私が大学3年になるとき、明治の頃から百年以上も市街地にあったキャンパスが二駅も離れた郊外の山中に移転した。
今思えば、広々とした真新しい近代的キャンパスで大学の半分を送れたのだから、それはラッキーだったのかもしれない。
キャンパス周囲はすべて緑にかこまれていたのは言うまでもないが、モダンな建物の合間には、かつての原生林を小さな林にして箱庭のように添景として残されていた。
中でも、ひときわ巨大な建物の図書館前には、それに見合うほどの広大な林があった。
そして、その林の中には、今もって三体の石の地蔵がひっそりと手つかずのまま安置されている。
私は4年生のとき、ギター部の部長となった。
梅雨時のある晩。
コンパの二次会から分散して4年のタカちゃんという女の子のアパートに三次会まで残った私を含めて七人が入り乱れてあがりこんだ時のことだ。
ふだんは寡黙な2年のWが、何かに怯えるような口ぶりで私に言った。
「ねぇ・・・Sさん。
俺、もしかすっと、死ぬかもしれません・・・」
突然のただならぬ物言いに酔ってゲラゲラ笑い合っていた者たちも
「エッ?」
と一瞬、驚いたようにWの顔をのぞきこんだ。
そして、ひょうきんな3年のYが眠そうな目で、からかうように
「おまえ、酔ってんだろ・・・」
と言った。
Wは頭に「馬鹿」がつくほどの真面目な男だったので、Yでなくともそう言いたくなる気はした。
私は頬の片側だけ笑ってみせてその先を促した。
「知ってますかSさん?
図書館の林んなかにあるお地蔵さんを・・・」
「エッ?」
私は移転して間もない広大なキャンパス内の隅から隅までは、とても知り得てはいなかった。
「あるのか? そんなん・・・」
「ええ・・・」
Wは真顔で言った。
「三体の石地蔵なんです・・・」
時計の針は1時をまわっていた。
Yは酔いも加わってマナコ半眼となりコックリしかけてはまたフッと正気に返ったりしていた。
「それがどうしたんだ?」
私が訊いた。
Wは言葉をどこかの虚空からたぐり出すかのようにポツリぽつりと語りだした。
「俺と同じ学部で、タメの二人がいたんですけど・・・。
いい年こいて、林んなかを探検しようということになって、偶然に、お地蔵さんを見つけたんです」
「ふーん・・・。で?」
「ほんで、一人が、たまたまカメラ持ってたんで、お地蔵さんを入れてフザケた写真を何枚か撮ったんです」
「どんな?」
Wはちょっと気まずそうな表情を見せた。
「いろいろと、悪ふざけして・・・
お地蔵さんをいじりまわすような・・・」
「ああ・・・なるほど」
「先月、新聞にF大生がバイクで事故った、っていう記事が載ったでしょ・・・」
「ああ、知ってる。
たしか2年子だろ・・・死んだの」
「はい・・・」
Wはほんの少し間をあけてから、吐き出すように言った。
「あいつが写真撮ったんです・・・」
「ほぉ・・・。そうなんだ・・・」
聞き耳を立てていた副部長のI子がヒザをのり出してきてWの眼をのぞきこんで言った。
「それで?」
私もつづけて訊いた。
「んで、どーした?」
「・・・・・・」
話が不自然にフツリと切れた。
「それで、どーしたのよ?」
I子がせっつくように訊いた。
「こないだ、もうひとりのタメが、夜中に急に苦しみ出して・・・。
寮から救急車で医大に運ばれたんですけど、次の日に、劇症肝炎とかいうので死んだんです・・・」
「エ~ッ!? 知らないわよ~! そんなの・・・。
聞いてないわよ・・・」
I子がマジに驚いたふうだった。
「ウソじゃないですよ・・・」
Wの眼がキラリと光ったので、真面目なこの男が我々酔っぱらいをかついでいるとも思えなかった。
「新聞なんかには出ませんでしたから・・・」
「ホントかよぉ・・・」
コックリコックリやりながらも束の間、正気に戻ったYが酔った口調でツッコミを入れた。
Wはすかさず部屋の片隅におとなしく座っていた1年生で寮生のT郎に眼線をやった。
「なッ・・・。
こないだ、あいつの部屋で寮葬やったよな・・・」
物静かで気の弱そうなT郎は半泣きのような笑みを浮かべてコクンとうなずいた。
「マジなんだ・・・」
I子はすこしばかり蒼ざめた顔でYと私の顔を交互に見比べた。
「そんで、おまえ、何ビビッてるんだ?!」
私はズバリ訊いてみた。
解ってはいたことであるが・・・。
「だって・・・」
酔いの力を借りるかのようにWは本音を吐き出した。
「次は、俺かもしれないじゃないですか・・・」
部屋なかには七人もいたのに一瞬、シンと静まりかえった。
もはや眠気がすっかり吹っ飛んだようなYが座をとり繕うとして
「おめぇ、考え過ぎだって・・・。
そりゃ、偶然だろうよ!
