『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

備前が好き

2021-04-25 07:02:00 | 音楽
どうも
凝り性なとこがあって、
それが、今月の
プチ・マイブームの
「カツ丼」試食探訪になっている。

土曜の朝方、
漱石の『夢十夜』の
分析を仕事部屋でしてると、
フッと、今日は何処に行くべぇか
と新たな候補地を
探索したくなるので、
病膏肓に入る・・・と、
ひとり苦笑している。

でも、
「○○したい」
という衝動的な欲動は、
反社会的なものでなければ、
個体に備わった本能的な
ノベルティ・シーキング
(新奇探索)欲求なので
出来るだけそれを
満足させてやりたいとは思って
行動に移している。

そうでないと、
人生、何も始まらないし
何も終わらないという
ツマラン事になってまう。

でも、
いつもいつも、
その新奇探索が
いい結果になるとも
限らない。

酷い目に遭うことも
しばしばありがちなのである(笑)。

でも、
それでも、
それをやめないのは、
それが「生きる」という事であるからだ。





・・・てなわけで(笑)、
手仕事を中断して、
そそくさと
「カツ丼探検隊」に
出発した。

目指すは、
爺ちゃん・婆ちゃんの営む
昭和オンボロぼろぼろ食堂である(笑)。

行き付けの
『亀寿司』の裏通りにある
『天山』には、
これまで、ラーメンや
チャーハンで
二度赴いている。

いよいよ、
三度目はカツ丼である。

その威容は
見事なもので、
味の甘辛加減も
ご飯の炊き加減も
まずまずの及第点であった。

ただ・・・
最後の一口になって、
ウッ…ときた。

箸が進まない。

これは、
天丼・カツ丼で
稀にある現象で、
原因はとっくに
究明済みである。

揚げ油の劣化なのである。

大衆食堂では
天婦羅専門店のようには
頻繁に油を換えることをしないので、
厨房をのぞくと
真っ黒なタールのような油で
揚げ物を作っている処が
少なくない。

定期的には
換えてはいるのだろうが、
それに怠りがあると、
揚げ物のクドさ重さに反映されて、
いわゆる「わりーアブラ」に
成り果てるのである。

いつもの
勿体ない精神で、
エーイッと
最後の一口を放り込んだが、
案の定、帰りの車中で、
胃もたれと軽いムカツキを覚えた。

これを
「湯あたり」を捩って
「油あたり」と称している。

帰宅後も
鳩尾(みぞおち)の違和感が
続いたので、
仕方なくナウゼリンを呑んだ。

カツ丼喰って
吐き気止めを呑んだのは、
今月、6店目で
初めてである。

いい味、
いい具合のカツ丼だったが、
油だけが合わなかった。

常連であれば、
「爺ちゃん、たまには
揚げ油とっかえなよー」
と言ってもやりたいが、
なんせ
ヴィジターでしかないから、
ま、しゃーないなー・・・
ってなもんである。

でも、
くどいが
美味しい部類の
カツ丼だったので、
返す返すも
残念である。







前回の二割引きセールで
100円のクーポンをもらったので、
古物店の『オーディン』に寄って
目を付けてた備前の小鉢を
100円引きの230円で買ってきた。

作風から
作家物には違いなさそうだが、
少々、手取りが重く無骨なのと、
緋色が上手く発色しておらず、
ギリ売れる際物に近いかもしれない。

でも、
使いようによっては、
懐石の先付けや
向こう皿として
白身の鯛のお造りなどを
際立たせてくれそうに見えた。

なにより、
手作りの備前が
230円なぞでは
タダ同然である。

水を潜らせてみたら、
見込み(真ん中)には
ちゃんと櫛目と窯変があり、
高台には緋襷(ひだすき)が
走っているので、
鑑賞にも値する。

緑色の胡瓜のお新香なぞも
きっと映えるに違いない。

それをアテに、
備前の徳利とぐい呑みで
吟醸酒をやるのも
いい趣向である。







教え子ピアニストの
イマダケちゃんが、
先日、献呈した曲を
さらっての感想を送ってくれた。

気に入ってくれたようで
何よりであった。

自分も、
今週から始まるY中の
体育館ピアノの"悦ちゃん"で
試し弾きしてみたいと
思っている。

自分で創っといて、
まだ暗譜できずにいるので、
なんだか可笑しく思った。

楽聖とは比較にもならないが、
ショパンがサロン演奏会で
自作自演をする時に


「難しくて弾けないや…」
って、リストに言った事がある、
というのを『音楽史こぼれ話』で
読んだことがあり、
それも何だか可笑しかった。





居間にある
クマの縫いぐるみを見て、
なんで可愛いのかと
よくよく見てみると、
三頭身だからかぁ…と、
今さらのように気付いた(笑)。

リク坊ちゃんの
裸ん坊の姿も
四頭身なので
カワイイのだろう。

"お人形さんみたい"
とは、よく言ったものである。







毎週、朝刊の
日曜版には書評が載るので、
いつもそれを参考にしている。

今回は、
知らない評論家の
『哲学漫想』なる書のコメントが
目を引いた。

3.11では
『3.11を生きる』
『震災を生きる』
『学校臨床の実際』
という三部作を
上梓して、販売もし、
各学校の図書館に
寄贈もした。

そしたら、
今度はまた数百年に一度の
未曾有の世界的感染症の時代に
遭遇した。

これについても、
これから、総括して
これまでのように
ネットで発表するなり、
一書なりとも纏めようと
画策して資料を読み漁っている。

今、毎日の車中で、
東洋哲学の碩学・
中村先生の仏教学の
連続講義のテープ10巻を
何度も繰り返し聴いている。

やはり、
その中心には
「無常」という概念があり、
この現実に対し
「空」の概念を
どうアプリケートされるか
ということに腐心している。

涅槃経では、
「一切衆生 悉有仏性」
(いっさいしゅじょう
しつうぶっしょう)
というのがある。

生きとし生けるものは、
すべて生まれながらにして、
仏となりうる素質をもつ
ということである。

金光教にも、
誰もが神の氏子であり、
生神になれる…
という教祖の言葉がある。

比較宗教学をやっていると、
人類共通の「理法」というのが
最大公約数的にあることが解かり、
それが「真善美聖」という
四文字に収斂される。

その反語が
「偽悪醜邪」である。

共産主義では
宗教を徹底的に
弾圧した歴史があるが、
それは理念・理法に生きよう
という人間は、途轍もなく
強い力を発揮するから、
それを恐れたのである。




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