【空車】のランプ表示のまま環状線を降りてしばらく走ると、大槻町の方へとヘッドライトは向かっていた。
あと3時間ほどで、今夜も上がりだ。
…が、もすこし“水揚げ”があってもよかった。
駅の待合プールに戻るにはずいぶん遠くまで来てしまっていた。
老運転手は、このまま道なりに法定速度にまかせて流すことにした。
長梅雨の末期の夜雨が、ポツリポツリとフロントガラスに水玉を弾けさせている。
間歇ワイパーのスイッチをひねると、その怠そうなリズムに老運転手は欠伸をかみ殺した。
どのくらい流しただろか。
街灯の間隔が長くなりはじめた辺りを走っていると、この小雨の中、傘もささずに立ち尽くしている白いブラウスの女が、柳の枝のように手をあげていた。
老運転手は怪訝に思いながらも街はずれで乗客を拾えたのは僥倖とばかり、ドアを開けた。
「どちらまで?」
「……」
しばしの間があって、女は、街から外れた郊外の森林公園まで、とかすれたような声で告げた。
一瞬、老運転手は、業界の“あるある伝説”のユーレイじゃないだろうな…と、脳裏を過りもした。
だが、そんなことでいちいち躊躇していたら、夜の流しのタクシー業なぞ務まるはずもない。
それよりも、小雨の中、傘もささずに佇んでいた女のシートが、あとで濡れやしないか…と、そちらのほうが気になった。
そういえば、都市伝説ユーレイも、降りた後のシートがグッショリ…というのが、お決まりのパターンだった。
山ん中ではないといえ、街灯もない郊外の樹々の生え茂った森林公園の近辺は、雨の夜ともなると、もの寂しい気分がした。
公園ゲートからしばらく走ると
「どこで降りられますか?」
と、老運転手は、丁寧に訊ねた。
「……」
また、しばし、間があって
「この道の突き当りまで…
おねがいします…」
と、女は蚊の鳴くような声で応えた。
この先の突き当りといったら、森林公園の大駐車場である。
なんだって、こんな夜分に、あんな寂しい処に若い女性ひとりで用があるのだろう…と、老運転手は訝しく思った。
客商売は、立ち入ったことを訊ねるのはマニュアル上「禁忌」とされている。
兎も角、客の言われた処に運ぶのが彼らの仕事であった。
原生林を切り開いてできた森林公園は、昼間でも鬱蒼とした樹々のトンネルをいくつも潜っていく。
夜ともなれば、街灯がないので、ヘッドライトが照らす前方のわずかな視界のみが運転者の拠り所である。
曲がりくねった公園内の道には対向車も後続車も一台としてなかった。
公園内にある公共施設は、運動施設もせいぜい夜8時が最終である。
11時をまわった深夜ともなれば、人っ子ひとりいない森だけがあった。
大駐車場のゲートを潜ると、広々としたスペースは、休日の昼間と違って、駐車スペースを示す白線区画のみが延々と視界に入った。
「ここで、よろしいですか?」
と、老運転手は、入り口付近で訊ねた。
「……」
女は、
「いえ…。
西側の角のあたりまで…
やって下さい…」
と、妙に具体的な箇所を示した。
大駐車場の周縁も原生林と接している。
そんな灯りも何もない真っ暗な駐車場でいったい何をしようというのだろう。
老運転手は、ここにおいて、すこし薄気味の悪さを後部座席の女に感じた。
そして、見るともなくチラリとバックミラーを見たら、たしかに座っている。
決して、消えたりなぞしてはいない。
影はいささか薄いながらも、実体感がある。
少なくも、料金未払いの問題はなさそうだな、と老運転手はプロらしいことを考えていた。
そのピンポイントの白線区画の前にクルマは停車した。
「ここで、ほんとに、よろしいですか?」
老運転手は、念を押すように訊ねた。
「……」
すると、女は意外な事を口走った。
「ライトをビーム(遠目)にしてください…」
「は? なんですって?」
意味を理解できなかった老運転手は、即座に訊き返した。
女は、ゆっくりと同じ言葉を吐いた。
「ライトを遠目に切り替えてください…」
「はぁ…」
まだ、乗車賃を頂く前だったので、とりあえず、彼は客の要求に応じた。
カチリと、手元のレバーでライトを切り替えると、光の先は原生林を直射した。
小雨がミストのようになり、光の線はくっきりと直線状に照射した。
すると…手前の樹から数本先の樹に、何やら白いものが吊り下がっていた。
運転手は強い灯りの先を目を凝らして視た。
背筋がゾクリとした。
人だ…。
女だ…。
樹につり下がっている。
その時、後部座席から、
「見つけてくれて、ありがとう…」
と女の声がした。
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