
7月にアテロームの手術をして
11月頃、また経過観察の
受診を奨められたが、
今のところノープロブレムなので
パスすることにした。
術前診察から術後管理まで、
なんやかやで
5回も通院してるので
メンド臭くなった。
3ヶ月もの間、
紫外線で傷跡が
色素沈着するのを防ぐのと
肉の盛り上がりを防ぐのに
テーピングをしていたが、
そろそろ傷口が落ち着いてきたようだ。
近頃、顔に老化シミも出てきたので
気にしていた傷跡もシミ程度にしか
見えないのでよかった。
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昨日は、通勤中に
突然、哀しくなり、
死にたい気分に襲われ、
先日、車を凹ませたことで
プチPTSDになり「うつ」状態に
陥ったかと懸念された。
そしたら、
7人も生徒がカウセリングに来て、
その対応に追われていたら、
帰る頃には元気になっていた。
うつ病で「死にたい」と洩らす子たち、
場面かん黙で一言も話せない子、
友達を傷つけたと泣く子、
「死ね」といじめられた子・・・などなど、
それぞれのケースに
真剣に向き合っているうちに、
しっかりせねば、という自分が
ふつふつと沸き起こってきたのだろう。
仕事に救われたのか、
生徒に救われたのか、
そのどちらかもしれないが、
「病んだものが、また癒す」
というデルフォイの神託は
真実だなぁ・・・と、実感し、
カウンセラーになって
つくづくよかったと思った。
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『教育随談』
言葉の力
奈保子 以前、先生から、「教師の仕事は、子どもたちの“たましい”の中に『言葉の種子』を置いてゆくことだ」とお教え頂いたんですが、それは、いわゆる『霊言』のような、言葉自体の自律性についてのこと、と理解してよろしいんでしょうか。
佐々木 そうですね。例えば、「苦しくとも死んではいけない」という言葉が、その子の中に、教師によって撒かれていたならば、あるいは自殺を思いとどまるのではないか、と考えたことがあるんです。
奈保子 なるほど。それが、言葉の力ですね。
佐々木 そうです。でも、それは誰が言うかが重要なんで、よく「何を言うかが大事ではなく、誰が言うかが大事なんだ」って言うでしょ。
奈保子 言い得て妙ですね。ラポール(信頼関係)ができていてこそ、撒かれた言葉が働くものですね。
佐々木 そうでしょ。実際にね、30年も現場にいますと、最初の教え子が今、50過ぎてますから、かつての子どもたちに撒いた言葉が、その後どう育ったかということが、自然観察的に解るでしょ。
奈保子 なるほど。それは壮大な実験のようですね。
佐々木 教育なんてそんなものですよ。
奈保子 信頼する教師の一言で立ち直ったり、人生の方向性が決まることってありますものね。
佐々木 あります、あります。でもね、ひとつ間違うと、教師は「教えよう、教えよう」と思うあまり、説教し、指示し、命令し、禁止する、といったことが得意になってくるんですよ。
奈保子 熱心になるほど陥りやすいかもしれませんね。
佐々木 ですから、SC(スクールカウンセラー)が導入されて、教員のコンサルテーションやスーパーヴィジョンができるようになってきたのは、閉鎖的学校環境では画期的なことだったんです。
奈保子 子どもたちの悩み相談に留まらず、先生たちの教育相談やメンタル・ヘルス相談もSCの重要な仕事なんですね。
佐々木 そうなんですよ。よく来られる先生なんかは、校長や教頭や主任よりも、SCの方が何回もお会いし、家族背景、思想信条、人格構造までわかりますからね。
奈保子 ところで、以前、先生の心理学の講義で「自らの個性に忠実に生きることで苦しんでいる子どもたちにとって、言葉はあまり効力を持たない」と伺ったことがありましたが、そういう子たちは「言葉のいらない世界」というような別の世界の住人になってしまうのでしょうか。
佐々木 そうですね。それは、ある時は「凄まじい世界」でもあり、またある時は「本当の世界」のように我われの目には映るんです。
奈保子 人間を人間たらしめたのが「言葉」であるとすれば、「失語の世界」に迷い込んだ子どもたちは「個」のレベルを越えて「種」のレベルでの退行を行っているように私には思えるんですが。
佐々木 なるほど。それは卓見ですね。オーラルな言語を獲得する以前の我われの祖先は、もしかすると完璧な“たましい”の言語を有していたのかもしれないね。
奈保子 そしてそれは、「母と子」や「家族」の本当の絆を作り、また自然とも、絶対者(神)とも、祖先や死者の霊とも、見事な関係性を持ち得ていたのかもしれませんね。
佐々木 「基本的関係性」の喪失こそ現代の病の源であり、子どもたちが原始の状態へと退行する所以なのかもしれないね。
奈保子 言葉に対する限界は、私たちを必然的に「祈り」「信ずる」世界へと導いてくれるように思うんですが。
佐々木 そうです。私も長男が小1のとき、交通事故に遭って、今、生きるか死ぬかというとき、言葉を失いましたもの。そして、ただ「助かって欲しい」「助けて下さい」と祈り願うしかありませんでしたよ。それは、何々教とかは関係なくて、誰でもそうなるでしょうね。神様、仏様、キリスト様、なんでもいいから「助けてくれ」って・・・。本来の宗教性的な心性になるものです。
奈保子 そうでしたか・・・。事故に遭われたのって、文治君ですよね。
佐々木 そう・・・(笑)。今は立派な?・・・かどうか知らんけど、社会人になりましたけど・・・(笑)。
奈保子 事故がらみで、今、突飛な思いきなんですが、身体的な事故は目に見えて分かりますが、“たましい”の事故はなかなか気が付きにくいものではないでしょうか。
佐々木 おお、魂理学者らしい言い回しだね(笑)。
その通りですよ。「たましいの事故」は、治癒するまでにかなりの苦痛を伴いますし、手遅れになれば命取りになることもある。
奈保子 ユングは「たましいの医者」と言われましたが、学校臨床に携わる魂理学者も「生き死に」に関与する大変な仕事ですね。
佐々木 そう自覚していないと勤まりませんね。
奈保子 先ほどの話に戻りますと、太古の人々のスピリチュアルなコミュニケーションというのは、言語を超越した「祈り」合ったり、「思い」合ったり、「信じ」あったりすることだったんでしょうね。
佐々木 それを神谷先生は「愛」と呼んだでしょ。
奈保子 そうでした、そうでした。
佐々木 「祈り」は、言葉の不完全さを補って余りあるものなんですね。
奈保子 教師の役目には、言葉の種を撒く、ということがありましたが、もう一つ、子どもたちの変容を促す「容器」としての役目もあるように思うのですが。
佐々木 ありますよ。それには、ヴァーバルなコミュニケーションを越えた、スピリチュアルなコミュニケーションが必要とされるんです。
いい先生とは、子どもの持つ未来の可能性を「信じ」、さらにもう一歩進んで、それを「楽しみ」にし、立ち行きを「願い」、「祈る」ことが出来る人のことなんです。