『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

昭和食堂に遊ぶ

2023-04-10 08:45:59 | 昭和趣味

 

 

土曜のきのう。

夜からは
自宅カウンセリングの予約が
入っていたので、
日中のみがオフだった。

ここの処、
プチ・マイブームになってる
街中の“昭和食堂”通いをすべく、
開店時間の10時を目指し、
ブランチにしようと
出かけてみた。

毎回、いくたびに
駐車料金が200円かかるが、
1時間の街中散歩もできるので
よしとしている。



土曜の朝10時とはいえ、
駅前は閑散として、
先月の京都・大阪での
雑踏を思い返し、
つくづく田舎だなぁ・・・と、
実感した(笑)。

でも、人がいない・・・って、
寂しいけれども
ストレスがなくっていい。

車の往来がないのも
いいなぁ・・・(笑)。

やはり、
都会はたまに行くのがよく、
普段は田舎暮らしが
性に合っている。

*



駅前通りは、
偶然にも『ハルフェス』なる
イベントをやっていたが、
それとて、ささやかな規模で
歩いて3分ほどの区間であった。

手作りマーケットみたいな
いつもの雰囲気で、
たいして目の魅かれるものも
なかった。

*

なので、
10時ちょうどに
『大政食堂』についた。



かつ丼・ワンタンメン・・・と、
やってきたので、
この日は、
炒飯&餃子の
“ひとり味見会”である(笑)。

さすがに、
この時間帯は
他客はひとりもおらず、
ジモティの
「タンギー爺さん」の姿も
見られなかった(笑)。

*

餃子はすぐにできてきた。

 



ちょいと羽のはえた
こじゃれた見てくれで、
きつね色は上々の出来である。

まずは、そのまんま、
ポイと一口でやってみる。

まずまずの味。
ただ、皮は既製品の
薄っぺらなので
これの旨味はない。

その分、
羽がショリっといって、
クリスピー感を醸し出していた。

いかにも、
昭和の食堂餃子、
町中華の餃子である。

8ケ400円は適価かな・・・。
二人前の16ケにすると、
「円盤」になるようだが、
市内の全円盤を制覇した
エンバニストとしては
この餃子では食指が動かなかった。

*



卓上には
「す」とラベルされた瓶や
「タレ」のボトル、
厚紙で巻かれた「ラー油」がある。

*



8ケ平らげた処に、
タイミングよく炒飯が登場。

スープの味噌汁用の木椀は
ご愛敬である。

棚倉の『一竜』の炒飯を
これまでのベスト1としているが、
それを凌ぐものに当たりたいと
方々の食堂・町中華・ラーメン屋で
トライしているのだが、
未だにその邂逅をみない。

はたして、大政は如何に・・・。

一口目。
「おっ!! ンマイっ!!」

(これは、いけそう!)
と、プラスチックのレンゲで
ワッシワッシとやると、
ガリッと塩粒を噛み、
アララ・・・となった。

🥲

これはダメでありんす・・・。

その後も、二度、三度、
塩粒を噛んだ。

岩塩かもしれない
ずいぶんと大粒の
塩を使ってるのか・・・。

一口目の味が良かっただけに、
これは、大いにガッカリだった。

もっと粒子の細かいのを
使えばいいのに・・・と、
恨めしくさえ思った。

*



「昭和」つながりで、
ブランチ後には、
二本松の『ゆうぷら』に向かった。

歩いて2分の処にあった
『万SAI堂』が転居して
店名も変更されたが、
古本コミックが沢山ある。

「昭和レトロ」コーナーには
昔懐かしい作品群が、
廉価からプレミア価格まである。

きのうは
残念ながら
目的の「ちばてつや」の作品がなく、
仕方なく、大型本コーナーから
これまで買ってきた作者の
未収集ものを4冊ばかり購入した。

ついでに、
拡張された駄菓子コーナーで、
歓声をあげる幼児たちに交じって(笑)、
いくつかオトナ買いをしてきた。

*



帰路、旧国道沿いの
切り通しの斜面に
山吹の黄色が早緑に映えていた

帰宅後は、
オナカもくちくなって、
ベッドで漫画を読んでるうちに
寝落ちしてしまった(笑)。

なんとも、太平楽な
爺様の半日である(笑)。

・・・気が付いたら、
明日から、新年度の
学校勤務が始まる。

してみりゃ、今日が
この春休みの
最後の日である。

京都行きの旅もあり、
孫や教え子・元同僚との
懐かしい再会もあり、
長いようで短かった
人生59回目の
スプリング・ロンバケだった(笑)。




*** 『魂理学』試論ノート8 ***

ブログにメモ的に
アイディアを記して、
それをワードにコピペしてから、
体系的に整理しているが、
なんだか、昨晩は途中で
アタマが混乱してしまい、
ギブアップしてしまった。

