やらのイベントがない日は、
『徒然草』のノッケの出だしみたいな
心境になってしまう(笑)。

あす、あさっては、
ソーちゃんの『名人戦』があるから、
それを中心に一日がまわってられる。

そういう日は、
存外、楽だ(笑)。

明日は、朝から、
口腔外科の予約も入ってるから、
いそがしい(笑)。

【今日用(教養)と
 今日行く(教育)処が
 あることが大切だ】
と宣うたのは
“料理の鉄人”
道場のロクさんである。

*

のっぺりとした
ベタ凪のような昨日。

ほんなんで、
【火のない所に煙は立たぬ】
ので、
板切れに棒を擦りつけるように、
「教養と教育」の実践に出かけた。

 

初めて行く、
珍しい「水餃子」専門店で、
久しぶりに、そのモチモチ感を
味わってきた。

「初めて・珍しく・久しぶり」
というのは、
行動療法でも取り入れている
「行動」変化を喚起する
主要な「スリー・コンセプト」である。

口開け時の11時には、
すでに4組ほどの客がいて、
狭い店は満席となった。

だれもが、
ご飯や吸い物が付いた
「定食」(1100円)をオーダーしてたが、
餃子は、パスタ料理でもあるので、
単体で味わうこともできる。

事実、本家「中国」では
そのスタイルである。

もっとも、最近では、
世界的な日本食ブームで、
「餃子定食」と称した
ご飯と一緒に喰らう
「日式」というスタイルも
中国人は受け入れているようだ。

餃子は、皮と餡で出来た
いたってシンプルながらも
なかなかに味わい深い。

「水餃子」・・・
これは、うちでも作れんなぁ・・・
と、思った。

なので、さっそく、
今晩の夕食にでも
やってみようと思ってる(笑)。

*

郵便箱をあけると、
見慣れぬ「教育委員会」からの
茶封筒が入ってて、
怪訝に思って開封してみた。

そしたら、
つい先日、廃部になった
福大ギター部の13本のギターを
勤務校に寄贈したことへの
「受納書」と「礼状」だった。

自分が為した事と、
当該市教委とが
咄嗟に脳内で結びついて
閃かなかったので、
呆けたなぁ・・・と、
思わないでもなかった(笑)。

ま、「老人力」が、
ますます付いてきた・・・と、
「思い替え」するほうが
落ち込まずにすむというものだ(笑)。

これも、
「リフレーミング」という
立派な認知行動療法の
テクニックである。

*

車で出ると
外の自然の変化に
目をやる余裕がないが、
家の周辺を散歩するだけで
ツクシや見知らぬ花々をも
見ることが出来て、
それらとの「絆」も
同じ「生き物」として
感ずることがある。

してみたら、
都会に棲む人々は、
コンクリやアスファルトばかりで、
歩いても木々や花々、
鳥、虫たちと出逢えず、
自分が「生き物」である事を
忘れているのではいまいか・・・と、
老爺心ながら心配になる。

息子たちやその家族も
東京・大阪という
大都会暮らしをしている。

40年前の25歳で、
大阪の外れの方にある
高槻市の「上牧」という処の
新設校に着任した時は、
まだ、天王山やら淀川が望め、
土手には自然があふれ、
阪急駅前も原っぱ状態で
草花や虫も観察できた。

今の駅前は
立派なロータリーができて、
周辺は店だらけになった。

*

一つの木に
「紅白」の花が咲くのを
時折、観ることがある。

素人目には、
不思議な現象に映るだろうが、
生物学を学んだ高校生なら、
遺伝子の局所的な変異と
理解できるだろう。

日常でも、
身体のトンデモナイ処から
「福毛」と称する毛が
ピョコンと生え出すのを
体験することがあるが、
あれもまた局所的な
毛根細胞における
遺伝子のエラーなのである。

つまり、
周囲の細胞との
原形質連絡による
「特異性維持」機能
(その場の形質を保つ働き)
の同調ミスに拠る。

ここにおいても、
ワクチンで有名になった
mRNA(伝達リボ核酸)や
DNA(デオキシリボ核酸=遺伝子)
がケラチンというタンパク質の
生成に関与している。

*

30年以上前の教員時代に、
京都の『アバンティ』で購入した
当時、2万円くらいした
ターコイス(トルコ石)の
ループタイが欠けてしまった。

おそらく、
クローゼット内で
落っことした時に
ヒビが入ったのだろう。

もともと、
黒い筋目の部分は
成分が違った境界面で
クラックが入っていたのかもしれない。

ウィキってみたら・・・
蒼い部分は、
水酸化銅アルミニウム燐酸塩
 CuAl6(PO4)4(OH)8·4H2O 

褐色部分は、
褐鉄鉱(limonite/リモナイト)
と言い、鉄の酸化鉱物で、
いわば、天然の錆らしい。

化学組成は
 FeO(OH)・nH2O 

・・・である。

「幸運を招く」石と言われるので、
割れてしまって、
いささか凶事の前兆か・・・とも、
危惧したが、
「身代わりに割れてくれた」
と解釈する方が、
メンタル・ヘルスには健全な
リフレーミングだと考え、
ターコイスに感謝しながらも
接着剤でもって修復してあげた。

