弟の尚治は、わたしの腕のなかで目を閉じていた。
首を少しだけ傾けて寝ている。うっすらと額に汗が浮かんで前髪が光っていた。
到着ゲート周辺には、大勢の人が群がって家族の帰りを今かと待ちわびていた。
人々の目は暗闇の空に、耳はフロアーのスピーカーに釘づけになったままだった。
「123便 到着未定」
という表示を、わたしはぼんやりと見つめていた。
ふうっと、気が遠くなりそうになる。・・・と、ずしりという尚治の重みでハッとした。
「到着未定・・・・・・」
なんという不思議なメッセージだろう。一度飛び立ったものが、着く予定がないなんて・・・ 。
たとえ何時間遅れようが、一度立ったものが着かないなんて。
そんなバカなことがあるもんか!
わたしの心はエンドレステープになって、同じ文句を繰り返していた。
そして
「ね。尚治。おかしいね。尚治・・・」
と寝ている弟に向かってつぶやきかけていた。
尚治は安らかな寝顔をしていた。目を横一文字につむり、平和で安息の表情そのものだった。
暗い滑走路に、機影が一つ近づくたび、だれの目もそれを追った。だが、垂直尾翼のマークが外国のものとわかると、目の光がみるまに消え失せてゆくのだった。わたしもまた、そのたびごとに肩から崩れ落ちた。
飛び立ってすでに五時間・・・。
一時間で着くはずの飛行機がいったいどこをどう飛んでいるというのだ!
空に道草をする場所があるとでもいうのか!
今にも音をたてて崩れそうな心の梁。
わたしは、だれかをつかまえて、八つ当りでもいいから、それをぶつけてみたかった。
××航空の関係者は、わたしたちを前に、すでに加害者のようなかっこうをしていた。だれもが恐縮して、小さくなっている。
アホタレ! そうそう早く決めつけられてたまるか!
・・・と思った。
空港のデジタル時計が「二十三時」を示していた。
一般客の姿は途絶えた。かわりに現れたのは、照明用のライトを高く掲げる者。大きなテレビカメラを肩にのせた者。マイクを片手に持つ者たちであった。
一目で放送局の人間であることはわかったが、身を切られる思いで苦しい時間と闘っているわたしたちに、マイクを向けようとしたレポーターがいた。
何という無神経さ!
有名人のお葬式にきまってあらわれるこの人種は、
「今、どんなお気持ちですか?」
「ご心配でしょうね?」
と紋切り型にたずねてくる。
わたしのところへきたら、蹴飛ばしてやろと構えていた。
わたしの心の乱れに共鳴したのか、尚治が腕の中でぐずりだした。
手はしびれてとうに感覚がなかった。心もバランスを失いかけていた。
尚治がうす目をあけた。ロビーの明かりがまぶしいのか、何度もまばたいていた。
そして、しばらくあたりをうかがうと、自分の家でないことに気がついたらしい。
尚治はわたしの目を見ると、
「おーちゃんは?」
といった。
わたしは笑みをうかべながら、ウソをつかねばならなかった。
「まだ、お仕事よ。帰ってきてないの・・・ 」
尚治は安心したのか、ふたたび眠りにおちた。
0時を過ぎた。
ほとんどの家族が、ロビーに残っていた。
情報が入るまで、動くに動けなかった。かたいイスにすわって待っているしかなかった。
わたしは、成功の見こみがない手術 を受ける患者の家族の気持ちについて考えていた。
緊張と疲れで、何度も意識が遠のいてゆきそうになる。
頭の中では、悲劇に押しつぶされているシーンと、奇跡で気が動転しているシーンとが交互にシミュレートしていた。
腕の中の尚治だけが、父の帰りをいつもどおりに待っていた。
午前二時。
ロビーのテレビに速報が入った。
××県の0山で山火事が発生
現地でヘリが撮影した映像が画面いっぱいに映し出された。それには、山が十字架の形に燃えていた。まるで「火の鳥」みたいだった。
心の中まで黒いケムリが舞い込んでくるようだった。
××県といえば、見当違いの方角である。
ロビーのあちこちから、すすり泣く声が聞こえてきた。
わたしは・・・ 。
わたしは・・・まだ、泣かない。
奇跡を信じた。
そんな馬鹿なことがあるもんか!
と思いつづけた。
わたしは胸の中の尚治を強く抱いていた。
「お父さんはきっと無事よ。絶対にだいじょうぶなんだから・・・ 。ね・・・」
そういって、尚治のおでこに頬ずりした。
空が青みがかってきた。
地球がいつもとかわらず半回転したということだ。
じきに、白い世界がやってくる。
真実が目のまえにやってくる。
身体中が痛んだ。まだ、感じるだけ神経に余裕があるらしい。
尚治は熟睡している。
わたしは、数分間まどろんだ。
耳ざわりな声に目をさますと
「123便は××県0山に墜落したもようです。明け方、自衛隊のヘリが炎上している飛行機と××航空のマークを確認しました。生存者はいないもようです。御遺族の方には慎んで、おくやみを申し上げます・・・ 」
ニュースキャスターが無表情に同じ文句をくりかえしていた。
頭のなかを音のしない風が吹き抜けた。
尚治が目をさました。
「どうしたの?」
「・・・・・・ 」
尚治はわたしを見つめ、悲しそうな顔をした。
「ここ、おうちじゃないの?」
「うん」
わたしはうなずいた。
「おーちゃんは?」
「おーちゃんはね・・・ 」
尚治は眠そうな目をこすりながら何度もたずねた。
「おーちゃんは?」
「・・・・・・」
わたしは尚治を抱きつぶしそうになった。
「おーちゃんね・・・ もう、帰ってこないのよ・・・ 」
「どうして? おーちゃん、どこへいったの?」
尚治は不思議そうな顔をしている。
「おーちゃんの乗っていた飛行機がね・・・ お空の上の天国へ行ったのよ。おーちゃんは死んじゃったの・・・ 」
「ふーん。もう、おうちにかえってこないの?」
尚治は遠く空をみつめると、背伸びして大きくひとつあくびをあいた。
***
O山へ登った。
尚治もいっしょだった。
焦げた地面が見えた。
父の悲鳴が聞こえてくるようだった。
男のくせに恐がりな父だった。ジェットコースターも飛行機も恐いから嫌いだ・・・と、いつも言っていた。
どんなに恐かったことか。どんなに痛かったことか・・・。
しかし、恐怖と苦痛はもう終わった。それが一番わたしを慰めてくれた。
父の右腕だけが、飛び散って見つからなかったという。山のどこかにあるのだろう木の上にかかっているのかもしれない。
父の身体があったというあたりに、小さな墓標を立てた。そこに、花と尚治の手紙をそなえた。そして、三人で遊園地でとった写真も・・・。
前の晩、尚治はクレヨンを握りしめて、覚えたばかりのひらがなを一字一字ていねいに画用紙に書いた。
かみさま
どうしておーちゃん
てんごくにいっちゃったの
ぼくわかりません
でも
ぼくがしんだら
きっとわかるよね
写真の中で、父が笑っていた・・・。
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