文系・理系の既成知識を
メタ研究的に統括して、
「大統一理論」みたいな
『魂理学』なるアヤシイ
ポップ・スピリチュアルを
描こうとしているが、
これがなかなかシンドイ(笑)。

でも、落としどころは、
自分で納得でき、
自分が安心立命となれる
「自分の神話」になれば
それで十分である。

独善的な宗教家じゃないので、
ひと様を折伏させることなぞ、
さらさら関心がない。

観測も計算もしない
アタマのなかでの妄想的な
思考実験なので、
あらゆるケースでの仮説を立ててみて、
もともと確定しようがないので、
どれがいちばん自分的にシックリくるか、
「そうであってほしいか・・・」
という処を見出したいのである。

*

「元は一つ」
という仮説は、
なんか寂しいなぁ・・・
という感情を伴う。

つまり、
「自意識」を持つ「原存在」が、
一つしかなく、それでは、
退屈、寂しいので、
不完全な自分の分身を作り、
それを多様化させた、
というケース。

突き詰めると、
この宇宙には
元々、「ひとり」しかいない、
とすると、あまりにも寂しい。

その寂しさは、
自分以外の人類が滅亡して、
人間並みの姿と応答をする
AIを相手にしているような
感じかもしれない。

*

「明晰夢」というのは、
夢の中で、これは夢である、
と自覚できるものだが、
たいがいの夢は、
それが夢とは気づかずに
荒唐無稽な体験をしたりする。

この宇宙・世界も、
現実と思い込んでいるものは
「夢の中の現実」と同じく、
実は、大元の「原存在」という
夢見手の幻の体験なのかもしれない。

この現実とは、
そういうものである・・・と、
気付くことが
明晰夢として夢の中で
振舞うことに相当する事なのだろうか・・・。

















 

 

 

 

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朝飲みタンギー爺さん(笑)

2023-04-09 09:01:15 | 室礼改め

端午の節句を
迎えるのに
玄関室礼を改めた。

我が家では
ダンゴ三兄弟だったが、
本物の鯉幟なぞ
買う余裕もなく、
あげる場所さえもなかったので、
そんな孫たちを不憫に思ったのか
亡父が30年前に兜を買ってくれた。

三人とも
文字通り“孫可愛がり”されたので、
亡き祖父を覚えてはいなくとも、
その愛情は彼らの情操を
豊かに育んでくれた。

庭のレンギョウとボケも
亡き父が手植えして
今春もみごとに
開花している。

***

そろそろ自分の人生の
“店仕舞い”を控え、
近年、昭和へのノスタルジーが
年ごとに募るようである。

終活の一貫でもある
《昭和食堂》めぐりも
こつこつと続けている。

最近は、
街中の『大政食堂』に
何度も通っている。

50年以上もつづいており、
老婆店主が真摯に
経営を貫いているが、
他の閉店になった店々のように
いつ仕舞いになるやも分からぬので、
行けるうちに行っておこうと
足まめに通っている。

きのうは
ワンタンメン(700円)を
やってきた。

麺と鶏ガラスープは
まぎれもない昭和味で、
今や、絶滅危惧種ラーメンである。

ワンタンが
やや硬かったのが
残念だったが、
そこはそれ“老婆の休日”だから(笑)、
よしとするっきゃない(笑)。

全メニューを制覇する気はないが、
餃子やら、炒飯やら、
まだ味わっておきたい
定番品目がいくつかある。

土曜のきのう、
朝10時開店のところ、
11時頃に出かけてみたら、
すでに二人の常連らしき老人が
しっかり“朝飲み”をしていた。

隣卓で真向いになったひとりは、
どこかで見たことのある風貌で
(あっ!!  そーだ!!
  ゴッホのタンギー爺さんだ!!)
と、唐突に思い出した(笑)。

ご当人を面前に、
スマホでググッてみたら、
その絵が出てきて、
当人と並べてみたら
なぜか吹き出したくなってしまった(笑)。

タンギー爺さん、
餃子をアテにチューハイを
うまそうにチビチビやっている(笑)。

土曜の11時だっちゅうに・・・。
ま、いいや・・・(笑)。

・・・にしても、
昭和食堂ならではの
点景である(笑)。

これが、ファミレスや
洋食店では似つわしくない。

カウンターの爺様は、
ホルモンをアテにやってたが、
途中から「ご飯と味噌汁」を
頼んでいた。

ふたりとも後期高齢者の風情だが、
前期高齢者の自分もいれると、
「ジイ様が集う昭和食堂」で
一句吐きたくなるようだった(笑)。

平成生まれや
令和生まれには、
昭和食堂の「昭和味」は
時代遅れの異次元なものかもしれず、
店構えも古臭くてダサいから、
アホげなギャルやユーチューバーも
いい按排に寄ってこず、
〈G様サンクチュアリー〉は
昭和ジジイの楽園にもなっている(笑)。