**

『平和通り』の
ドンツキ(京都弁=突き当り)にある
金光教の教会の前に、
「幸福の科学」が建っている。

建設当時は、驚いたが、
その総裁も、今や、
「神の生まれ変わり」
と自称しながら
反抗して家出した
ユーチューバーの長男に
霊言を「イタコ芸」と暴露され、
コロナ感染で亡くなったのでは、
と言われている。

 


******* 『魂理学』試論 3 ********

けさは
どうしたわけか
左腕が間歇的に
ズクリズクリと痛みで
疼いている。

患部をさすったり、
ツボらしき処を指圧しても
いっこうに痛みが治まらない。

・・・ならば、ままよ・・・で、
この痛みも味わってやれ、
と開き直った(笑)。

きっと、何らかの意味が
あるのだろう・・・とも思った。

高橋正雄という宗教家が
【在るもの みな美しく
 起こること みな善し】
と言った。

この箴言は、
3.11直後に亡くなった
二万もの犠牲者や、
その遺族に対して、
正面から言えるのか・・・と、
とてもじゃないが
受け入れ難かった。

でも、その後、
その命題から目を背けずに
12年間、考え続けてきたら、
やはり、その通りかもしれない・・・
とも、近頃では、
思えるようになってきた。

何故なら、
【この現実は、
自分が創り出している】
という、
最近の心理学や量子力学、
スピリチュアリズム等の
知見を学際的に集約すると
そうではないか・・・と、
思えるようになってきたからである。

そこには、
自然災害や人為的災害(原発事故)
による人間的・世俗的・形而下的な
「死」を超越した
超人的・精神世界的・形而上的な
「死」の意味付け・解釈が必要になる。

「死」は悲惨、哀しい、苦しい・・・
のは、前者の価値観である。

『魂理学』的な後者に拠れば、
「死」は至福、嬉しい、楽しい・・・
という真逆の価値もある。

また、
電荷の「+」や「-」
磁性の「N」や「S」
などと同様に、
「死」と「生」も
単なる「二極性」の
状態の相違に過ぎない、
という見方もし得る。

自然における
「二極性そのもの」には、
まったく人間的な価値観は
当てはまらない。

電荷の
「+」が良くて、
「-」が悪い・・・なんて、
ナンセンスである。

「右」は美しいが
「左」は醜い・・・
なんても言えない。

かくばかりに
「真善美聖」と
「偽悪醜邪」という
価値観は、人間により
付与された観念である。

 

 

 

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カツ丼と魂理学

2023-04-03 09:31:05 | 魂理学

 

 

来週の月曜まで
私的「春休み」である。

きのうも、
まずは、お昼に
「何処で、何を喰うべぇか・・・」
を決めてから、
その後の行動を決めた。

街中にある
老婆店主のやってる昭和食堂で
かつ丼を食し、次なる目的地の
『もみじ山公園』に向かった。

ここにある
板倉神社には、
6年間続けた
『復興支援リサイタル』の
成功祈願をしたこともあり、
屋外の練習場にもなっていた。

境内の古木の桜が満開から
散り際になる時に
必ずや訪れては、
『さくら変奏曲』の「第一変奏」の
花びらがチラホラ散り落ちる様子を
よくと観察し、それを音に模写した。

そこにおいて、
自然の散り具合は
「1/f」の「ゆらぎ」がある事を
発見した。

「ゆらぎ」とは、
規則性と突発性、
予測性と逸脱性が
適度に組み合わさったもので、
居心地のよい空間と情報を与え、
人の心を落ち着かせる効果がある。

近代の演奏法は、
「粒を揃える」均等な演奏が主流だが、
ルネッサンス期からバロック期の
リュート音楽では、
「イネガル/inégales」という
「不均等な」弾き方がなされていた。

それは単純な装飾法でもあるが、
簡素で角ばったリズム形に、
優雅さや趣、ときには
力強さを与える効果があった。

三枝さんが、
モーツァルト財団から依頼され、
未完品の補作を行った際も、
あえてモーツァルト風を避けて、
『オマージュ』の形をとり、
東洋風のモチーフを用いて、
その演奏には「均等」を排するように
奏者に指示をしたという。

