イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエス復活
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)
---
イエスの復活。
11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。
かつての私には、この復活の仕方が不思議でならなかったことがある。
エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば、皆がイエスを信じるのではないか、そう思っていた。
しかし現実には、11人の弟子たち、それから数人の女性たちにのみ、復活のイエスは御姿を現す。誰にもかれにも会われるのではなく、特定の限られた人々にのみ会われた。
今の私は、このことに違和感を感じていない。すべては恵みなのだ。
さて、聖書において、十字架の死と復活とは必ずペアである。
死んでこそはじめて生きる。
ここでいう十字架の死とは、極刑の罪を処理することである。
そして、復活のイエスが会ってくださり罪赦されて、イエス同様復活する。
このイエスの狭い道は、誰もが見いだせるものではなく、それどころか見いだすというよりもいつの間に吸い込まれてしまう類のもので、自分の力でどうこうなるものではない。
しかし求めれば与えられるものであるから、そもそも罪とは何か、御父は私の中の何を罪深いと糾弾し続けるのか、このことから始めよう。それが「悔い改めよ」(マタイ4:17)というイエス宣教の最初のことばの意味である。
御子イエスは、事を成し遂げた。
救いの道がここに開かれたのである。
このイエスに信頼する者は報われる。
---
[一版]2014年 2月16日
[二版]2016年11月27日
[三版]2018年 8月20日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)
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イエスの復活。
11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。
かつての私には、この復活の仕方が不思議でならなかったことがある。
エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば、皆がイエスを信じるのではないか、そう思っていた。
しかし現実には、11人の弟子たち、それから数人の女性たちにのみ、復活のイエスは御姿を現す。誰にもかれにも会われるのではなく、特定の限られた人々にのみ会われた。
今の私は、このことに違和感を感じていない。すべては恵みなのだ。
さて、聖書において、十字架の死と復活とは必ずペアである。
死んでこそはじめて生きる。
ここでいう十字架の死とは、極刑の罪を処理することである。
そして、復活のイエスが会ってくださり罪赦されて、イエス同様復活する。
このイエスの狭い道は、誰もが見いだせるものではなく、それどころか見いだすというよりもいつの間に吸い込まれてしまう類のもので、自分の力でどうこうなるものではない。
しかし求めれば与えられるものであるから、そもそも罪とは何か、御父は私の中の何を罪深いと糾弾し続けるのか、このことから始めよう。それが「悔い改めよ」(マタイ4:17)というイエス宣教の最初のことばの意味である。
御子イエスは、事を成し遂げた。
救いの道がここに開かれたのである。
このイエスに信頼する者は報われる。
---
[一版]2014年 2月16日
[二版]2016年11月27日
[三版]2018年 8月20日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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神の子を何によって認めるか
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。」(マタイ27:50-54)
---
肉の死の苦しみをごまかさずに受け止めて、イエスは息を引き取った。
神殿の幕は裂け、地震が起き、岩が崩れる。
墓から死人が生き返る。
百人隊長達は言った。「この方はまことに神の子であった」。
しかし、彼らがそう言ったのは、イエスの死によって様々の恐ろしいことが起こったからである。
それは、菅原道真が死んで祟りが起こったので今度は天神様として信仰したというのと同じことであり、実際にイエスが神の子だと分かったわけではない。
(菅原道真について、こちら。)
つまり、イエスが神の子であるということを何によって認めるか、という、信仰の根本が問われるのである。
百人隊長達はイエスを信じてなどいないので、彼らなりの認識でいい。
こののちイエスは復活して、ごく一部の人々、弟子にお会いになられた。
その後も、イエスを待ちわびる人々の多くに、戸の外に立って叩いて訪れ続けている。
私たちはこの復活のイエス、訪れて出会って下さったイエスを信じているのである。
地震が起こったから信じるのではなく、会って触れ合い「いのち」を与えてくださったから信じている。
それは、聖書のたった一節によってである。
イエスがその人その人に応じて与えて下さった「いのち」の一節だ。
今まで意味が分からなかったその一節が突然輝きだし、輝いたその一節によって全体が解き明かされる。
死んでいた私たちが、イエスに続いて復活したのである。
このことは、アウグスティヌスの「告白」にも記されている。
私たちは、肉を処理した復活のイエスに出会った、ということによって、イエスを神の子として信じている。
---
[一版]2010年10月10日
[二版]2016年11月23日
[三版]2018年 8月19日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。」(マタイ27:50-54)
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肉の死の苦しみをごまかさずに受け止めて、イエスは息を引き取った。
神殿の幕は裂け、地震が起き、岩が崩れる。
墓から死人が生き返る。
百人隊長達は言った。「この方はまことに神の子であった」。
しかし、彼らがそう言ったのは、イエスの死によって様々の恐ろしいことが起こったからである。
それは、菅原道真が死んで祟りが起こったので今度は天神様として信仰したというのと同じことであり、実際にイエスが神の子だと分かったわけではない。
(菅原道真について、こちら。)
つまり、イエスが神の子であるということを何によって認めるか、という、信仰の根本が問われるのである。
百人隊長達はイエスを信じてなどいないので、彼らなりの認識でいい。