なので、
「昭和食堂」めぐりは、
楽しい終活でもある。

*

“昭和飯”から帰宅すると、
これまた、グッド・タイミングで
妙齢の郵便配達おねーちゃんが、
来てくれて、Amazonに注文してた
「ちばてつや」の昭和漫画を
届けてくれた。

奥付を見たら、
「昭和50年」初刊とある。

自分が高3の頃の
書籍である。

短編集なので、
作品自体はさらに古い
70年代のものだと思う。

『螢 三七子』はじめ
『あるあしかの話』なぞ、
文学的ともいえる
秀作だった。

ここにも、
昭和テイストが溢れており、
日本的美観の
「侘び・寂び」
「もののあはれ」
が、そこはとなく感じられた。

*

ブログを書いてたら、
突然に、雪が降りだして
驚いた。

強風と相まって、
まるで、ブリザードのようである。

庭のナポレオン桜の花と
不思議な光景を見せていた。

漫画『美味しんぼ』のなかに、
菓子職人が悩んだ末に
吉野葛を厚めに工夫した
「葛桜」を茶席で供し、
それに感嘆した宗匠が
『暖雪』と命名する・・・
という一話があった。

 

 

*** 『魂理学』試論ノート7 ***

我われは「経験するため」に
この現象界にやってきた・・・
というのが、多くの
スピリチュアリズムが説くところである。

全米でベストセラーにもなった
『神との対話』では、
神は自らを経験するために、
自分の一部から自意識を分離させ、
自身をメタ認知できるようにした、
という。

それ自身で完結している
完全無欠なるものは、
完全なるゆえに、もはや
「何も始まらない。
 何も終わらない」
という、
「全クリ」
「コンプリート終了」
「完全飽和」
「究極・至高」
「ω(オメガ)」
の状態で
「無」に回帰してしまうのだろう。

なので、
自らを意識・経験する為には、
「不完全なるもの」
「自分を外から見たり、
考えたりするもの」
の存在が必要となった。

それゆえに、
電場の「+」と「-」
磁場の「N」と「S」
のように、
宇宙には「対極性」という
性質が生じた。

また、物質は
その根源の素粒子から物体まで、
「波動性」と「粒子性」
という重ね合わせの
量子的性質を有する。

魂理学では、
『神との対話』で言う処の
「神」という大元は
「サムシング・グレイト」
(何か偉大なもの)
より、さらに
パーソニファイ(人格化)を避けて、
あえて「原存在」とした。

この「原存在」が、
宇宙、生命を創生した
大元と考えてみた。

「わたしが存在している」
という疑いようのない
「自意識」の現象は、
この大元に根源があって、
同様の「自意識」があるだろう、
と推察している。

ただし、先述のように、
その自意識は、
自らの「完全性」ゆえに
「自分が存在している」
というメタ認が機能しないので、
多様性を創生させた。

「目」は、鏡なしでは、
「目自身」を見ることはできない。

この場合、投影という
作業が必要となる。

漫画的に、
「右目」は自分を見るには
「左目」を眼窩から取り外して(笑)、
視神経を延長コードでつないで見る、
という方法もありそうだが、
これだと、「右目」は
自分自身で自分を見たことにはならず、
やっぱり他者に確認をしてもらう、
ということになる。

**

人間的価値観と擬人化でもって
「原存在」の振る舞いを考えてみると、
「何も始まらない。何も終わらない」
のは、退屈きわまりないであろう(笑)。

「神の退屈」である(笑)。

精神科医で、深層心理の分析家で、
高名であったユングのところに、
アメリカン・ドリームを為して、
財も地位も名声も、何もかも
得た人たちが多く訪れた
という話がある。

これらの人々は、
物質世界での究極を極めたがゆえに、
その後にどうしていいか
方向喪失感に陥り、
とどのつまり、アル中や
ドラッグ中毒になったという。

その作用で
トリップ感や幻想感に
浸れるからなのであろう。

この話は、
「神の退屈」に
どこか似ているような気がした。

【この世は、神が見ている夢である】
という格言は、どこか、
【中らずと雖も遠からず】
ではないだろうか。

多くのスピ系本の結論では、
「我々は神の分身であり、
 我々は、個々に経験をする為に
 現象界に肉体を持って生まれた」
という。

また、これに、
ゲーム理論を加えて、
ゲームが「楽しく」成立するには、
ルールや制限が必要なのだという。

「肉体の桎梏」がそれであり、
「有限の寿命」も、
テニスやゴルフの
アウト・オブ・バウンズ(OB)
なのである。

それがないと、
ゲームとして成立しないのである。

人間の持つ、
ある種の「不自由性」は、
完全なる「自由」である
「原存在=神」が
ゲームを楽しむために設定された。

「苦しみ」も「辛さ」も
「痛み」も「死の恐怖」も
神(原存在)が体験し、
「自意識」でもって、
味わうためなのである。

そして、この過程は、
永遠・無限に繰り返される。

「楽しみ」「楽さ」「快感」「幸福」
に浸っていたければ、
それを選択する「自意識」として
存在すればいいが、
それとて、そればかりだと、
自ずとそれらの状態に慣れ、
麻痺し、飽いて、やがて無感動になり、
その対極を味わわねば
成立しなくなるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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カイユ・ド・ボージュ