偶然だって・・・」
と言ったが、それは嫌な気分を自ら打ち消したいようにも見えた。
Wの眼は猛獣に狙われた小鹿のように怯えていた。
タカちゃんとI子、私の4年生3人組は、なんだか重苦しい気分になって、いたたまれなかった。
心理学科のタカちゃんが訊いた。
「W君さぁ・・・。
そのお地蔵さんと二人が死んだのって、何らかの因果関係があると思い込んでるの?」
Wは返事するかわりに潤んだ眼でうなずいた。
その時だった。
それまで黙っていたもう一人の1年子のM香が口を開いた。
「あの・・・。
わたし、地元の小学校だったんで、聞いたことあるんです」
「何をッ?」
Yがちょっとイラついたような口調で切りかえしたのでM香は遠慮がちに済まなそうに話した。
「今、キャンパスのあるあたりは、昔、刑場だったんで、罪人がおおぜい首を刎ねられたらしいんです・・・。
死んだお爺ちゃんから聞いたんですけど・・・」
「うん・・・。それでッ?」
Yは引きつった笑いをムリに作って唇を噛んで乱暴に訊いた。
「それで・・・。
今、駅になってるあたりの戸矢村の人たちが死んだ罪人たちが村に祟るのを恐れて、慰霊のためにって、安政の頃に、三体のお地蔵さんを奉ったらしいんです・・・」
「・・・・・・」
突然のM香の因縁話に誰もが言葉を失った。
「知ってた?」
I子がWの顔を伺いながら尋ねると、彼はプルプルと小刻みに頭を振った。
「あれ、首切り地蔵・・・って、言うんです」
M香のその一言で、蒸し暑かった部屋の空気がいっぺんに下った。
私も思わず背中がゾクリとした。
しばらくして、Wがうなだれてしまっているのに気づいた。
「大丈夫だって!・・・
Wさぁ・・・。話はハナシだって・・・」
と私は何だかちっともワケのわからない慰めを言っていた。
タカちゃんもすかさずフォローを入れてくれた。
「もう・・・。M香のおバカ・・・。
先輩ビビらして、どーすんのよ!」
とわざと明るく言った。
1年子のM香は4年のお局様にそうたしなめられると素直にショボンとなった。
でも、誰もがM香がウソ話をしたとは思ってはいなかった。
それから1週間ほどして、大学は夏休みに入った。
市街から離れた山あいにあるキャンパスは夏休みで子どもがいなくなった学校のようにさみしくひっそりとしていた。
私はまだ日の高い夕方の5時頃に、ひとっ風呂浴びると無精ヒゲを剃って就活用に買った薄地のリクルートスーツをピシリと着込んだ。
幸い家人は誰も帰っていなかったので、そのような奇行を問い質すものもいなかった。
私は愛車のクーパーミニの助手席に愛器のサントス・エルナンデスを乗せると市街に向かう帰宅ラッシュの車とは逆行して郊外の大学キャンパスに向かった。
それは、あのコンパの翌日から決行しようと密かに心に決めていたことだった。
図書館裏の駐車場にミニをとめ、黒いギターケースをひっぱり出すと、私は、ムンッ! ・・・と、ひとつ自分に気合を入れてみた。
そう・・・。
これから向かうのは、あの林のなか・・・。
M香の言った「首切り地蔵」の処だった。
夏の夕方は明るいとはいえ、昼でも仄暗い林のなかは、あの一連の話を聞いてからは決して快いものではなかった。
それは、怖がりのやつなら絶対ありえない行動かもしれない。
いくら理系の自分でも、神も仏も、悪霊も祟りも100%否定しているワケではなかった。
だから、まったく気味悪くないといえばウソになるだろう。
