同じいのち二つはあらず
それそれみな
空前絶後の尊きいのち
碧水歌
この記事を読み、
毎日逢っていた元気一杯だった
孫の遺体と対面したときの
お祖父ちゃんの痛いほど辛い
胸の内が察せられて涙がこぼれた。
そんな無言の対面が
幾百・幾千とあったのだろう。
仏教では、孫・子に先立たれるのを
「逆縁」といって
愛別離苦の最たるものとしている。
頓知頓才の一休禅師には
こんなエピソードがある。
さる金満家令嬢の婚礼の席に呼ばれ
当家の主人から「何か、めでたいお言葉を」と
色紙の揮毫を請われて
「親死
子死
孫死」
と書いて手渡した。
主人は、あまりの不吉な言葉に
唖然とし立腹もして一休に詰め寄ると
「孫死
子死
親死」
の順番だったらどんなに不幸か
と諭し、主人は畏れ入ったという。
親から死ぬのが「順縁」といって
自然なことで、めでたい、と一休は言う。
***************
昨日は、神道系の慰霊祭に参列し
犠牲者の御霊に玉串を捧げてきた。
祭主から
「神様は天理にはどうしようもない。
人を助けたい、という切なる思いが
神様の願いで、人に罰を与えたり、
苦しめるものではない」
という、お話があった。
「神様=全知全能」かと思っていたら
宇宙的法則や天変地異はどうにもならない
と聞いて愕然とした。
「キリスト教やイスラム教の神様は
いったい何やってるのかね…」
という言葉を、先日、
叔母が溢しているのを聞いた。
瀬戸内寂聴もオウム事件の折
「キリスト教や仏教などの既成宗教は
もはや賞味期限が切れたのかもしれない」
と言っていた。
ほんとうに、このような事態に陥ると
人は「神も仏もない」と言う。
「神も仏もある」ならば、
何故にこんな惨事が起こるのか
と誰しも疑問に思うだろう。
もっとも、仏様・釈尊は
「生病老死」を始めとする「四苦八苦はある」
と認めており、宇宙論的な「なぜ?」には
「毒矢の例え」で戒めを解いている。
すなわち、今、もし毒矢が体に刺さっているとしたら
「生とは何か?」「宇宙とは何か?」などという
根源的・哲学的な問いは役には立たなかろう、
まずは、刺さっている毒矢を抜いて
解毒の手当てをすることが当然ではないか、
というのである。
つまり、苦多きこの世では
苦の根源を問うことは無益で
まずは、その苦と対峙して
難負けしないことこそ大切な生き方である
と説いている。
インドの哲人・タゴールの言葉には
「われ、神に、苦難をなくし給え、とは祈らず。
苦難に負けぬ心を与え給え、と祈る」
とある。
今回、津波被害で辛くも命は助かったが
家屋も家族も仕事も、すべて失った
ある中年女性は
「助かったのがよかったのか、どうか…
わからない」
と言った。
死んだほうが楽だった
と言いたかったのだろう。
テレビやマスコミでは
人が津波に呑みこまれる場面も
遺体が山のように重なっている風景も
伝えはしない。
寒々とした体育館に
整然とならぶ幾百もの棺だけが
報道を通して我われが見ることができる
唯一の「人の死姿」である。
これとて、1万、2万という単位で
並ぶのを目にすることは不可能で
数字にすると、単なる統計でしかないが
そこには1万の人生、2万の人生が
確かにあったのだ。
死ぬもののみが生きてゐるといふ
その通りなり
あたりまえのこと
碧水歌
.
それそれみな
空前絶後の尊きいのち
碧水歌
この記事を読み、
毎日逢っていた元気一杯だった
孫の遺体と対面したときの
お祖父ちゃんの痛いほど辛い
胸の内が察せられて涙がこぼれた。
そんな無言の対面が
幾百・幾千とあったのだろう。
仏教では、孫・子に先立たれるのを
「逆縁」といって
愛別離苦の最たるものとしている。
頓知頓才の一休禅師には
こんなエピソードがある。
さる金満家令嬢の婚礼の席に呼ばれ
当家の主人から「何か、めでたいお言葉を」と
色紙の揮毫を請われて
「親死
子死
孫死」
と書いて手渡した。
主人は、あまりの不吉な言葉に
唖然とし立腹もして一休に詰め寄ると
「孫死
子死
親死」
の順番だったらどんなに不幸か
と諭し、主人は畏れ入ったという。
親から死ぬのが「順縁」といって
自然なことで、めでたい、と一休は言う。
***************
昨日は、神道系の慰霊祭に参列し
犠牲者の御霊に玉串を捧げてきた。
祭主から
「神様は天理にはどうしようもない。
人を助けたい、という切なる思いが
神様の願いで、人に罰を与えたり、
苦しめるものではない」
という、お話があった。
「神様=全知全能」かと思っていたら
宇宙的法則や天変地異はどうにもならない
と聞いて愕然とした。
「キリスト教やイスラム教の神様は
いったい何やってるのかね…」
という言葉を、先日、
叔母が溢しているのを聞いた。
瀬戸内寂聴もオウム事件の折
「キリスト教や仏教などの既成宗教は
もはや賞味期限が切れたのかもしれない」
と言っていた。
ほんとうに、このような事態に陥ると
人は「神も仏もない」と言う。
「神も仏もある」ならば、
何故にこんな惨事が起こるのか
と誰しも疑問に思うだろう。
もっとも、仏様・釈尊は
「生病老死」を始めとする「四苦八苦はある」
と認めており、宇宙論的な「なぜ?」には
「毒矢の例え」で戒めを解いている。
すなわち、今、もし毒矢が体に刺さっているとしたら
「生とは何か?」「宇宙とは何か?」などという
根源的・哲学的な問いは役には立たなかろう、
まずは、刺さっている毒矢を抜いて
解毒の手当てをすることが当然ではないか、
というのである。
つまり、苦多きこの世では
苦の根源を問うことは無益で
まずは、その苦と対峙して
難負けしないことこそ大切な生き方である
と説いている。
インドの哲人・タゴールの言葉には
「われ、神に、苦難をなくし給え、とは祈らず。
苦難に負けぬ心を与え給え、と祈る」
とある。
今回、津波被害で辛くも命は助かったが
家屋も家族も仕事も、すべて失った
ある中年女性は
「助かったのがよかったのか、どうか…
わからない」
と言った。
死んだほうが楽だった
と言いたかったのだろう。
テレビやマスコミでは
人が津波に呑みこまれる場面も
遺体が山のように重なっている風景も
伝えはしない。
寒々とした体育館に
整然とならぶ幾百もの棺だけが
報道を通して我われが見ることができる
唯一の「人の死姿」である。
これとて、1万、2万という単位で
並ぶのを目にすることは不可能で
数字にすると、単なる統計でしかないが
そこには1万の人生、2万の人生が
確かにあったのだ。
死ぬもののみが生きてゐるといふ
その通りなり
あたりまえのこと
碧水歌
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