2023-04-08 08:43:06 | 食物・飲物

 

きのうは
三ツ星フレンチで
デジュネ(ランチ)を頂いてきた。

40年近い常連で、
お店のHPや広報冊子、
お食事券も作らせて頂いてるので、
本来、二名以上の予約受付だが、
“ぼっちフレンチ”も特別に
させて頂いている。

独りと言っても、
シェフとマダムとは懇意なので、
食事の合間、合間には
歓談をさせて頂き、
少しも退屈することはない。

*

玄関でお迎えされ、
部屋までエスコートされると、
ウェルカム・フラワーと
カルト(メニュー)と
飾り皿のセットされた席に
着座した。

*

 

「クラポディーヌ」と
「インスピレーション・フレーズ」
という耳慣れぬ単語に
関心を寄せたが、
後でシェフから現物と共に
説明を聞いて、
新たな知見を得た。

*

卓上では
ロマラン(ローズマリー)と
ナルシッス(水仙)の
フルール(花々)が綾なすアロマに
癒されもした。

*

アミューズ(付きだし)は、
ブルターニュ産の
ソーモン・フュメ
(スモーク・サーモン)と
カリリとクリスピーな
パン・グリエ(トースト)が
快適なスターターとなってくれた。

釜揚げシラスと
イタリア産の
水牛モッツァレラとの
組み合わせも面白い味だった。

*

オードヴルは、
サーブル(タチウオ)に
細かいシャペリュール(パン粉)で
カリリと焼き上げたパネ。

レデュイール(煮詰め)した
ヴィネーグル・バルサミク
(バルサミコ酢)のソースが
香り高く、高貴な味にしていた。

敷かれたリー・ソバージュ
(ワイルド・ライス)は
セルクル(丸型)を使われず
自然に均されていたのには、
“スティル・ナチュレル”
(自然なスタイル)
だなぁ・・・と、思わされた。

ガルニチュール(添え物)の
フルール・ド・クルザ(菜の花)も
きちんと塩茹でされ、
仄かな苦みが、いかにも、
“ムニュ・ド・プランタニエール”
(春の一品)
という感じがした。

*

オードヴルは、
英語では「アペタイザー」となるが、
それは、「食欲を増させるもの」
という意味でもある。

グッと食欲が加速した処で、
プラ(メイン・ディッシュ)が登場した。

先の「クラポディーヌ」とは、
シェフに拠れば、
“観音開き”した姿を言うらしい。

フランス人は
その語を聞いただけで、
この形の「焼き鳥」だと
解かるという。

帰宅後、
スマホで調べてみたら、
「焼いた鳥が
ヒキガエル(crapaud/クラポー)に
見える事からその名前がついた」
 ...とあった。

在京中には
京阪神のフレンチ・レストランで
食したことがある
カイユ(うずら)だったが、
たいがいはキュイソー(腿肉)のみが
品よく、ちんまりと
ドレッセされたものばかりだった。

それが、今回は
一羽丸ごと、ドーンッ!!  ・・・である(笑)。

小型の鳥とはいえ、
開かれてみると
胸肉、手羽先、腿肉と、
けっこうに食べでがあった。

アブリュシオン
(ablutions/フィンガーボール)
も用意されたので、
途中からは、手づかみで
ワイルドに噛みついた(笑)。

先月のピジョンは
血の滴る赤身だったが、
カイユは白身系で
やはりプーレ(鶏)に似た
味である。

カルトには、単に
「赤ワインソース」とあったが、
なんと!  トリュフのアッシェ(刻み)が
艶冶な香気をたちのぼらせ、
「ソース・ペリグー」
(ペリゴール風トリュフ・ソース)
と言ってもよかったくらいである。