でも、なぜだろう・・・。
自分を行動に押し出すモティヴェーションはいったい何処から来るものなのか見当がつかなかった。
今でこそ、すこしは解る気がしている。
そう・・・。
あの時のWの生きた心地がしないような生気のない哀れな顔が、先輩として、部長として、あまりにも不憫だったのであろう。
それはちょうど映画『デッドマン・ウォーキング』での処刑前の死刑囚を間近に見たような教誨師のような心境だったかもしれない。
私の姿は、例えるなら『エクソシスト』に出てくる悪魔祓いのメリン神父のようだったかもしれない。
黒装束でこそなかったが・・・。
首切り地蔵はすぐに見つかった。
誰が巻いたのか、赤いヨダレかけをしていた。
そして、花が手向けられていて、線香の燃えカスがあった。
地元の古老たちが未だに信仰しているのかしらんと私は訝しく思った。
とりあえず、ケースを下ろすとギターを取り出した。
お地蔵様から少し離れたところに大きめの自然石をみつけた。
それは腰を下ろして演奏するにはおあつらえ向きの大きさだった。
私は、三体のお地蔵様の前に襟を正して進むと、直立して深々と礼をした。
「このたびは、わたくしの不詳の後輩めが大変なご無礼をいたしまして、まことに申し訳ございませんでした。
さぞや、ご機感を損ねられた事でございましょうが、何も存知ませぬ凡夫の振る舞いゆえ、なにとぞお許しいただけますよう心よりお願い奉ります。
つましては、彼らに成り代わりまして御霊(みたま)様への慰霊演奏をさせていただきますので、どうぞお聞き届け下さり、みこころ穏やかになられますよう重ねてお願い申し上げます・・・」
と、こんなようなことを言った。
そして、石に腰を下ろすと眼を閉じて、子どもの頃から数千回は弾き続けてきただろう『アルハンブラの想い出』という名曲を渾身の想いを込めて演奏した。
時間にして5分ほどであったろうか。
再度、三体のお地蔵様に対して深々と一礼して、くれぐれもWをお許しを・・・と乞うた。
私は不思議と清々しい気分でキャンパスを後にした。
それから、9月に入ってのある日。
休み明けの学食で、私はクラスメイトのE子ちゃんに呼び止められた。
「あら、S君。久しぶり。元気だった?」
「おお・・・」
「ずいぶん前だけど、夏休みに入ってすぐだったけど、わたし見たのよS君のこと・・・」
「エッ? どこでー?」
「あのさぁ・・・。
なんか、おかしな処でギター弾いてたでしょ・・・。
わたしさぁ、ちょうど図書館の2階の奥の閉架庫にいたのね。
そんで、たまたま窓の下見たら、偶然、S君が林んなかにいるじゃない。
何してんだろー、あの人? あんなとこで? って、思ったの・・・。
しかも、まわりにさ、盆踊りでもないのに仮装行列みたいな白いゆかたみたいな着物きた人がウロウロしててさ・・・。
なんだか、おかしな光景だったわよ・・・」
私は、ドキンとして、とったばかりのトレイをおっことしそうになった。
「まわりに誰がいたって?・・・」
「さぁ?・・・。
なんだったの?
あの人たち・・・。
グルッとS君のまわり取り巻いてたけど・・・」
「白いゆかた? 着物みたいな?」
「うん・・・。顔んところに白い布つけて・・・」
「何人も?」
「そうよ・・・」
それは時代劇や劇画で見る罪人の死に装束そのものだった。
私は半袖から出てた腕全部に鳥肌が走った。
あれから数十年も経つが、Wは今も生きている・・・。
*