川内村に在住していた
「琵琶仙人」と呼ばれた
錦心流薩摩琵琶の樋口主水も、
桜の花びらを散る様を
琵琶で表現する際に、
「自然は、決して均等ではない」
と語っていた。

*

こたびも
神様に拝礼し
5月のコンサートの成功を
祈願させて頂いた。

*

阿武隈川のほとりを
「隈畔(わいはん)」と
ジモティは呼ぶが、
ここから数キロばかり上流沿いの
柳町生まれの自分は、
かつて、幼少期をずいぶんと
ここを遊び場としていた。

この『もみじ山』も
そのテリトリーの一部であった。

なので、
幼い頃の自分と
老いた今の自分とが、
量子の「重ね合わせ」のように
あたかもパラレルワールドに
存在しているような
錯覚を覚えないでもなかった。

*

小一時間ほど、
ギターの練習をして、
『魂理学』系の論文も読み、
その場から次なる
野外練習場でもあり
花の名所でもある
小倉字観音に向かった。

*

カタクリの群生は
みごとに開花しており、
満開の桜と椿とあいまって、
春爛漫ここにあり・・・
といった風情だった。

*

帰宅後、
YouTubeで、
『岡崎将棋まつり』での
ソーちゃんのトークショーを見た。

明後日から、
いよいよ「七冠」達成を目指した
『名人戦』が始まる。

ついこないだ
「棋王」奪取を為したばかりの
渡辺名人が相手である。

目下、14勝3敗という
対戦成績なので、
(1-3÷14)×100≒79%
というザル確率計算での
「名人」奪取の可能性濃厚である。

残るは、
永瀬ッチ「王座」のタイトルのみで、
これを奪取すれば、
史上初の「八冠」制覇の
偉業を達成する。

まさに、
『藤井神話』の誕生である。

*

NHKはじめ民放各局も、
欧米のDSサイドの
「身びいきのお手盛り報道」の
受け売りなので、
いまだに「ウクライナ善戦」なぞと
“大本営発表”を垂れ流して
辟易する。

元ウクライナ大統領府の
報道官が、苦戦を報じてクビになり、
自由な立場になって
ゼレンスキーの人となりを暴露したり、
彼の末路を予言していた。

米国内の
退役軍人のアナリストたちも
口をそろえて、
「バフムート陥落=敗戦」
と現況を語っており、
元ウクライナ報道官と同様の
ゼレンスキーの末路を予想していた。

*

4月は
統一地方選挙が行われるが、
果たして、統一教会問題を抱えた
自民党が、どこまで支持されるのか、
国民はきちんと審判するのか・・・
注目される処である。

 


*******『魂理学』試論ノート 2 *********

ロンバケ中の今、

毎日、考えている事を
ノート、メモ代わりに、
ちょっとずつ、記しておこうと思う。

なので、シッチャカメッチャカで、
所々で論理が破綻してたり、
矛盾してたり、
混乱しているかもしれない(笑)。

いずれ、これらを整理、編集して
一冊の本にまとめたい、
と思っている。

***


エネルギーというのは、
そのものは不可視だが、
「電気エネルギー」のように
その存在により
電荷的現象が証明されたり、
なにより電化製品を稼働させて
日常生活を成り立たせている。

アインシュタインの公式
「E=mc²」は、
エネルギーと物質は
相互に変換しうるもの
ということを示している。

量子真空という
不可視な「場」は、
「純粋エネルギー」を
蓄える場でもあり、
そこから物質と反物質が
ワンセットで「対生成」されて、
観察可能な現象界に創生される。

そこからは、
ビッグバン理論により
今現在までの宇宙・生命の
誕生のプロセスが
すでに定式化されている。

*

唯脳論的な考えでは、
「自意識」は
脳内の電気的現象であるとし、
生態活動の停止後、
すなわち死後は、
それは消失するもの、
と考えられている。

無神論者や
信仰を持たない科学者は、
ほとんどがこの考えを
指示している・・・
というか、信じている。

なので、
「自意識≠魂」
であり、
そもそも「魂」なぞという
不可視なものは
不可知論的に認められない。

それは、それで一理あるので
よいとは思う。

しかし、
自分的には、
なんだか単純すぎて、
簡単に切り捨てすぎて、
形而上学的な思考を巡らすのを
忌避した、それもまた、
信念や信仰の類に
思われないこともない。

*

【何も始まらない
 何も終わらない】
という、
「無変化的な定常」状態が
無限に続くとしたら、
世界・宇宙・現象を認識する
「自意識」というのは
なかったはずである。

