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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

凹み

2012-11-10 06:25:00 | 健康


7月にアテロームの手術をして
11月頃、また経過観察の
受診を奨められたが、
今のところノープロブレムなので
パスすることにした。

術前診察から術後管理まで、
なんやかやで
5回も通院してるので
メンド臭くなった。

3ヶ月もの間、
紫外線で傷跡が
色素沈着するのを防ぐのと
肉の盛り上がりを防ぐのに
テーピングをしていたが、
そろそろ傷口が落ち着いてきたようだ。

近頃、顔に老化シミも出てきたので
気にしていた傷跡もシミ程度にしか
見えないのでよかった。

//////////

昨日は、通勤中に
突然、哀しくなり、
死にたい気分に襲われ、
先日、車を凹ませたことで
プチPTSDになり「うつ」状態に
陥ったかと懸念された。

そしたら、
7人も生徒がカウセリングに来て、
その対応に追われていたら、
帰る頃には元気になっていた。

うつ病で「死にたい」と洩らす子たち、
場面かん黙で一言も話せない子、
友達を傷つけたと泣く子、
「死ね」といじめられた子・・・などなど、
それぞれのケースに
真剣に向き合っているうちに、
しっかりせねば、という自分が
ふつふつと沸き起こってきたのだろう。

仕事に救われたのか、
生徒に救われたのか、
そのどちらかもしれないが、
「病んだものが、また癒す」
というデルフォイの神託は
真実だなぁ・・・と、実感し、
カウンセラーになって
つくづくよかったと思った。


*****************


『教育随談』

言葉の力
奈保子 以前、先生から、「教師の仕事は、子どもたちの“たましい”の中に『言葉の種子』を置いてゆくことだ」とお教え頂いたんですが、それは、いわゆる『霊言』のような、言葉自体の自律性についてのこと、と理解してよろしいんでしょうか。
佐々木 そうですね。例えば、「苦しくとも死んではいけない」という言葉が、その子の中に、教師によって撒かれていたならば、あるいは自殺を思いとどまるのではないか、と考えたことがあるんです。
奈保子 なるほど。それが、言葉の力ですね。
佐々木 そうです。でも、それは誰が言うかが重要なんで、よく「何を言うかが大事ではなく、誰が言うかが大事なんだ」って言うでしょ。
奈保子 言い得て妙ですね。ラポール(信頼関係)ができていてこそ、撒かれた言葉が働くものですね。
佐々木 そうでしょ。実際にね、30年も現場にいますと、最初の教え子が今、50過ぎてますから、かつての子どもたちに撒いた言葉が、その後どう育ったかということが、自然観察的に解るでしょ。
奈保子 なるほど。それは壮大な実験のようですね。
佐々木 教育なんてそんなものですよ。
奈保子 信頼する教師の一言で立ち直ったり、人生の方向性が決まることってありますものね。
佐々木 あります、あります。でもね、ひとつ間違うと、教師は「教えよう、教えよう」と思うあまり、説教し、指示し、命令し、禁止する、といったことが得意になってくるんですよ。
奈保子 熱心になるほど陥りやすいかもしれませんね。
佐々木 ですから、SC(スクールカウンセラー)が導入されて、教員のコンサルテーションやスーパーヴィジョンができるようになってきたのは、閉鎖的学校環境では画期的なことだったんです。
奈保子 子どもたちの悩み相談に留まらず、先生たちの教育相談やメンタル・ヘルス相談もSCの重要な仕事なんですね。
佐々木 そうなんですよ。よく来られる先生なんかは、校長や教頭や主任よりも、SCの方が何回もお会いし、家族背景、思想信条、人格構造までわかりますからね。

