イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))

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 私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。
 私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。
 ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。
 その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。

 では、イエスに下された神の大義、平たく言うと罰は、私の罪への罰を身代わりに受けたものなのであろうか。
 言い換えると、イエスが私の代わりに罰を受けたというので、無罪放免となった私はイエスをありがたがっているのでだろうか。
 しかしこれでは私はバラバではないか。無罪放免されたあのバラバはイエスとは関係はなく、イエスを信じてなどいなかった。
 私がイエスを信じる信仰をもつのは、イエスが私に会ってくれたからだ。
 私への罰は、イエスの十字架と同じように私に死をもたらしたし、そしてこのイエスは私をよみがえらせた。そうして御父が和解してくださり罪赦されたのである。
 私の願いや思惑などとは関係なしに神の大義に基づいて事は起こったのであるから、信じるというよりも信じさせられたのであり、信仰は持つものではなく持たされるものであった。

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[一版]2021年 7月11日
[二版]2024年 1月 6日

 イエス様の平安がありますように!

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