イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
互いに愛し合う
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:9-12)
---
「父の戒め」とは律法のこと。
イエスは肉を持つ神であり、その肉は人とは異なり、律法を守り通すことができる罪のない肉である。
上にイエスが言うように、罪がないということは、それ自体喜びになる。
そのイエスは、私たちに戒めを与える。「あなたがたも互いに愛し合うこと」。
「愛すること」ではなく、「互いに愛し合う」である。
「愛する」とは何かというのもあるが、「互いに」とあるので、相手あってのことなのである。
一番弟子を自認するペテロがそのことを笠に着ていたとして、そのことにマタイが腹を立てていたら、もう、そこでペテロとマタイとの間には「互いに」は成立しなくなる。
イエスの戒めはとても難しい。
私事になるが、数年前、ある少人数の宴会で、ひどい目に遭った。詳細は省略する。
ちなみに、ああいうのをマウンティングというとは、随分後で知ったことだ。
そのとき私は、彼らに何一つ言い返したり怒鳴ったりはしなかった。
うわっつらだけのかわいそうな人たちだなあと、むしろ彼らを憐れんだ。
それで、彼らの衒学的で突っ込みどころ満載の話を、あえて突っ込むことなく終わりまで聞き続けることにした。
この日のことは今でも傷になっている。彼らはまるで私を愛そうともしなかった。
だが、上の聖書箇所を今朝読んでこの日のことを思い出し、自分はこの人たちを精一杯大切にし、愛したんだなあという気になってきた。「互いに」ではないが、自分は相手を愛した。
そしてそうしたのは、私などではなく、内住の聖霊なのだろう。私は怒りっぽいので、取っ組み合いになってもおかしくなかった。
律法を遵守することは、イエスによる救いのためである。
なぜなら、律法がなくては何が罪なのか、なぜ自分が神の御前に罪深いのかが分からないからである。自分の罪深さをわかることこそ、救いのスタートラインである。
互いに愛せないというのは、相手がどうあれ私の罪なのである。そうであっても御父の赦しと和解の中にいるので、喜びがある。
しかし、上に書いた彼らは、神も律法も知ろうとはしない。
そういう人々にはこのイエスの喜びはなく、代わりに、人を傷つけたりマウンティングしたり、そういう刺激で自分をごまかしている。
どちらがいいのかは、自分が判断することではない。
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健やかな一日をお祈りします!
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もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:9-12)
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「父の戒め」とは律法のこと。
イエスは肉を持つ神であり、その肉は人とは異なり、律法を守り通すことができる罪のない肉である。
上にイエスが言うように、罪がないということは、それ自体喜びになる。
そのイエスは、私たちに戒めを与える。「あなたがたも互いに愛し合うこと」。
「愛すること」ではなく、「互いに愛し合う」である。
「愛する」とは何かというのもあるが、「互いに」とあるので、相手あってのことなのである。
一番弟子を自認するペテロがそのことを笠に着ていたとして、そのことにマタイが腹を立てていたら、もう、そこでペテロとマタイとの間には「互いに」は成立しなくなる。
イエスの戒めはとても難しい。
私事になるが、数年前、ある少人数の宴会で、ひどい目に遭った。詳細は省略する。
ちなみに、ああいうのをマウンティングというとは、随分後で知ったことだ。
そのとき私は、彼らに何一つ言い返したり怒鳴ったりはしなかった。
うわっつらだけのかわいそうな人たちだなあと、むしろ彼らを憐れんだ。
それで、彼らの衒学的で突っ込みどころ満載の話を、あえて突っ込むことなく終わりまで聞き続けることにした。
この日のことは今でも傷になっている。彼らはまるで私を愛そうともしなかった。
だが、上の聖書箇所を今朝読んでこの日のことを思い出し、自分はこの人たちを精一杯大切にし、愛したんだなあという気になってきた。「互いに」ではないが、自分は相手を愛した。
そしてそうしたのは、私などではなく、内住の聖霊なのだろう。私は怒りっぽいので、取っ組み合いになってもおかしくなかった。
律法を遵守することは、イエスによる救いのためである。
なぜなら、律法がなくては何が罪なのか、なぜ自分が神の御前に罪深いのかが分からないからである。自分の罪深さをわかることこそ、救いのスタートラインである。
互いに愛せないというのは、相手がどうあれ私の罪なのである。そうであっても御父の赦しと和解の中にいるので、喜びがある。
しかし、上に書いた彼らは、神も律法も知ろうとはしない。
そういう人々にはこのイエスの喜びはなく、代わりに、人を傷つけたりマウンティングしたり、そういう刺激で自分をごまかしている。
どちらがいいのかは、自分が判断することではない。
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