『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

善の研究

2019-10-18 06:37:00 | 勉強
きのうの朝は
6.7℃だったという。

今朝も負けずに寒い。

電気毛布とヒーターだして
正解、正解!

( ˶˙ᴗ˙˶ ) ヌクヌク

昨晩、
入浴してたら、
前日の検診で採血された時の
血止めの絆創膏が
まだ貼られていたのに気が付いた。

ゆんべも
お風呂でカラダ洗ったのに
それでも剥がれなかったんだなぁ・・・と、
妙なことで感心したが、
そのまんまだとカブレるので
剥がしてから痕を洗った。




風呂に入ると、
嫌でも己が身体のあちこちを
直視することになるが、
いつの間にやら、
右中指のへバーデン結節による
ミューカスシスト(水ぶくれ)が
治っていたの気づいた。

その代わり、
病変のあった処から生えた爪が
昔のトタン屋根のように
波打っていた。

まるで、
ゴルフ場の二段グリーンのように
段差ができていて、
見ようによってはキモチわるいが、
初めてで珍しいので
その触り心地を面白がっている。




きのうは出先で
珍しいタルト屋さんを見つけ、
いくつか買ってきて
3時のティータイムで味わった。

箱から取り出し喰いも
能がないので、
フレンチ用のノワール・プラに
ドレッセして
キャラメル・パウダーを
メレンゲの上に散らしてみた。

コーヒー・カップは
高2の修学旅行で
京都の清水坂で
当時2千円で買った
「清水焼」である。

17才の少年にしては、
ずいぶんと地味好みであるが、
あれから45年近く、壊れもせず、
今尚、愛用している。

あの頃、
まさか、10年後に、
京都に住むようになるなんて
夢にも思っていなかった。



なんだか、
急にオレンジ・リキュールが飲みたくなり、
「やまや」で、
名品の『グラン・マルニエ』と
ドーバーの小瓶を買ってみた。

ついでに、
名品『カルーア』とドーバーの小瓶で、
コーヒー・リキュールの違いを
テイスティングしてみようと思いついた。

封切り直後の大瓶からは、
トクトクトクという
魅惑的なサウンドを伴って
琥珀色のリキュールが
グラスを満たした。

とたんに、
柑橘系のブーケが
鼻先に立ち上がった。

さすがに、
そのコピーに
偽りはないなぁ・・・である。

「永年の時を経て、今なお愛され続けている、
他の追随を許さない唯一無二の名酒『グラン・マルニエ』。
1880年の誕生より変わらない
マルニエ家秘伝のレシピが生み出す
オレンジ・リキュールの最高峰」
・・・だそうだ。

5年以上熟成させたコニャックと
カリブ産のビター・オレンジで
作られている。

「オレンジ・ピールやフローラルな香り」は聞けるが、
「樽熟成からのウッディーな香り」となると、
あるかなぁ・・・という感じだ。

「ヘーゼルナッツや、ミルク・キャラメルの味わいもある」
というのも、
あるかなぁ?・・・と、首をひねった(笑)。

「飲む香水」という褒め言葉もあるが、
それは否定しない。

文字どおり「薫り高い」逸品ではある。

同じオレンジ・リキュールで
国産のドーバー社のものは
善戦しているが、
香りとコクの点で
一歩及ばずという感じだった。

コーヒー・リキュールのVSは、
圧倒的にカルーアの勝ちである。

ドーバー社のものは、
やはりコクと香りの点で、
世界の名品には
二歩ほど及ばなかった。

この機会に、ウィキで、
カルーアの薀蓄を調べてみた。

コーヒーは、
メキシコの高地のアラビカ種を
エスプレッソ方式で抽出させるという。

それに、同じ高地の
サトウキビの蒸留酒を合わせ、
バニラとカラメルを加えて
8週間寝かせるらしい。

「カルーア」というのは、
アラビア語でコーヒーを表す
俗語「カフワ」 (kahua) から来ている。




Eテレの『100分 de 名著』を
毎週、寝室で寝ながら視聴して、
勉強している。

25分×4週なので、
ゆったりペースで
学べるのがいい。

新しい知識や、
それにインスパイアされたことを
システム・ノートに書き込んでいる。

今は、西田幾多郎の
『善の研究』が専門家によって
解かりやすく講釈されている。

原書は読んだこともないが、
番組は100分でその要所が
平易に解かるようになっている。

きのうは
第2回目の「宗教」で、
面白く勉強した。

意外だったのは、
西田哲学の根幹が
ユングの「意識論」に
近似していたことである。

なので、
ユンギャンの河合先生の著書から
「意識の構造」が引用されていた。

「自己実現」も
ユングが説いた
人間の心理的発達の完成と
同義で用いられていた。

自分を深く掘っていくと、
個人的無意識の層から
普遍的無意識の層へと到達し、
人類全体や宇宙、神と
合一するという思想が
「善」という言葉に包含されていた。

それは、
「善悪」の「善」とは
全く以って異なるものであった。

「宗教」の「宗」の字義は、
「ウ冠」が「家」を、
「示」が「神事」を意味し、
〈神事の行われる家屋〉
という意味だそうな。

また、
「大いなるもの」
「大本/大元」
という意味もあり、
「大いなるもの」の「教えること」が、
すなわち「宗教」であるという。

日本人は、
宗教と宗派を混同しているので、
なかなか理解できないそうだ。

中世後期の名画家ジョットが、
ローマ法王に呼ばれ、
目の前で画力を見せてみろ、
と命ざれて「一円相」を
その場で描いた、
というエピソードは面白かった。

これまた、
ユングが唱えた
「曼荼羅」や「ウロボロス」
の深層心理的な意味と通低していた。

西田も円相図を描いて、
「心月孤円光呑万象」
と書している。

心を月や一つの円に喩え、
それは、万象を呑んでいる、
というのである。



「言葉を超えて無限と一つになることが善である」
というのも理解し難いが、
デカルト的な「我思う故に我あり」のように
認識する主体と認識される客体を
分離・切断するようなことはせず、
それ以前の段階である
主・客が相互作用している状態にあって、
現象を純粋に体験することが
「善」と西田は説いた。

リンゴを見て、
「赤いリンゴ」
という認識をしたら、
それはもう「純粋経験」ではない。

そこに、言葉による判断が生じて、
事象を分ける働きが起きている。

その前段階とは、
今ここで、色や形を見る瞬間であり、
認識以前の現在だという。

「赤い」とか「リンゴ」
とに言語化、一般化すると、
その事象の固有の本質や
リアルな姿が失われるのである。

「赤いリンゴ」
と思った瞬間に
みんな同じリンゴになってしまう。

言語化は知性化でもあるが、
何事も言葉で切り取って表現した瞬間に、
切り取る前の「本当はすごい世界」は
失われてしまうのである。

・・・とすれば、
宇宙や神についても、
言語や数式で現せるはず、
と考えているのは
「矛盾」や「誤謬」を孕むことになる。

まだまだ、
西田哲学、理解し難しだが・・・
これらの宗教哲学的な命題を、
また今月の宗教セミナーの話題にして
Tちゃん先生と対話・研究してみたい。
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