混同

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
……
 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)

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 しばしば、イエスはあわれみ深いお方で、と語られたり讃美されたりする。
 だが、肉のイエスのそのような性質ばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。
 イエスのありがたみは、なんといっても「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にある。
 罪なき肉をもつ神の子イエスが、全人類の肉の処罰のためにいけにえの十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 このイエスの十字架と復活に預かると、私たちはイエス同様死んで、そしてよみがえって義と見なされる。御父との和解が成立し、助け主が内住してくださる。
 だから、世に来たイエスがこの世から去ることは、私たちにとって大きな益なのである。

 もちろんイエスはあわれみ深かったろうと思う。
 もし、このあわれみに重心を置くとすれば、いたぶられ苦しんで死んでいくイエスを嘆くばかりになってしまうだろう。
 しかし、死にゆくイエスと、世を去ったイエスとでは、どちらの方が私たちにとって有り難いだろうか。
 死にゆくイエスはプロセスであり、世を去ったイエスは救いの道を拓いたという結果である。
 私たちは一体、歴史上の人物をあわれみたいのだろうか、それとも、救いを得たいのだろうか。

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[一版]2011年 4月23日
[二版]2014年 9月27日
[三版]2017年 6月11日
[四版]2019年 3月22日(本日:聖書箇所変更)

 健やかな一日をお祈りします!

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