* 1 *
人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。
とりあえずの答えがあるだけです。
私はそう思っています。
でも今の学校で学ぶと、ひとつの問題に正解が一つというのは当然になってしまいます。
本当にそうか、よく考えてもらいたい。
養老 孟司
*
「ありがとうございました」
ソータは、一言、簡潔にそう言うと、最後の対局を終えたかのように、その枕元で瞑目した師匠に対して深々と一礼した。
長らく看病に仕えていた奥さんが、その枕元で
「パパ、よかったねぇ・・・。
ソーちゃん来てくれて・・・」
と、泪を拭いながら嗚咽した。
ソータの目にも涙が浮かんだかと思うと、それは、次から次と溢れ出し、まるで子どもにかえったように、そう・・・入門時の小学生にかえったように泣きじゃくった。
「お忙しい処、ほんとに、ありがとね。
パパ喜んでたと思うわ。
名人戦、頑張ってね。
パパもきっと、応援してるから・・・」
「はい・・・。頑張って防衛します・・・」
とソータは気丈に答えた。
廊下には、愛妻の愛菜が心配げに待っていた。
ガクリと肩が落ち、明らかに気落ちした様子が見られた夫に
「だいじょうぶ?・・・」
と、思わず声をかけた。
「・・・・・・」
ソータは無言のまま頷いた。
夫が激しく泣いたことを悟った妻は、バッグからガーゼ地のハンカチをそっと差し出した。
夫は無言のまま受け取ると、恥じらいもなく、泪の跡をぬぐった。
天才子役から売れっ子女優街道を揺らぐことなく歩んでいた愛菜だったが、自分の才能を遥かに上回る棋界の大天才とめぐり逢い、自らのキャリアを惜しげもなく放擲し、芸能界引退後は、子育てと夫のサポートに専念する生き方を選んだ。
その才能と経済的価値を惜しむ世間の思いなぞ歯牙にもかけなかったのは、まるで、昭和の大スター山口 百恵の生き様を彷彿させるものだった。
もとより賢い彼女は、自分を凌ぐ不出生の大天才の子を産んで、その遺伝子を後世に残さねば・・・と、なかば本能的な使命感のようなものを身の内に激しく感じて、そんな自分自身にも驚いたことがあった。
が、実際の処は、可愛い息子と娘に恵まれて、世間並の母親の喜びを日々満喫もしていた。
「じゃ、子どもたち、よろしくね・・・」
力ない少しばかりの笑顔を浮かべながら、名人は、セントレアから千歳に飛び立った。
傷心の夫の哀しみを我が事のように感じながら、妻はその機影が霞むまでスカイデッキに佇んでいた。
(がんばって、ソーちゃん・・・)
妻は、心の中でそう祈り、同時に、偉大な夫の永世名人位獲得を信じて疑わなかった。
名人位の通算5期目となる現棋戦をあと一勝すれば、前人未到の『永世八冠』を達成することになる。
盆暮れに夫に連れ添って、師匠宅への御挨拶参りをしていた妻は、
「先生。ソーちゃんを見守ってください」
と、瞑目して合掌した。
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