脳波が停止した「脳死」状態や
ノンレム睡眠期のように
意識活動が停止している状態は、
ある意味「無」の状態に近い。

脳を持つ生命体・意識体が
死して後、自意識が消滅して、
そのような「無」のみになるなら、
なにゆえに、一過性的に
「わたし」という意識が
創生されたのか・・・という、
疑問が起こる。

人智で知り得ない事は
詮索しても詮無い事・・・
という
不可知論的な思考停止もあるが、
自分が求めているのは、
納得できる仮説であり、
『物語』であり、
『自分の神話』である。

屁理屈を先に言うと、
今現在の最先端科学力とは
宇宙の「たった4%」しか解明できず、
数多の難病を克服できず、
生命体の創生もきない。

なので、
そんな微力な科学でもって、
「死=無」
と、決めつけられても、
不可知論の思考停止じゃないの・・・と、
揶揄したくもなる。

*

なかには
AI関連の工学博士号と
哲学博士号の両方を持つ、
カストラップのような人物もいて、
「自意識」の問題について
真っ向から論じている。

彼の名言に、無神論者が
怒髪天になりそうなのがあり(笑)、
「我々の存在は、
神が自分自身に気付くためにある」
と宣っている。

これは、
全米でベストセラーにもなった
『神との対話』にも出てくる
今日的には
「定説的」な仮説である。

「神が自分自身に気付く」
というのは、
無論、レトリックであるが、
『魂理学』的に述べれば
「原存在」(有意識の量子真空)は
恒久無変化の定常状態にある限り、
たとえ、それが「完全無欠性」・・・
すなわち「神性=神的性質」としても、
自身を認識することは出来ない、
という論理なのである。

例えて言えば、
光だけの場では
何物も認識し得ず、
対極の性質である「影」が生じて
はじめて認識が可能になるのである。

「恒久無変化の定常状態」の対極が、
「有限性・変化」であり、
物質・宇宙・人間の存在は
それにピタリと当てはまる。

殊に、ヒトの日常である
「年老いて死ぬ」ことの必然性が
よくよく理解できる。

*

この世を観察しうる
「自意識」がなければ、
宇宙も現象も「無」に等しい。

【我思う 故に 我在り】
という
デカルトの箴言を
ひっくり返すと、
【我在り 故に 我思う】
と出来る。

「A=B」ならば「B=A」
という数学的整合性である。

「物質と反物質」は、
元をただせば、
同一の真空エネルギーから
「対生成」によって創生された。

「有意識状態」と「無意識状態」の
二極性も、元をただせば、
それらを共に包含する
「意識状態」から創生されたとは
言えまいか。

そして、その「場(フィールド)」は、
「恒久無変化の定常状態」にある
「原存在」(=有意識の量子真空)が
想定されるのではなかろうか。

いずれも、推論の域ではあるが、
思考停止の先を考察すれば、
そのような論理展開が可能であろう。

*

宇宙や現象の
「有限性・変化性」と
「無限性・不変性」の二極性は、
量子的に「重ね合わせ」の状態に在る
と考えれば、
「自意識」は
「過去にも、現在にも、未来にも」在る、
とは言えまいか。

いささか、論理の飛躍、
論理の破綻がましいが・・・(笑)。

そもそも、
相対性理論では、
時間は絶対的なものではないという。

さらには、
「時間」というものは、
場の変化を「別の切り口」で
現したメジャーであるともいう。

音楽をやっていて、
いろんな場面で感ずることがある。

例えば、モーツァルトは、
長大な一曲を瞬時に脳内に浮かべた、
という逸話がある。

それを楽譜に書き起こして
演奏すると30分もかかる。

これは、CDやDVDには、
すでにすべての情報が
書き込まれていて、
それらを理解するには、
30分の時間を要する・・・
という現象と一緒である。

また、譜面上に書かれた
すべての音を一瞬に鳴らすとすると、
それは、もはや有意味な
「音楽」ではなく
無意味な「音」になるだろう。

「自意識」が感覚し、
感情が沸き起こるには、
時系列的な音程や長さの変化が
要るのである。

ここにおいて、
「自意識」が
「有意味」性を得るには
「時空」を要することが解かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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46年かけて、解ったこと・・・(笑)。

2023-04-02 10:30:50 | 魂理学

 