奈保子 ところで、以前、先生の心理学の講義で「自らの個性に忠実に生きることで苦しんでいる子どもたちにとって、言葉はあまり効力を持たない」と伺ったことがありましたが、そういう子たちは「言葉のいらない世界」というような別の世界の住人になってしまうのでしょうか。
佐々木 そうですね。それは、ある時は「凄まじい世界」でもあり、またある時は「本当の世界」のように我われの目には映るんです。
奈保子 人間を人間たらしめたのが「言葉」であるとすれば、「失語の世界」に迷い込んだ子どもたちは「個」のレベルを越えて「種」のレベルでの退行を行っているように私には思えるんですが。
佐々木 なるほど。それは卓見ですね。オーラルな言語を獲得する以前の我われの祖先は、もしかすると完璧な“たましい”の言語を有していたのかもしれないね。
奈保子 そしてそれは、「母と子」や「家族」の本当の絆を作り、また自然とも、絶対者(神)とも、祖先や死者の霊とも、見事な関係性を持ち得ていたのかもしれませんね。
佐々木 「基本的関係性」の喪失こそ現代の病の源であり、子どもたちが原始の状態へと退行する所以なのかもしれないね。
奈保子 言葉に対する限界は、私たちを必然的に「祈り」「信ずる」世界へと導いてくれるように思うんですが。
佐々木 そうです。私も長男が小1のとき、交通事故に遭って、今、生きるか死ぬかというとき、言葉を失いましたもの。そして、ただ「助かって欲しい」「助けて下さい」と祈り願うしかありませんでしたよ。それは、何々教とかは関係なくて、誰でもそうなるでしょうね。神様、仏様、キリスト様、なんでもいいから「助けてくれ」って・・・。本来の宗教性的な心性になるものです。
奈保子 そうでしたか・・・。事故に遭われたのって、文治君ですよね。
佐々木 そう・・・(笑)。今は立派な?・・・かどうか知らんけど、社会人になりましたけど・・・(笑)。

奈保子 事故がらみで、今、突飛な思いきなんですが、身体的な事故は目に見えて分かりますが、“たましい”の事故はなかなか気が付きにくいものではないでしょうか。
佐々木 おお、魂理学者らしい言い回しだね(笑)。
その通りですよ。「たましいの事故」は、治癒するまでにかなりの苦痛を伴いますし、手遅れになれば命取りになることもある。
奈保子 ユングは「たましいの医者」と言われましたが、学校臨床に携わる魂理学者も「生き死に」に関与する大変な仕事ですね。
佐々木 そう自覚していないと勤まりませんね。
奈保子 先ほどの話に戻りますと、太古の人々のスピリチュアルなコミュニケーションというのは、言語を超越した「祈り」合ったり、「思い」合ったり、「信じ」あったりすることだったんでしょうね。
佐々木 それを神谷先生は「愛」と呼んだでしょ。
奈保子 そうでした、そうでした。
佐々木 「祈り」は、言葉の不完全さを補って余りあるものなんですね。

奈保子 教師の役目には、言葉の種を撒く、ということがありましたが、もう一つ、子どもたちの変容を促す「容器」としての役目もあるように思うのですが。
佐々木 ありますよ。それには、ヴァーバルなコミュニケーションを越えた、スピリチュアルなコミュニケーションが必要とされるんです。
 いい先生とは、子どもの持つ未来の可能性を「信じ」、さらにもう一歩進んで、それを「楽しみ」にし、立ち行きを「願い」、「祈る」ことが出来る人のことなんです。



