私的四連休を
何処にも出ずに
おうちバカンスで
まったり過ごしている。
寝室ベッドの足元に
大型テレビが置いてあるが、
最近ではもっぱらYouTubeの
専用モニター化しており、
地上波もBSも視ていない。
マエストロ小澤が
6日に亡くなったので、
まだ一週間経っておらず、
その軌跡を辿るべく
若い頃の映像なぞを
日がな一日、視聴していた。
若い頃は
スマートで精悍で、
どこか倅の征悦氏に似ている。
若い頃の
刺すような鋭い目線と
全身から繰り出すパワーで
オケをぐいぐいとドライヴし、
そして存分に歌わせる。
ギターという器楽奏者にとっても
その音楽造りは
大いに参考になり、
「歌わせる」とは
どういうことかを解らせてくれる。
なので、
彼の対談集なぞも
ずいぶんと読んで、
音楽とは何かについても
考えさせられた。
再来月に
能登の復興支援を冠して、
コンサートを行うが、
人に感動を与える演奏とは
どうあるべきか・・・と、
あらためて真剣に考え考え
稽古に取り組んでいる。
昨晩は、
今までの練習譜面では
曲の本質を表現しきれないと思い、
新たな白譜に浄譜も兼ねて
編曲を見直した。
今日は、その作業の継続の為に、
近所の文房具店まで、
新たな消しゴムと「5B」の鉛筆を
買いに行くつもりである(笑)。
***
最近、国際政治学者の
伊藤寛氏から、
「religional divinity」
(宗教的神性)
と
「philosophical divinity」
(哲学的神性)
という言葉を聴いて、
なるほど・・・と、思わされた。
後者は
「真善美」に依拠する
行動原理だという。
世界支配を目論む
グローバリストたちは
そのどちらもなく、
まさに
「今だけ・金だけ・自分だけ」
という非人間的・悪魔的な
所業を画策しているという。
世界を「民主化」するという
大義名分のために
他国に紛争・戦争を引き起こし
軍産複合体からのキックバックに
懐を富裕化させている
ワシントンDCの悪党たちは
まさにそれであるという。
その出先機関が
米大使館で、総督が
大使のエマニュエルらしい。
なので、その手先の自民党が
裏金問題で腐敗しているのは当然で、
歴史家のモーガン氏によれば、
日本政府は「ミニ・ワシントンDC」
だという。
これまでの
バチカンの蛮行も
聖職者たちの性暴力と共に
暴かれはじめ、
かつて、世界布教といいつつ、
その後に軍隊が送り込まれ、
植民地化されてきた国々が
今や、それに「No!!」を突きつけ、
BRICS+αに続々と集結している。
日米同盟・安保条約というのは、
日本を属国化させるためのもので、
今の政権を見る限り、
「親米」を通り越して
「拝米」「隷米」化している。
今月、日本で開かれる
ウクライナ復興支援会議なぞは、
金のなくなった欧米の代わりに
日本をATMマシーンのように
金を引出そうとしているのが
見え見えである。
ウクライナの現政府は
米国務省のヌーランドが
クーデターを起こさせて作ったもので、
その政権内では
ウイルス兵器開発やら
人身売買、マネーロンダリングなど
数々の汚職と不正に塗れている。
ここにおいても、
宗教的・哲学的いずれの神性も
垣間見ることは出来ない。
**
日本の新興宗教界も
池田大作の死去、
大川隆法の死去で、
その土台が揺らいでいると聞く。
かつて、オウム真理教という
カルト集団が
テロ事件を起こして、
関係者13名が死刑になった。
今も、世界では
宗教の名のもとに
無益で愚かな紛争・戦争により
無辜の民の幾万という命が
奪われている。
無慈悲なグローバリストは、
真の信仰者ではなく、
自分に都合のよい似非信仰者で、
同時に、拝金主義者、
物質主義者でもある。
オウム事件以来、
日本人の一部には
宗教アレルギーを持つものが
少なくないが、元々、日本人は
「八百万の神」を崇める
多神論的な原始的宗教性を
縄文の頃から抱いている
民族なのである。
*
教育基本法「第15条」には、
「宗教に関する寛容の態度、及び、
宗教の社会生活における地位は、
教育上これを尊重しなければならない」
とあり、
続けて
「 国及び地方公共団体が
設置する学校は、
特定の宗教のための宗教教育
その他宗教的活動をしてはならない」
とある。
・・・とはあるものの、
仏教やキリスト教に
帰依・折伏させるためではなく、
釈尊の教えやイエスの教えで
「真善美聖」に適った
哲学的な神性・宗教性を
醸し出すために
弥勒菩薩や地蔵菩薩、聖母子などを
あえてカウンセリング室内に
飾ってある。
セラピストの経験則に
【癒されても治らない
治っても助からない】
というのがある。
実際のケースとして、
不登校は治ったが、社会人になって
自死したり、
鬱病は寛解したが、社会人になって
自死した・・・
という不幸な事もあった。
本来、医療や心理療法は、
その時の「主訴」が軽減・改善すれば
それでいいのだろう。
だが、しかし・・・
セラピーの究極の目的が、
「人の助かり」である為には、
どうあるべきか・・・
ということを
我が身の鬱病や心身症を
「当事者研究」的に自己分析してきた。
そこから得られた事柄は
具体的な言葉や行動の処方箋となり、
今、目の前で
難儀に苦しむ子たちが、
将来にわたって助かる
「哲学的神性」として
伝えられているように思っている。
それは、中村元先生が
力説されていた
インド哲学における
「理法」のようなものでもある。
単なる
臨床心理学的な知識や
数多の心理療法的なスキルを超えて
人間全体の救いを見る時に、
そこには特定宗教ではない
まさに形而上的な「神性」の
必要性が重要である事に気付いた。
ようやく、66歳にして、
自己実現の究極の目標としてきた
《プシコポンポース/ Psychopompos》
(魂の導師)
の姿が見えかけてきた。
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