幼稚園から一度たりとも
学校社会を離れていない、
という特異な生涯なので、
今の「春休み」も数えて
65-6=59回目である。

ならば、
ロンバケの達人であって
よい筈だ(笑)。

【何をしてもいいが
 何をしなくてもいい】
というのが
ロンバケだが、
「being」と「doing」の
相克する感情で
しばしば煩悶もさせられる(笑)。

顎関節症になるほど、
口が卑しいもんで、
ついつい、お昼は何食べようかな・・・
と、暇ロージンは
そっから一日を組み立てようとする(笑)。

*

きのうも
「ラーメン・花見・図書館」
という、この時節ならではの
チープなコンセプトで
己れを外出に向かわせた。

なんせ、
元祖“おうち大好き少年”の
オタク(お宅)なので、
出不精が祟って
デブになっちまった(笑)。

【桃李もの言わざれども
 下自ずから蹊を成す】
の箴言どおり、
「花」の持つ力は
こんなタレカ(横着者)でも
その重い腰を上げさせるので
大したものである。

「ラーメン・花見・図書館」は
「食べ物・生き物・読み物」と
巧い具合に「物」づくしである。

そっか・・・。
俺なんて、そんなもんで、
行動を促される
軽挙妄動の輩(やから)なんだぁ・・・
と、自己憐憫に陥らないでもない(笑)。

*

数日前に行ったばかりの
花桃の林に出向き、
より開花した花々に
酔い痴れた。

その近所のラーメン屋で
お昼とした。

二度目の訪問だが、
ワンタンメンは初めて。

麺とワンタンは
まずまずだったが、
スープに旨味がなかった。

半チャーハンは、
家庭では出せない
独特の店の味がして
これは佳かった。

*

花見がてら散歩もし、
久方ぶりに、
図書館のある学習センターに
入館した。

3.11の折は、
この集会室に
原発事故の避難者家族が
何世帯か滞在し、
MHFA(メンタル・ヘルス・
ファースト・エイド)で訪問し、
心理的ケアのヴォランティアを行った。

自宅も震度6で
部屋中が滅茶苦茶だったが、
そんなのを前に悲嘆にくれて
鬱々しているよりも、
ひと様の役に立つことを
“させて頂く”方が、
よほど自身の精神衛生にも
よかった。

原発爆発後、
上空には頻々とヘリが飛び交い、
亀裂の入る道路には
国防色の自衛隊車両が
始終往来していた。

それは恰も
経験したことはない
戒厳令下の非常時のようにさえ
感じられたような
非日常的な光景だった。

館内に入るや、
あの時の不安や
自信を伴わない使命感のようなものも
わずかながら彷彿させられた。

*

これまでなかったのか、
気付かなかったのか、
発掘物の展示コーナーを見つけ、
「縄文期」の小壺は
「詫び寂び」を通り越して
「時間の重み」を感じさせた。

これに似た形や大きさの
『信楽』や『素焼』の
濃茶入れや
書道で用いる水盥(すいう)は
もっているが、
片や、3~4000年前の物である(笑)。

京都の東寺の弘法市で、
古物商のオジサンに聞いた話だが、
贋作を捏造するのに、
土ん中に埋めたり、
番茶で炊いたり、
煤と汚泥を塗りつけたり・・・と、
様々な手口があるらしい(笑)。

*

出先から帰宅すると、
Amazonから狐狸庵センセイの
新刊が届いていた。

新刊と言っても、
これまで未公刊の原稿を
拾い集めて一冊に編んだもので、
全著作を蒐集しているような
コアなファンでなければ、
つまらないような
些末な小文の集大成でもある。

それでも、一か所だけ
腹を抱えて笑えた処があり、
それだけでも
草葉の陰の狐狸庵センセイの
面目躍如であった。

*

今朝の「朝刊ネタ」からは・・・

大学教授が
五年間で78人も
セクハラをしでかしたという。

その中には、
SC職を兼務しながら、
JKにやらかして懲戒免職になった
高大と同窓のWも入っているから、
嘆かわしい。

15~64歳の
「ヒッキー」が
いつの間にやら、
コロナのせいもあり、
146万人にもなったという。

今は、スマホやら
ゲームもあるから、
おこもり生活でも
独り慰みのツールには
事欠かないのだろうが・・・。

それにしても、
「80/50」問題も
ますます
深刻になってきそうである。

ニュースでもあったが、
オープンAIが公開されてから、
その利用者が世界で
爆発的に増えて、
すでに、あらたな問題が
生じ始めているという。

イタリアは個人情報の
漏洩を危惧し、
国内での使用を禁じ、
米国内でも
これ以上の開発を中止すべし、
と関わったイーロン・マスクらも
署名に加わったという。

国会でも取り沙汰され、
少子化対策などでは
首相答弁(官僚作文)を
上回るAIの解答が
議場を沸かせた。

オープンAIの登場は、
ひとつのシンギュラリティ
(特異点)なのかもしれず、
これもまた
ハンマーやナイフと同じく、
使い方で道具にも武器にもなり得る。

それ故に、
愚かな人間も少なくない人類に
無条件で預けてしまって
大丈夫なのか・・・
という危惧感が早くも
高まってきた。

 