こののちイエスは復活して、ごく一部の人々、弟子にお会いになられた。
その後も、イエスを待ちわびる人々の多くに、戸の外に立って叩いて訪れ続けている。
私たちはこの復活のイエス、訪れて出会って下さったイエスを信じているのである。
地震が起こったから信じるのではなく、会って触れ合い「いのち」を与えてくださったから信じている。
それは、聖書のたった一節によってである。
イエスがその人その人に応じて与えて下さった「いのち」の一節だ。
今まで意味が分からなかったその一節が突然輝きだし、輝いたその一節によって全体が解き明かされる。
死んでいた私たちが、イエスに続いて復活したのである。
このことは、アウグスティヌスの「告白」にも記されている。
私たちは、肉を処理した復活のイエスに出会った、ということによって、イエスを神の子として信じている。
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[一版]2010年10月10日
[二版]2016年11月23日
[三版]2018年 8月19日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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祈りについて
「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)
---
祈りについて。
公生涯において、イエスは実にしばしば祈っていた(たとえばマタイ14:23ほか)。
何を、または何について祈っていたのだろうか。
そもそも祈りとは何だろうか。
この日本においては、祈りというと初詣や厄除けの類のものが祈りであると思われている。
つまり、家内安全、商売繁盛、無病息災のお願いの類であり、神(神々)はこういった御利益をかなえてくれる便利な存在なのであるから、神よりも人の方が上に位置してしまっている。
しかし聖書の神は、そのような御利益の神という感覚とは全く違う。
神が私をお造りになったのであるから、神が絶対的な上位にある。
ところが、アダムの違反によって、この神と人間との間が断絶してしまった。
イエス・キリストは、その断絶を回復するために来られ、そしてその御業を完成させようとしている。
その神の子イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と声を上げる。
御子が御父と断絶されてしまったことにひどく苦しんでいる。
つまり、ほんとうにひとりぼっちの境遇におかれてしまった。
祈りが通じないのである。
このことを裏返すと、祈りとは御父と共にある、そういう営みである。
私が祈るときに、私がどんな境遇にあっても私はひとりぼっちではなく、自分をお造り下さった存在の庇護のもとにある。
私を決して否定せずに私を愛してくださる。
それはイエスが十字架上で御父との断絶に苦しみつつも赦しの道を開いてくれたので、このような祈りの関係が回復したのである。
---
[一版]2014年 2月 2日
[二版]2016年11月20日
[三版]2018年 8月18日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)
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祈りについて。
公生涯において、イエスは実にしばしば祈っていた(たとえばマタイ14:23ほか)。
何を、または何について祈っていたのだろうか。
そもそも祈りとは何だろうか。
この日本においては、祈りというと初詣や厄除けの類のものが祈りであると思われている。
つまり、家内安全、商売繁盛、無病息災のお願いの類であり、神(神々)はこういった御利益をかなえてくれる便利な存在なのであるから、神よりも人の方が上に位置してしまっている。
しかし聖書の神は、そのような御利益の神という感覚とは全く違う。
神が私をお造りになったのであるから、神が絶対的な上位にある。
ところが、アダムの違反によって、この神と人間との間が断絶してしまった。
イエス・キリストは、その断絶を回復するために来られ、そしてその御業を完成させようとしている。
その神の子イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と声を上げる。
御子が御父と断絶されてしまったことにひどく苦しんでいる。
つまり、ほんとうにひとりぼっちの境遇におかれてしまった。
祈りが通じないのである。
このことを裏返すと、祈りとは御父と共にある、そういう営みである。
私が祈るときに、私がどんな境遇にあっても私はひとりぼっちではなく、自分をお造り下さった存在の庇護のもとにある。
私を決して否定せずに私を愛してくださる。
それはイエスが十字架上で御父との断絶に苦しみつつも赦しの道を開いてくれたので、このような祈りの関係が回復したのである。
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[一版]2014年 2月 2日
[二版]2016年11月20日
[三版]2018年 8月18日(本日)
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流される人々
「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:20-25)
---
ここに出てくる群衆は、少し前までは「ホサナ!」と言っていた人たちだ。
しかし彼らは、この世の王である祭司長たちに「バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう」扇動され、実にあっさりと従ってしまう。あるいは、祭司長達の支持に従わないことは難しいことかもしれない。金員の授受もあったかもしれない。
この流されるだけの人々は、「十字架につけろ」と叫び続ける。
ピラトが「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と問うたとき、ますます激しく「十字架につけろ」と叫ぶというのだから、ちぐはぐすぎて、もはや問答として成り立っていない。
この、流される人々について、イエスは「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)と言っている。
「ホサナ!」と叫んだかと思うと今度は逆に「十字架に付けろ!」と叫ぶような、保身のことしか考えずにその場しのぎで動く人々は、そもそも救いなど求めていない。
しかし、流されるということは自分がないことであるから、その自分を問われる局面で彼は大きく動揺するだろう。自分をすっかり見失っていることに気付くのだ。
この、見失った自分を取り戻すということが、すなわち救われるということになる。
---
健やかな一日をお祈りします!