ガルニの
プュレ・ド・ポム
(馬鈴薯のプューレ)も、
カイユの相の手として
申し分なく、
まさに「メインディッシュ」に
相応しい逸品であった。

車で出かけたので
アルコールは飲めなかったが、
この料理なら
『ムーラン・ナヴァン』なぞを
マリアージュさせてみたかった。

*

デセールには
初めて見る『ヴァローナ』の
「ショコラ・フレーズ」(苺チョコ)
を用いたガトーが供された。

『インスピレーション・フレーズ』
というのは、
その商品名だという。

1922年に、
フランスのローヌ地方で
創業されたヴァローナは、
世界のトップ・パティシエたちが
愛する「グラン・ショコラ」として
名高い逸品を産している。

素材も1ケ添えられていたので
味見してみたが、
やはり、日本のメーカーの
苺チョコとは一味ちがった
洗練された仕上がりになっていた。

珍しい温製の
『グラタン・ド・フリュイ』
(フルーツ・グラタン)
は、まったり、はんなり・・・
な“お味”でおました(笑)。

*

コースの〆は、
苦みの効いた
エスプレッソ。

ミニャルディーズ
(茶菓子)
も、一品一品が
焼きたて、出来立てのもので、
それはやはり美味しいものである。

*

珈琲をすすりながら、
手元のスマホで
「ボージュ」を検索してみたら、
フランスの北東部にあたり、
いわば「東北地方」だわ・・・と、
なんとなく親近感がもてた(笑)。

しかも、
詳細図にしてみたら、
なんと!  古楽器の
「19世紀ギター」の生産地名である
「ミルクール」はその地にあったとは、
初めて知った。

そのレプリカ楽器である
『グローヴェル』というのを
かつて所有していたので、
その土地産の鶉を頂き、
なんだか不思議な地縁を感じた。

*

「お土産」に、
マダムが畑で栽培している
珍しい「ジューンベリー」の
コンフィチュール(ジャム)を
頂戴した。

家に冷凍パイ生地があったので、
フィリングにして
珍しい「ジューンベリー・パイ」でも
創ろうかしらん・・・と、思った。

*

来月は、久しぶりに、
「リー・ド・ヴォー」
(孔牛の胸腺肉)
のスペシャリティをオーダーし、
予約を入れさせて頂いた。

 

 

 

 

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名人戦・開幕戦「後手・勝利」

2023-04-07 09:08:01 | 藤井 聡太

きのうの
『名人戦』の開幕戦。

後手番ながら、
中盤から微差を拡げる
「藤井曲線」を描いて
最終盤は相手を
時間切れにまで追い込む
余裕勝ちだった。

しかも、
AIが推奨するような手では
攻め急がずに、
「緩急」自在の指し手を見せ、
解説の森内元名人をして
「えーっ!!」
と驚かせるような
盤石の布陣で守りを鉄壁にし、
恰も「大山名人」が乗り移ったような
指し回しをも見せた。

デヴュー当時から
「着ぐるみを脱いだら、
中から大山名人が出てきそうな、
中学生とは思えない
老獪な指し回し・・・」
という解説のコメントは
しばしばあった。

ソーちゃんの部屋が
テレビ取材にあった時、
その謎は解けた。

彼の書棚には
大山康晴の『大全集』があり、
その棋譜を小学生の時に
既に完璧にマスターし、
その「負けない差し回し」や
「二枚腰」の要諦をも
身に着けているのである。

その盤石の基礎の上に、
AI将棋の奇抜・奇天烈な読み筋を
自作のフルスペック・マシンで
絶えず研究しており、
自らは詰将棋を趣味と言って
『選手権五連覇』するほどの
第一人者でもあるのである。

幼稚園生の時、
小学生の兄の「九九」を
独自の方法でマスターした
というのだから、
やはりその頭脳は「天才」の
それなのだろう。

また、彼は、
アナログな盤面図ではなく、
デジタル的な棋譜で
思考するというので、
それも次元の異なる才能である。

幼少期に夢中になったという
『キュボロ』という
立体パズルを誰よりも早く
正確に完成させ、
その無限の組み合わせに
飽きもせずに没頭していたと
母親が証言している。

それにより3D感覚が鍛えられ、
将棋のような2Dゲームをする際に、
ちょうど、巨大迷路の出口を
バーズアイ・ヴュー(鳥瞰視点)で
1次元「高次元」から
観測できるのかもしれない。

*

これで、
渡辺名人との対戦成績は、
17勝3敗となり
その勝率は82%となった。

その確率は、
彼が「名人」になる
蓋然性を表しているものである。

*

我われが目撃しているのは、
もはや、藤井聡太という
特異な「現象」である・・・(笑)。

 

母校の一中前を流れる
大森川沿いの
桜と菜の花が
目をとめる春景色を描いていた。

もう、半世紀も前に、
昼休に学校を抜け出して、
たしか『やなぎやパン店』で
メロンパンを買って、
この土手に寝転んで食べた事がある。

また、
小学2年の頃には、
好きだった順子ちゃんに
家に招待され、
この土手の左側にあった
おうちで遊んで、
『わたなべの粉末ジュース』を
出された記憶がある(笑)。

*

棋戦の昼休中に、
散歩&買い物に出た。

帰路に
いつものように
近所の八幡様の祠(ほこら)に寄り、
オシリ痛やアゴ痛の完治を
お願いしてきた。

境内に、
マスクが捨てられていたので、
拾おうかどうか迷ったが、
いつもお賽銭をいれないで
お参りしているので(笑)、
清掃奉仕をさせて頂こうと
紐をつまんでゴミ集積所まで
持って行った。