***********『魂理学』試論 ***********

 

ロンバケ中の
『魂理学』研究も
遅々としてではあるが、
進んではいる。

真偽のほどは別として、
学際的なアプローチにより、
おおよそながら
自分が納得して
信頼に値する
「存在」の意味やら、
「自意識」の問題が
解かってきた。

カワイアン(河合派)流に言えば、
「自分の神話」が漸くにして
確立しつつある。

それには、
特定の「神」というものは
必要としない。

そして、
それは人間が付与する
「価値感」から
脱価値したものである。

その真理を単純化すると、
「自意識は永久不変」
となる。

諸宗教やスピリチュアリズムの
「霊魂不滅」
「魂は生き通し」
と言うのと同義である。

大元(おおもと)には
物質的ではない
「対生成」の場となる
量子真空的な
「大いなる一つのもの」が在る。

それを「神」や「原宇宙」
と文学的・修辞的に
置き換えると、
いささか人間的「価値観」に
還元されてしまう。

そこで、ハイデガーの
「現存在(人間)」と
語呂はおなじだが、
これを「原存在」と
魂理学では命名することにした。

それは、
時空や物質を創生する、
いわば、卵子を創り出す
「卵原細胞」のようなものである。

「原存在=量子真空」
としていいのか、
あるいは、
「≒」(ニアリー・イコール)なのか、
「≠」(ノット・イコール)なのか・・・
考察してみると、
「対生成」を生じせしめる
「場」そのものであれば、
それに続いて、時空も生じ、
生命体も生じるので、
やはり「イコール」と考えるのが
妥当と思われる。

この「自意識」は、
「大いなる一つのもの」
「量子真空」
「原存在」
のコピーであるので、
その意味で、「神の分身」という
諸宗派で語られる
教義と同じではある。

*

1ケの受精卵は
約60兆ケまで細胞分裂し、
その発生過程で、
「目・耳・鼻」では
「光・音・化学物質」を
感ずるように特異的に分化した。

【ヒトは小宇宙】
という喩えは
意に適っている。

五臓六腑ほか
諸々の諸器官・組織は
それぞれ形質(見た目と働き)が
違っている。

しかし、大元は
一ケの受精卵(単細胞)が
分かれて増えたものである。

いわば、一枚のセンベイを
60兆等分したもの(笑)。

ただ、センベイであれば、
2等分しようが、
60兆等分しようが、
味は同じはずである(笑)。

この謎の鍵が「遺伝子」で、
どの細胞もコピーながら、
例えて言えば、
数多ある遺伝子の信号が
何色に光るかで、
「目」になったり
「耳」になったりする。

そして、細胞どうしは
姿・性質を変えながらも、
互いに「絆」を保ち、
相互連絡を取り合って、
タンパク質の合成・
組織化・器官化を行い、
ひとつの「個体」を形成する。

フラクタル的な考え方をすれば、
この一つの個体を
「大いなる一つのもの」(原存在)と
見做してみるとおもしろい。

眼の視細胞や
鼻の臭細胞は、
「見た目」も「働き」も
まったく別物である。

この二つを
A人格・B人格と例えると、
やはり、別個の存在だが、
大元は同じものであり、
互い関連性を持っている。

*

哲学者の
ベルナルド・カストラップに拠れば、
我われの「個的」な「自意識」は、
多重人格における
「交代人格(alter)」に
相当するのでは、と説いている。

DID(多重人格障害)の患者に、
fMRIを実施してみると、
それぞれの人格が発現している時に、
脳の血流部位が異なっていた、
という結果が得られた。

この観察事実は、
患者の人格は、
第一人格が恣意的に(詐病的に)
表しているものではない、
という事を意味している。

仮に、ABCの三つの人格がある場合、
あたかも芥川の『藪の中』のように、
一つの現象を三人の人格が
三様に観察し、評価するのである。

しかし、これらの三人格は
一人の個体の脳内に収まっている。

心理臨床的には、
「治療」と称する過程で、
これらの三人格を
「統合」する事も可能なのである。

「一つにして三つ」という
ややこしい、問題がここに生じるが、
量子論的な「重ね合わせ」や
無数のパラレルワールドの存在、
多次元が折り重なっている、
という物理現象を考えるならば、
このパラドキシカルな命題も
直感的には理解できないこともない。

カストラップは、
この「自意識」を
「pure ipseity」(純粋な自意識)
「I-ness」(自己性)
「pure subjectivity」(純粋な主観性)
と呼ぶ。

