イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
成長痛
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)
---
俗に成長痛という言葉がある。あるいはもう死語かもしれない。
しかし実際のところ、私たちは傷ついたとき、そしてそれを乗り越えることによって成長してゆく。
上の聖書箇所では、このことを「希望」といっている。
こういう苦難とは無縁に見える人がたまにいるが、かえって気の毒というか、御父から見捨てられているのかと思うほどだ。しかし、このような人もまた、人知れぬところで苦しんでいるような気もする。
なにしろ御父の愛は、十字架のイエスによってすべての人に明らかにされたのだ。
この愛はイエスを信じる私たちに、内住の聖霊として宿り続けている。
この内住の聖霊が、私たちを愛するが故に成長痛へと導いている。
---
[一版]2019年 9月16日
[二版]2024年 1月21日
イエス様の平安がありますように!
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この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)
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俗に成長痛という言葉がある。あるいはもう死語かもしれない。
しかし実際のところ、私たちは傷ついたとき、そしてそれを乗り越えることによって成長してゆく。
上の聖書箇所では、このことを「希望」といっている。
こういう苦難とは無縁に見える人がたまにいるが、かえって気の毒というか、御父から見捨てられているのかと思うほどだ。しかし、このような人もまた、人知れぬところで苦しんでいるような気もする。
なにしろ御父の愛は、十字架のイエスによってすべての人に明らかにされたのだ。
この愛はイエスを信じる私たちに、内住の聖霊として宿り続けている。
この内住の聖霊が、私たちを愛するが故に成長痛へと導いている。
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[一版]2019年 9月16日
[二版]2024年 1月21日
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