極端なまでの非合理が死人を生かす

 「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)

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 「およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認め」るアブラハムのこの認識は合理的な思考に基づいている。
 しかしそれでもアブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」という非合理を貫き通す。
 たしかに人間は合理的に考え、そのことによって近代の物質的繁栄がもたらされた。自然科学は輝かしい近代の大看板であり続けている。
 人体のはたらきはその自然科学によってかなり分かってきて、私たちは診断や治療により治癒するということを通して、その合理性の恩恵を受けている。

 ところが、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)ことについて、つまり生ける死人をよみがえらせることについては、我々の合理的思考は全く歯が立たない。
 彼ら生ける死人にとって最も必要なことは、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」という非合理、それも極端なまでの非合理なのである。
 そうしてよみがえった人は、いのちあふれる生を生きるようになる。
 このいのちとは、いつのまに塞がれていた水源のその塞ぎをイエスが取り去って、勢いよくほとばしるようなものである。
 私は日頃は理屈を突き詰める仕事をしているが、非合理性がもたらしたこのほとばしりが私を豊かに生かしている。

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[一版]2021年 7月24日
[二版]2024年 1月14日

 イエス様の平安がありますように!

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