彼の考えを敷衍すれば、
この個的な「意識」は
大元の「意識」のコピーとなる。

となれば、
やはり、宇宙以前の
「原存在」においては、
「ピュア・イプセィーティ」が在る、
と見做すのが至当ではあるまいか。

これを文学的、修辞的、
人間的、浪漫的に表現すれば、
「我々は神の分身」
となり、
「我々は宇宙そのもの」
ということになるのである。

ちなみに、神道系では、
我われ個的な霊魂を
大御神(おおみかみ)からの
「分け御霊(みたま)」
というが、
これも的を得ていよう。

***

ここまで解かるのに、
大学1年から始めたので
65-19=46年も
かかっちまった・・・。

自分や宇宙・神・存在の
納得のゆく答えを得るのに、
膨大な時間と
膨大な書物と
膨大な金銭を
浪費してしまった
ワタシの人生って、何・・・!?(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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地球最後の日!?

2023-04-01 08:45:48 | ノンジャンル

今朝方、6時過ぎ頃、
突如、スマホのアラームが鳴り、
驚いて、地震かと身構えたが、
カタリともしないので
怪訝になってアラーム表示を確認した。

何年か前に登録した
NASAによる『ATLAS(アトラス)』
(小惑星地球衝突最終警報システム
(Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System)
の警報音だった。

これは、
地球近傍小天体を、
地球に衝突する数週間から
数日前に検出するために
最適化されたロボット掃天観測
および早期警告システムである。

その警告は、
驚いてベッドから飛び降りるほどの
トンデモ情報だった。

NASAが2006年に打ち上げた、
人類初の太陽系外縁天体の
探査を行うための無人探査機
『ニュー・ホライズンズ』が送ってきた
特異な軌道を持つ分離天体
『2004 XR190』のデータを
スーパー・コンピューターで
軌道解析したら、
なんと!! 2023年の4月1日・・・
そう!!
まさに、今日!!
【14時46分】に
地球に衝突するという・・・・・・。

その直径は、
推定425㎞だ。

この規模は、
白亜紀・古第三紀の絶滅現象の
原因と考えられている
6600万年前の南米沖の
『チクシュルーブ衝突』を上回る
超規模である。

その破壊力は、
津波なんてものではなく、
地殻そのものがめくれ上がる
「地殻波」を起こし、
瞬時に地表は衝撃波により
融解するレベルである。

今、8時46分なので、
あと、6時間だと・・・。

もう、笑うっきゃない!!!

それも、狂い笑いである(笑)(笑)(笑)。

一刻も早く、理性が壊れて、
発狂した方がいい!!

どうせ、
3.11の原発事故で
一度死んだ命だ・・・。

あれから、
12年も長生きできた・・・と、
思えたら、十分にもとを取った(笑)(笑)(笑)。

・・・そろそろ、
狂いだした(笑)(笑)(笑)。

・・・そうそう、
今日は「四月馬鹿」とも言うんだった・・・。

(笑)。(笑)。(笑)。

****

 

寝室の寝床の枕元から
隣家の桜が見れる。

寝てて花見ができるのは
いい気分である。

ただし、窓際に寄ると
別な隣家の壁が
際まで迫っている。

こんな田舎町で
都会みたいにギリギリに建てるなんて・・・
と憤慨もしたが、
アキの中学時代の同級生宅なので
あからさまに文句も言えず、
地震の時は、こちらのブロック塀の
上飾りが崩れて迷惑かけても
文句も言われなかったから、
仕方ねぇなぁ・・・と、思っている。

廊下に出れば
庭のレンギョウとボケが
満開である。

*

今日にも
人類が滅びるとしても、
淡々と日常のルーティンを
するんだろうと思う。

朝起きて、
珈琲を飲みながら朝刊を読み、
ブログを書く。

最近では、
完成した4本の古楽器を
取っ替えひっかえして
スピネットに譜面を置いて
試奏と整音作業をしている。

先日、廃部になった
福大ギター部のコンバスを
引き取ってきたので、
これで家ん中には
ヴァイオリン・ヴィオラ・
チェロ・・・と、弦楽合奏の
ヴィオール属が全員集合になった。

院の先輩から、
娘たちの楽器の処分に困り・・・
というので、チェロや
ヴィオラ、ヴァイオリンを
引き取った時も感じたが・・・
古楽器製作をしたりして
楽器に愛着があると、
楽器の方から寄ってきてくれるんだなぁ・・・
と、「引き寄せ」の法則みたいのを
今回もまた感じた。