そしたら、
途中の原っぱに
早くも待望の
「アスペルジュ・ソバージュ」
(野生のアスパラ)
が、ニョキリと二本もあり、
嬉々としてポキポキして帰った。

境内清掃の御利益を
こうも早く頂くとは
望外の幸せで、
まだ見えていた祠にむかって
手を合わせ一礼した。

つい先日、
散歩に連れられていた犬が
その辺りをクンクンして
とまっていたので、
もしやシッコをしてるやも・・・
とも思い、スーパー物ではやらない
洗剤でしっかり洗ってから、
バーナーで直火焼きして頂いた。

採り立てのアスパラは
まだ、その切り口の水分が
ポタポタ落ちるほど
新鮮この上なく、
雑草の中で育っているが、
味のエッセンスが濃いのなんの・・・(笑)。

まさに、
“春の鮮烈な命”を
頂いた気がした。

きっと、八幡様が
神経痛の“喰いクスリ”として
振舞ってくだすったのだ、
と有難く受領させて頂いた。

*

以前にも創った、
『馬刺しと生ハムの卵黄ソース』を
再現してみた。

レストランでは
とんと見ない組み合わせだが、
生ハムの塩気と
生クリームと卵黄のソースが
馬刺しをまろやかに包み、
イチゴの甘酸っぱさが
いいアクセントになってくれた。

緑のガルニは、
レタスの切れっ端を
水耕栽培してるうちの
新芽である。

*

わざわざカルチャースクールや
料理学校に行かずとも、
美味しい店を食べ歩き、
その味を分析したり再現する
という作業を長年やっていると、
料理の腕前は自ずと上がるものである。

先月は
フレンチでは最高級の
『オーベルニュのビジョン・エトフェ』
(窒息鳩)を頂いたので、
今月はカイユ(鶉)の
クィズィーヌ(料理)をお願いした。

そしたら、昨日、
シェフからフランスから届いた
素材の画像が送られてきた。

部分的に見れば、
スーパーのパックにある
鶏肉のような見栄えだが、
全体像を見ると
まだ毛の生えた頭・顔や
するどい嘴(くちばし)、
爪先があって、いかにも
フランスの食肉といった感じだった。

きょうは、その一級の素材を
三ツ星シェフの超絶技巧で
頂いてくる。

“顎関節痛”は、
大口・軽口・悪口・
大食・美食
・・・を、控えよ、
という内なる魂からの
身体言語的メッセージとは
了解しているが、
「これは、勉強で、
素晴らしい体験だ・・・」
という自己欺瞞と
詭弁を弄している(笑)。

そのせいか、
ゆんべから
ズクズクと右耳が疼いている(笑)。

鎮痛剤飲んででも
カイユのフレンチに
行こうというんだから、
“持ったが病”というか
つくづく業が深いのだろう(笑)。

・・・だって、
終戦後12年して生まれた
まだ一億総ビンボー時代の
「昭和」の申し子だから、
ンマイもんなんか
喰えなかったんだもん・・・(笑)。

まずいスイトンも喰わされたし・・・。

いつか、
豪華なご馳走喰いたいなぁ・・・と、
少年時代に夢見たんだもん・・・。

半隠居のジジイ世代になったら、
ちったぁ手銭で
ンマイもん喰っても
バチはあたらんよなぁ・・・(笑)。

・・・って、
一生懸命に自我防衛機制である
「合理化」をしている(笑)。

・・・あ゛~
・・・にしても、
ビビ(耳)が、痛てぇ~・・・。

ほんでも、
ワシは負けずに、喰う!!・・・(笑)。
 
*

口腔外科で処方された
口内炎の塗り薬の
院外処方での薬価料をみたら
3割負担の490円のうち
クスリ代は「63円」で
あとの「437円」は
調剤技術料と薬学管理科だという。

クスリを処方する資格は
医師にあるのに、
薬剤師に87%も
ぼったくられているのは、
これって何なんだろう・・・と、
思ってしまった。

製薬会社で既に創られている薬を
「調剤」なんてしようがないし、
「薬学」の知識がなくても、
処方箋どおりの薬を窓口で出すのは
事務員でも出来る。

『おくすり手帳』を持参しても、
過去のクスリとの飲み合わせや
「禁忌」をチェックしてる風でもない。

「口内炎ですか?
たいへんですねぇ・・・。
これ塗ったあと
呑み込んでも大丈夫ですから・・・」
という
“薬学的”助言はあった(笑)。

JCやJKの中にも
薬剤師になりたい・・・
という子がいるから、
あからさまに悪し様にも
言えないが・・・。

医師や看護師が
本来の医療業務に専念できるため、
医療サービスの質を高めたり、
複数の病院から処方された薬の
飲み合わせチェック機能ができる、
というメリットがあるというが・・・
「クスリ代<人件費」という内訳を見ると
いつもシックリこない・・・。