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:20-25)
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ここに出てくる群衆は、少し前までは「ホサナ!」と言っていた人たちだ。
しかし彼らは、この世の王である祭司長たちに「バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう」扇動され、実にあっさりと従ってしまう。あるいは、祭司長達の支持に従わないことは難しいことかもしれない。金員の授受もあったかもしれない。
この流されるだけの人々は、「十字架につけろ」と叫び続ける。
ピラトが「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と問うたとき、ますます激しく「十字架につけろ」と叫ぶというのだから、ちぐはぐすぎて、もはや問答として成り立っていない。
この、流される人々について、イエスは「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)と言っている。
「ホサナ!」と叫んだかと思うと今度は逆に「十字架に付けろ!」と叫ぶような、保身のことしか考えずにその場しのぎで動く人々は、そもそも救いなど求めていない。
しかし、流されるということは自分がないことであるから、その自分を問われる局面で彼は大きく動揺するだろう。自分をすっかり見失っていることに気付くのだ。
この、見失った自分を取り戻すということが、すなわち救われるということになる。
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健やかな一日をお祈りします!
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世の原理
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:3-8)
---
イスカリオテ・ユダが何故イエスを売ったのかは、わからない。
しかし理由はともかく、ユダは裏切り、そしてそのあと、彼は激しい後悔の念に駆られて、祭司長達の元を訪れる。
しかし祭司長は、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と突き放す。
使用済みの駒には用はないのだ。
そして彼らは、「血の代価だから」と、その銀貨で旅人たちの墓地を作る。
旅人はユダについてのこういういきさつを知らないから、抵抗がないであろう。
こうやって、旅人達への業績作りまでやってのける。
この祭司長達のやり方こそ、世の原理のものである。正に世の支配者だ。
これに対して、救世主イエスは異なる原理にいる。
世を創り人を創った御父の原理とでも言おうか。
御父の原理の元では人はいきいきと生きることができるのだが、祭司長のように世の原理にどっぷり浸かってしまうと、人は死んでしまう。死んではいないのだが、死んでいるのだ。
そのような死んでいる人を御父の原理に生かすため、イエスは今、十字架の途上にいる。
そうとは知らない様々な人が、捕まえられたイエスを軸に動いている。
---
健やかな一日をお祈りします!
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:3-8)
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イスカリオテ・ユダが何故イエスを売ったのかは、わからない。
しかし理由はともかく、ユダは裏切り、そしてそのあと、彼は激しい後悔の念に駆られて、祭司長達の元を訪れる。
しかし祭司長は、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と突き放す。
使用済みの駒には用はないのだ。
そして彼らは、「血の代価だから」と、その銀貨で旅人たちの墓地を作る。
旅人はユダについてのこういういきさつを知らないから、抵抗がないであろう。
こうやって、旅人達への業績作りまでやってのける。
この祭司長達のやり方こそ、世の原理のものである。正に世の支配者だ。
これに対して、救世主イエスは異なる原理にいる。
世を創り人を創った御父の原理とでも言おうか。
御父の原理の元では人はいきいきと生きることができるのだが、祭司長のように世の原理にどっぷり浸かってしまうと、人は死んでしまう。死んではいないのだが、死んでいるのだ。
そのような死んでいる人を御父の原理に生かすため、イエスは今、十字架の途上にいる。
そうとは知らない様々な人が、捕まえられたイエスを軸に動いている。
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健やかな一日をお祈りします!