イタタ・・・

2012-11-08 06:15:00 | 


昨日、職場で
校門の礎石に車をぶつけてしまい
ドアが凹んで
気分も凹んでしまった。

zzz

車には女性名がついているので、
「痛かったろう。ごめんね」
と謝った。

車両保険に入っているので
保険屋に電話したら、
対物自損の場合は出ないと言われ、
またガックシ・・・。

horori

修理に出せば、
おそらくは5万はかかるだろうと
思ったらゾッとした。

冬タイヤも5シーズン履いたので、
今年は新調せねばと思っていた矢先の
事故だったので、痛過ぎる。

いっそ、DIY精神で
得意のプラモ仕上げのように
自分で叩いて平らにして
塗装しようかとも思っている。

幸い下側だけなので、
それで目立たなくなれば
ま、いっか・・・。

軍用機見立てなので、
プラモならば適度に被弾跡が
あったほうがリアリティもあるし
・・・と、なんとか自己納得しようとしている。

最近、いつも足で運転しながら
ギターを弾いているので、
大事故を小事故にまつり替えされて
神様が注意を喚起して
下さったのかなとも考えた。

帰宅後、易を立ててみたら、
「水雷屯」という六十四卦中の
四難卦の一つと出た。

やっぱ、運勢は
衰退していたようで、
「すべてにおいて自制すべし」
とあった。


*********

『教育随談』

奈保子 先生は、教員時代とカウンセラー時代を合わせて、何十年くらい教育臨床に携わってこられたんでしょうか。
佐々木 えーとですね、教員が13年でカウンセラーが17年だから、ちょうど30年になりました。
奈保子 はぁ。30年ですか。そうとうの長さですね。
その30年を振り返ってみられて、教育臨床的に何かお気づきのことはございましたか。
佐々木 そうですね、それは今現在もそうですが、しばしばと言っていいほど、自らの個性に素直に生きようとして、日常生活から逸脱してゆく子どもたちと出合うことが多かったことかなぁ。
奈保子 なるほど。そんな時、早く元のレールに戻してあげたいと思われるわけですね。
佐々木 もちろん、そうですけど。でも、もう一方では、とにかく待ってみよう、時節に任せてみよう・・・とも思い、その葛藤に苦しむことがよくありますよ。
奈保子 そうでしょうね。目の前に苦しんでいる子がいて、早くなんとか手助けしてあげたいと思っても、どうしてあげることも出来ない、という場合だってあるでしょうからね。
佐々木 それもあるけど、例えば、ヨチヨチ歩きの小さい子が転んで泣いたときに、すぐに抱き起こしてあげるのがいいのか、自分の力で立ち上がるのを手出しをせずジッと見守るのがいいのか、というジレンマがあるでしょ。
奈保子 ああ、なるほど。そういう葛藤はありますね。
佐々木 まあ、その場合は、待つといっても少々の間ですが、これがロング・スパンで待たねばならないことだってあるでしょ。
奈保子 たしかに、あります。そういう時は、祈るような気持ちになるでしょうね。
佐々木 その通りです。亡くなられた神谷美恵子先生はね、それを愛と言ってましたね。

「愛・・・ それは、ひとりの人間の持つ可能性を、本人自身よりもよく見てとり、それを固く信じて疑わず、たとえ外見上、どんなにそれに反するような歩み方をしても、いつかは本来の道にもどるであろうと、望み、信じ、待ち続け、また、遠くから『汝の本質にかえれ』と呼び続けているもの」

奈保子 雅味があって、すばらしい言葉ですね。
佐々木 そうでしょ。私は今まで講演会で、何十回も紹介したので、もう暗記してるんです。
奈保子佐々木 望み、信じ、待ち続ける、っていうのが、なかなか親も教師もできないことではないでしょうか。
佐々木 そうなんだね。大人は、すぐに結果を出したい、と思うんですよ。
奈保子 今の世の中は、特に、せわしないですよね。
佐々木 でもね、やっぱり、学校には、こうして子どものために、本気で望み、信じ、待ち続けたり、真剣に悩んで、その立ち行きを祈る大人がいなければ、そこは、ただの箱になってしまうでしょ。
奈保子 ほんとうに、教育臨床家としては大切なことですね。













新刊まんが

2012-11-07 05:35:00 | マンガ


歩いて2分ほどの近所に
ツタヤとゲオがあるので、
ほとんどのマンガは
発売から1ヶ月待てば
レンタルで借りれるのだが、
どちらの店にも品揃えがないものは
仕方なく購入している。

『美味しんぼ』は83年の第1巻から
足掛け30年近く購入しているが、
現在は第109巻である。

次巻では、いよいよ
福島篇を取り上げるようである。




こちらもレンタルにないので
購入している。

かつて、全巻を揃えていたが、
三度通読した後、ヤフオクで
売ってしまった。

作者の「さいとう・たかを」は
相当高齢のはずで、
これと『ゴルゴ13』の
すべてをペン入れしているとも思えず、
おそらくはプロダクション全体で
描かれているのだろう。


********


『教育随談』

教育と個性

奈保子(臨床教育学科大学院生)
「教育」というのを私なりに定義してみますと、未熟な子どもたちに対して、社会人となるべく必要な知識、規範、能力などを「教え」、身につけさせる一方で、持って生まれたそれぞれの個性を大切に「育てる」ことである、と理解しているのですが、如何でしょうか。
佐々木 うん。100点満点。完璧な定義だね。
 私が好きな喩えがあるんです。
「教育は、人の本性のなかにある“知の種”を発芽させ、“能力の芽”を育て、最も良き“仕事の花”を咲かせ、“社会奉仕の実”をならせるのが勤めである」        
奈保子 はぁ。そちらの方がずっと簡潔で文学的ですね(笑)。
佐々木 「個性」という言葉から、私はすぐに、いにしえ人の「5本の指の喩え」の話を連想するんです。
奈保子 それは、どんなのでしょうか。 
佐々木 じゃ、ちょっと5本の指を自然に閉じてごらん。花の蕾みたいに指先がきちんと揃うでしょ。これって、不思議に思ったことない?
奈保子 はぁ・・・。今まで、全然意識したことありませんでした。
佐々木 でしょ。私たちの指の長さは、それぞれ違っているからこそ役に立つんです。もしも、どれもが同じ長さだったら、そうはいかないでしょ。
奈保子 なるほど。言われてみれば、長さだけじゃなく、太さも形も、それぞれ個性がありますね。
佐々木 そうでしょ。社会のなかで、皆が皆、同じ人間では「物をつかむことのできない手」になってしまうと思いませんか。
奈保子 なるほど。個性というものを、長さが不揃いの指と同じである、と例えた古人の知恵は素晴らしいですね。
佐々木 古きを訪ねて新しきを知れ、ですよ。
奈保子 温故知新ですね(笑)。
佐々木 そうそう。
奈保子 学校が、ある程度の「共通性」を子どもたちに「社会性」として学ばせたり、強いることは当然だと思いますが、必要以上に「皆同じくあるべし」と迫るのは、明らかに、指の長さを同じに切り揃えようとしているようなものですね。
佐々木 そのとおりですね。