 

 


*** 『魂理学』試論ノート6 ***

 

この身は「アバター」なのでは・・・
ある種の「着ぐるみ」なのでは・・・
と、時々、思うことがある。

でも、つねれば痛い(笑)。

「痛覚」というのは
「視覚・聴覚・臭覚・触覚」
と同じように、
損傷部位での「活動電位」であり、
けっきょくは電気信号を
脳内で「いたみ」として
感覚させられている。

ファントム・ペイン(幻痛)
という現象があるが、
これは、例えば、
事故で左腕を失った場合に
無くなったその手の指先に
痛みを感じる・・・
というような現象である。

これは、
脳が「幻の痛み」を作り上げている
という病理的な現象である。

脳内の記憶を司る
「海馬」という小器官は
トラウマティックな出来事により
物理的に可視的な萎縮や皺が
微細に起こるという。

それであれば、
当然、脳内の化学物質の分泌や
脳神経間の電気信号の伝播に
物理的な異変が起こることは
有り得る。

*

今朝も起きがけに「夢」を見た。

眼は瞑っているのに、
ありありとした光景が見え、
はっきりした人物と
日常と同じ会話をしている。

よくよく考えると、
夢は不思議な現象である。

視覚だけでなく、
聴覚、味覚、触覚まで
かなりリアルに感ずることができる。

「匂い」を夢で感じたことは
記憶にないが、
「いい匂いがした」
という臭覚も
きっと感覚できるのだろう。

これらの「体験感」も
すべてが脳内の電気信号により
行われている。

そこにはエネルギーが使われているが、
それは、太陽の光エネルギーに
由来しているとも言える。

独立栄養生物である植物が
光合成を営み、
「H₂O」を光の波動エネルギーで
「HとO」に「光分解」し、
葉っぱの気孔から吸入した
「CO₂」の「C」と合成して
「C₆H₁₂O₆」を合成する。

これは、「ブドウ糖」(有機物)で、
その集合体は「でんぷん」である。

我われ従属栄養生物であるヒトは、
この「C₆H₁₂O₆」を食物として取り入れ、
細胞内のミトコンドリアという工場で
「解糖系」という複雑な化学的サイクルで
食物として取り入れたタンパク質や脂肪の
「N」や「P」とを合成させて
「C₁₀H₁₆N₅O₁₃P₃」という物質を
最終的に作り上げる。

これは、「ATP」
(アデノシン三リン酸)という
すべての生物に共通する
化学エネルギーである。

このエネルギーによって
細胞内外で「ナトリウム・ポンプ」の
働きが起こり、細胞膜の内外で
電位差が生じる、ということは、
高校生物で誰もが教わる。

そこに物理的・化学的な
刺激が加わると、
膜電位は反転して
「興奮」として伝播し
「電流」を発生し、
抹消器官(体の様々な部位)から
中枢の脳に「電気的興奮」が送られる。

今、窓の外の青空を見ているが、
これとて、青い光の波長が
眼球内のスクリーンである網膜に達し、
そこにある視細胞を興奮させ、
視神経という電線を通じて
脳内にその「電位変化」が
伝えられているのである。

その電気信号を脳が翻訳し、
周囲の風景との関係性から
「青空」という認識が起こる。

トイレットペーパーの芯を覗いて、
単に、青空の一部だけを見せられたら、
それは「青」としか認識できないが、
チラリと雲の一部でも見せれば、
すぐに関係性から「空」という概念と
マッチングさせる。

それは、脳の
「リファレンス(参照)」や
「意味付け」という
機能の一つでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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グランドスラム+六冠

2023-04-06 09:28:46 | 藤井 聡太

きのうは
隔週に通院している
口腔外科の診療日だった。

自宅から10㎞ほどある
やや遠方にあるが、
検索したら唯一
「口腔外科」学会の
所属医だったので、
専門家を頼ることにした。

一月から通いはじめ、
レントゲン検査から
「アプライアンス療法」
(マウスピース設置)や
毎回の開口ストレッチなどの
手技を施されているが、
“硬直症”らしく、
いささか難治性のようである。

それでも、
以前よりも痛みは減じ、
食事も開かないなりに
喰痛感もなくなってきて
慣れてきてはいるが、
風邪気味の体調不良になってくると
患部の耳下腺辺りが
ズクズクと疼きだす。