今年に入って
自分でも4本も楽器を生み出したので、
家んなかは、何処もかしこも
楽器だらけである(笑)。

居間には
ピアノが二台あり、
茶室の収納庫には
琴が二面ある。

かつては、
二胡やヴィオラ・ダ・ガンバもあったが、
今は手放してしまった。

*

4/13まで
長期の春休みなので、
何をしてもいいが
何もしなくてもいい・・・という、
呑気な隠居暮らしである。

なので、
なんとか
「今日用(教養)」と
「今日行く(教育)」を
【火のない処にケムリを立てる】
つもりで、一日を創造しようとしている。

お昼には、
勤務校の近所にある
「鮮魚と天ぷら」の店に
行こうと決めた。

なので、それまでは
工房にこもって
用材の挽き割りと
電動カンナかけをやることにした。

高級な南洋材なので、
慎重に作業を進めていたが、
途中で、何の加減か
ベルトソーの刃が暴れて
2枚の板をやり損なった。

無事に二枚割りできた用材も、
今度は、電動プレナーの
激しい回転で、
節目や逆目が引っ掛かり、
これまた孔が開いたり
割れたりで、駄目にしてしまった。

トホホホ・・・
の、大損害である。

こうなると、やっぱり、
ドラムサンダーが要るなぁ・・・
と、思ってしまった。

でも、10万やそこらするし・・・。
なかなかの買い物だ。

高給取りじゃないし、
年金受給者だし、
そんなポンと買えるものじゃない。

*

・・・そんなんで、
傷心な気分で
「そと飯」に出かけた。

二度目の訪問だったが、
なんだか、店主に活気がなく、
店もやや雑然としてて、
そこでも、やや食欲が落ちた。

豪華なランチセットではあり、
そこそこのものだったが、
気分は上がらなかった。

お鮨とミニちらしと
「わんこそば」を食べ終えたところに、
天婦羅が揚がって「ミニ天丼」と供された。

*

気分転換に・・・と、
同じ学区内の
カミさんの学校でも
見に行こうかという気になり、
そっから2㎞ほど足を延ばしてみた。

カミさんが
毎年、定年後の再任用で
すでに6年ほども通勤してる。

ジモティである
タカコ叔母さんによれば、
カミさんとこは
「山のガッコ」
自分とこは
「桃のガッコ」
と呼称しているという(笑)。

へぇ~・・・
ってなもんだ(笑)。

*

学区内に
かなり大きな『トライアル』が
新装オープンしたので、
冷やかしに覗いてきた。

何やら現金払いできず、
独自のプリカ決済させるようで、
買い物カートにまで
電子機器が付いていた。

大規模ではあるが、
あっちこっちと
スーパー通いを道楽にしてる
主夫としては(笑)、
野菜や肉のコーナーを見れば
一目瞭然で店のレベルや
コンセプトが判ろうというものである。

ハーブもアニョー(仔羊)も
置いてないので、
用を足さないスーパーだった。

建物の半分は、
ホームセンターもどきの
衣料品やら文具・工作類関係で、
それも中途半端な品数で、
これなら専門店の方が
よほど用が足りる。

もっとも、
トライアルは「安売り」が
コンセプトの店ではあるが、
物価高の昨今では、
ざっと見たところ、
さほどの割安感も感じられなかった。

*

近所で更地となった
『ツタヤ』跡の広大な土地で、
きのう、地鎮祭をしてるのを目撃して、
その関係者に
「今度は何ができるんですか?」
と、尋ねてしまった(笑)。

そしたら、
「前とおんなじです」
と、言うので、
「え!?  そりゃ、ウレシイなぁ・・・」
と、思わず声をあげた(笑)。

なんせ、
『ツタヤ』がなくなってから、
カミさん共々、ガッカリし、
寂しく思ってたので、
さっそく、職場のカミさんにも
朗報としてメールしたくらいである(笑)。

近所に本屋がある、
っていうだけで、
昭和の人間には、
文化的ゾーンに住んでるようで
何やら安心感みたいのを感じるのである。

実際の処は、
“密林”(Amazon)をポチるほうが
圧倒的に多いのだが、
ブラウジングする楽しみは
本屋でなきゃ出来ない。

*

正月に帰省した
フミ一家が寝泊まりし、
ナツ&アキちゃんの布団と
かわりばんこに干して
湿気を抜くのに、
長らく布団部屋のように
使われていた茶室だが、
やっと、元の通り復元できた。

もし、
今日にも人類が滅亡する、
というような日であっても、
やっぱり、ルーティンに従って、
ブログを書いて、ギターを弾き、
茶を立てて、ご飯を食べ、
【自ずから然る】
が如く、泰然自若として
いたいものだと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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