初冠雪

2012-11-06 07:59:00 | 風景


数日前に、
吾妻山に初雪が積もっていた。

もう朝夕で10℃を下回る日もあり、
書斎ではストーヴを炊いて
仕事をしている。

ベッドにもホカホカの
電気毛布を入れたので、
コタツがわりにして
温まりながら本を読んでいる。

朝、なくなったストーヴの石油を
外のタンクまで入れにいくと、
(あぁ。もう冬だなぁ・・・)
と感慨深くなった。

かつて、『冬ソナ』ブームのときに、
その私家版続編を100篇も
小説サイトに投稿し、
のべ3万人に読んでもらったことがある。

それまで、
冬はあまり好きではなかったが、
雪の清浄さや、ホーリーな気分、
ピンと張り詰めた空気など、
冬の美しさを数多く描写しているうちに、
冬もわるくないと思えるようになった。

日本に住んでいる以上、
四季をとことん楽しんだほうが
得策にきまっている。

とは言え、福島は、夏暑く、冬寒い、
という盆地気候なので、
四季の変わり目が
ハッキリしており、
季節の移ろいに
身を馴染ませるのは容易ではない。


**********


『学校臨床の実際』

ダメとガマンと大丈夫
 仕事柄、これまでリストカットやOD(薬物多飲)をした生徒たちとたくさん会ってきた。
 これらの自傷行為は、内的ストレスや自己不全感が行動化して起こる病的症状である。
 ある女子生徒なぞは
「血を見ると心が落ち着くんです」
 とか
「もう、切りたくて切りたくて、仕方がなくなる」
 なぞと言う。
 
「私は変なんですか?」
 と訊いてくる子には、
「高校生100人いたら、97人くらいは、そうはならないよ」
 と言っている。
 実際のところ、3%くらいの頻度と思えるが、リスカする子どもたちはリスカ仲間とたむろしていることが多いので、誰でもやっている感覚を抱いていることがある。
 中には、リスカの一つもしていないと、悩める乙女じゃない、かのように錯覚している子すらいる。たいていは、自我が未発達で、脆弱な子たちである。
 
 リスカに至らずとも、爪で引っ搔いて傷つけたり、コンパスの針で傷つけたりするプチ自傷もあり、リスカに飽き足らず本格的にプチ・タトゥーを入れる子もいる。
 こんな子どもたちに、古い諺の
「身体髪膚、これを父母に受く。
 あえて毀傷せざるは孝の始めなり」
 なぞと諭しても無益だが、 
「リスカしちゃ、ダメだよ!
したくなったら、ガマンするんだよ!
大丈夫だから!」
 と言うようにはしている。
 これは、師匠の市橋秀夫先生に「ダメとガマンと大丈夫」と習ったのである。
 そして、「大丈夫」は言うだけでなく、セラピストの全人的関与によって「安全感・安心感・大丈夫感」を提供しなくてはならない、とも教わった。
 そのためには、彼らの悩み、苦しみを全身全霊で傾聴し、共感し、受容するのである。
 人は、真剣に受けとめてくれた人の言うことは、案外に聴くものなのである。
 だから、誰もが安易に「ダメとガマンと大丈夫」と言っても効果はない。

 それと、不安を抱えて自傷する子たちは、健全な父性性を体験していないケースが多く、「ダメなものはダメ」「問答無用」と理屈抜きで、彼らの前に、不退転の壁として立ちはだかることも有意義なのである。