そんな時は、
処方された『セレコキシブ』(鎮痛剤)と
患部マッサージをするよりない。

“病の意味”説から言えば、
大口・軽口・悪口・
大食・美食
・・・を、身をもって慎むまで、
治らないのかもしれない。

「病」は、
それまでの悪「生活習慣」を
改めさせる、という意味もある。

*

最近、しばしば、
心悸亢進(心臓ドキドキ感)が
頻繁にしてたので、
気になっていたが、
花粉症や風邪体調で
自律神経系が失調してるんだろうと
自己診断していた。

そしたら、きのう、
喘息とは違った息苦しさを感じ、
ハッとなった。

もしや、心臓発作の予兆かと・・・。

でも、冷静に考えたら、
朝方、着替える時に、
背筋の筋違いを起こして、
ギックリ腰並みの激痛を覚え
無意識で、それをかばって
呼吸が浅くなっていたようだった。

それに、気付いて、
マスクを外して深呼吸を
ゆっくりしたら、
息苦しさは解消した(笑)。

*

口腔外科の手技の
辛い開口ストレッチの後は、
自分へのご褒美として
毎回、隣接している
『珈琲問屋』で
好物の『エスプレッソ・シェィク』を
やってくる。

甘苦く冷たい一口で
「あ~ !  
 きょうも、シンドかった~!!」
と、思わず、
ため息が漏れる(笑)。

満開の桜を観ながらの
一杯の珈琲も
なかなかに味わい深いものである。

 味わい深き人の生(よ)を
  歩まむとする
   けふより君は

・・・という、
上田三四二(みよじ)の
秀歌が脳裏に浮かんだ。

*

帰路、音楽堂に寄り、
来月に迫った
『福大OBOGコンサート』の
技術スタッフとの打ち合わせやら
当日の経費の見積もりなどの
確認をしてきた。

ロビーには、
ポスターもパンフも
ちゃんと設置されて、
いよいよ、本番間近という
緊張感と期待感が
高まってきた。

その一方で、
当日の弁当手配やら
打ち上げの予約やら、
出演者へ後日郵送する
録音CDの準備やら、
なにかと“楽団ひとり”の
事務職も多い。

それをも楽しめねば、
煩瑣なコンサートなぞ
最初っから企画したりはしない(笑)。

*

口腔外科の待合室でも、
治療室でも、寸暇をみては
ソーちゃんの『名人戦』中継を
観戦していた。

この四月からは
マスク解禁になったので、
久方ぶりに素顔での両対局者を
観ることができたのは良かった。

*

名人戦のアベマ中継は
初めて見るが、
画面がいつもと違って
緑色の配色だった。

あるいは、
新年度からこのスタイルで
放映するのだろうか。

ソーちゃんのポスターが
キリリと凛々しい表情で、
「名人位」を取りに行く、
という気迫さえ感じる。

小4の頃に色紙に書いて
有名になった
「名人をこえる」
という言葉を
マスコミにさんざん、つっこまれて
「子どもの頃の考えですので、
そろそろ時効にして頂きたいかと・・・」
と、ユーモアで切り返す場面もあった。

*

YouTubeでの人気解説
石田のとっつあん(九段)の
講談調の名調子で、
2022年度のソーちゃんの総括が
なされていた。

昨年度、
タイトル戦以外の公式戦である
四大「早指し戦」を全て制覇し、
年度内グランド・スラムを
全棋士で初めて達成した。

それに加えての
「タイトル6冠」達成である。

渡辺名人からのタイトル奪取も
対戦成績16勝3敗=勝率81%の
確率で濃厚なので、
年度内「七冠」は
ほぼ手中にあると言ってよい。

*

 

*** 『魂理学』試論ノート5 ***

『フラーレン』という
炭素原子が60ケ集まって出来た
サッカーボールのような形をした
分子があるが、
これが、二重スリット実験において、
電子や光子と同じく
「粒子」と「波」の量子的性質を
現したという。

そして、その結合体は
顕微鏡下でも観察できるというので、
これまで、ミクロ界でのみ
認められていた量子的現象が
マクロ界でも起こっている事が
確認された。

他にも、同様の結果が
いくつも観測されはじめ、
ミクロ界とマクロ界には
量子的性質に
境界がないことが判明した。

・・・ということは、
我われの存在も「量子的」であり、
「粒子」と「波」の状態が
「重ね合わせ」になっている、
という事になる。

生命体の組成が、
分子・原子・素粒子である事は、
容易に理解できるが、
はたして、「波」という性質は
現実として、どの部分を指すのだろうか。

考えられるのは、
ヒトの神経系における
電気的性質である。

心電図や脳波で確認できるが、
その周囲には微弱ながらも
フレミングの法則で
磁場も発生している。

すなわち、ヒトは
微弱ながらも
「電磁波」を有する。

それと、熱を放射している。

熱は分子運動により発生するが、
それが「伝播」するという性質は、
「波動性」を有するからである。

ふと、赤塚不二夫まがいの
馬鹿げたギャグが思い浮かんだ。

もし、天才・赤塚不二夫が
今、生きていて
『ニャロメ・シリーズ』に
量子力学の「絵解きマンガ」を
描いたとすると、
ヒトを二重スリットに通して
「干渉波」が出る場面を
描いたかもれしない(笑)。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

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