* 21 *
人は何かを知り、何かを忘れ、生まれ変わり続けている。
そういう経験を何度もした人にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。
養老 孟司
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江戸時代。
武家に生まれ育った男子は、十五才前後で「元服」の儀式が行われた。
それには、まず、少年時代の髪型を改める。
「月代(さかやき)」といって、額ぎわの頭髪を半月形に丸く剃った。
その形は、古くは奈良時代にまで遡るが、成人した男子が冠または烏帽子を被る部分であったので、それを象徴したのかもしれない。
また、武士は戦(いくさ)の折、兜をかぶると頭が蒸れるので、兜の頂上に通気孔を開け、その穴の真下の髪を剃ったことから、空気が抜けるので「逆息 (さかいき)」といったという説もある。
いずれにせよ、少年は髪型を変え、そして、幼名から成人名へと改める。
この儀式が残っているのは、今日では、相撲界だけであるが、現役力士が引退する折には、よく目にする「断髪式」がそれである。
その後には、「年寄名」を襲名する。
これは文化人類学では、「死と再生」の通過儀礼と呼ばれている。
カナリは9年間の義務教育を無事修了し、学生生活から卒業した。
そして、歌の文句じゃないが、「♪吹けば飛ぶような将棋の駒に♪」命を懸けた。
自分は「女流棋士」ではなく、将棋界初の女性「棋士」である。
その矜持がなくては、他169人もの男性「棋士」相手には対等に渡り合っていけるものではなかった。
でも、自分には、棋界最強の師であり、やさしい父がいる。
そう思うと、いかなる強敵も撃破してやる、という気概と勇気が、体の芯からマグマのように吹き上がって来るのを感じた。
自分をこの世に生み出したのは、顔も知らぬふた親だが・・・、今となっては、恨みがましい事よりも、生んでくれてありがとう、という気持ちの方が正直強かった。
生きていればこそ、辛いこともあるけど、将棋ができる。
将棋が指せるだけで、自分は幸せだった。
無論、真剣勝負には、負ける日もある。
でも、自分を含めて一七〇人という限られた世界で、一つひとつ階段を着実に上っていけばいいのである。
その頂上には、師にして、父が自分を待ってくれている。
その人は
「カナちゃん。早くここまでおいで」
と、手招きして誘ってくれている。
そこにたどり着くまでは、カナリは如何なることも犠牲にしていい、と覚悟を決めていた。
師匠のソータ・ファンに負けず劣らず、その弟子のカナリ・ファンも少なくなかった。
妙齢・容姿端麗・苦労人・永世八冠の弟子にして娘・・・という、有り余る肩書が彼女を棋界でもトップクラスの有名人にした。
なので、これで弱けりゃ「みっともない」というものであった。
全棋士出場の『朝日杯』決勝戦で、将棋ファン注目の一戦が行われた。
並み居る強豪を撃ち破って上がってきた「女流四冠」と、ディフェンディング・チャンピオンのカナリがぶつかったのである。
片や女流のトップ。
片や棋界唯一の女性「棋士」。
棋界では、女流棋士は棋士を「先生」と呼ばねばならないので、格はカナリの方が上だった。
女流棋士は50名ほどだが、その最強の「女流四冠」が、初めて女性「棋士」と対戦するというので、女流棋界全員の注目を集めた。
結果は、78手という短手数で、チャンピオンの圧倒的勝利での二連覇となった。
「角換わり/極限早繰り銀」という「史上最速の攻撃戦法」をカナリが仕掛け、それに「女流四冠」は手も足も出ず、早々の投了となった。
その攻撃の激しさとキレの鋭さを目の当たりにした女流棋士たち一同は震え上がった。
バケモンだ・・・と、思った女流棋士たちも少なくなかった。
男性のプロ棋士をしても、
「すげぇなぁ、この子は・・・」
「こえぇ・・・」
と圧倒された者もいた。
自宅のテレビで観戦していた師匠のみが、にんまり口元を緩め、台所まで行くと妻に向かって
「カナちゃん、勝ったよ」
と、さも当然のように告げた。
愛菜も満面の笑みで、足元をウロチョロしていたリュウマを抱き上げると、
「ナータン、やったよー!」
と、言ってみたが、幼い彼は、キョトンとするばかりだった。
その晩は、自宅での祝勝会になった。
カナリは、昨年に引き続き、今年も賞金の全額を愛聖園に寄贈した。
この棋戦の賞金は、たとえいくらになったとしても、それを全額寄付するのだ、と闘う前から、それをモチベーションにもしていたのである。
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