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ペテロの号泣
「しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26:73-75)
---
聖書の中で、おそらく最も有名な箇所。
ペテロは、なぜ激しく泣くのだろう。
イエスを否んだ後悔からだとして、その後悔は何によるのだろう。
師であるイエスを裏切った後悔なのか、自分の情けなさへの後悔なのか。
かつてイエスはペテロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と怒った。
ペテロはイエスを(この時点では)人間であると思っていて、そのペテロの一連の行動は、もっぱら人間イエスへの情から出たものだ。
人は情で動く動物だとは思うが、相手であるイエスは救世主なのだ。
ここで、この救世主イエスが「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とペテロに言っていたのは、人間の肉の弱さについてのことである。
だから、じっさいに鶏が鳴いたとき、ペテロは自身の肉の弱さや罪深さに気付いて絶望する方が、少なくともイエスの弟子らしかった。
もしそうであったなら、号泣はしないだろう。声を失って立ちつくしてしまうような気がする。
ところが、イエスについてであれ、自分自身についてであれ、人を思ってペテロは激しく号泣した。
イエスと3年もの長きにわたり一緒にいて、ペテロはもっぱら情でイエスに接していた。
イエスとは何であるのかを、まるで理解していなかったのである。
しかし、復活のイエスと出会ったとき、ペテロは一瞬にしてすべてが分かった。
同じくイエスの弟子である私たちにとっても、その一瞬までが長かったり、短かったりする。
イエスは「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)と言っている。
---
[一版]2016年11月 6日
[二版]2018年 8月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26:73-75)
---
聖書の中で、おそらく最も有名な箇所。
ペテロは、なぜ激しく泣くのだろう。
イエスを否んだ後悔からだとして、その後悔は何によるのだろう。
師であるイエスを裏切った後悔なのか、自分の情けなさへの後悔なのか。
かつてイエスはペテロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と怒った。
ペテロはイエスを(この時点では)人間であると思っていて、そのペテロの一連の行動は、もっぱら人間イエスへの情から出たものだ。
人は情で動く動物だとは思うが、相手であるイエスは救世主なのだ。
ここで、この救世主イエスが「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とペテロに言っていたのは、人間の肉の弱さについてのことである。
だから、じっさいに鶏が鳴いたとき、ペテロは自身の肉の弱さや罪深さに気付いて絶望する方が、少なくともイエスの弟子らしかった。
もしそうであったなら、号泣はしないだろう。声を失って立ちつくしてしまうような気がする。
ところが、イエスについてであれ、自分自身についてであれ、人を思ってペテロは激しく号泣した。
イエスと3年もの長きにわたり一緒にいて、ペテロはもっぱら情でイエスに接していた。
イエスとは何であるのかを、まるで理解していなかったのである。
しかし、復活のイエスと出会ったとき、ペテロは一瞬にしてすべてが分かった。
同じくイエスの弟子である私たちにとっても、その一瞬までが長かったり、短かったりする。
イエスは「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)と言っている。
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[一版]2016年11月 6日
[二版]2018年 8月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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リンチ
「イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(マタイ26:64-68)
---
大祭司が「彼は死刑に当たる」と宣告する根拠は、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:16)という律法にある。
ここで、神の子イエスは果たして神の御名を冒涜しているのか、というのがあるが、この律法について判断する主体はここでは(私たちひとりひとりではなく)大祭司である。
もっとも、当地はローマの支配下にあるので、裁判や刑の執行はローマが行う。
大祭司達にはローマ法に基づいた権限を有していないので、大祭司のこの宣告には実際上の効力は発生しない。権限を有するのは、あくまでポンテオ・ピラトなのである。
では、大祭司が「彼は死刑に当たる」と宣告してどうなったかというと、リンチが始まった。これは律法にもローマ法にもない。
みんなでやっちまえば、律法もローマも関係ないのだ。
今までの積もり重なった憎しみを、このときとばかりにイエスにぶち当てている。「当ててみろ。キリスト」と、小馬鹿にしたりもする。
ここまでのリンチには至らなくとも、むき出しのどす黒い憎悪をぶち当てられるという経験を、多くの人は持っているはずだ。
その経験は何に生かされるというのだろうか。
イエス同様に、もっぱら死ぬためにその経験が生かされる。
死んで、復活するためである。
当のイエスも、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)と祝福している。
---
[一版]2016年11月 3日
[二版]2018年 8月 4日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(マタイ26:64-68)
---
大祭司が「彼は死刑に当たる」と宣告する根拠は、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:16)という律法にある。
ここで、神の子イエスは果たして神の御名を冒涜しているのか、というのがあるが、この律法について判断する主体はここでは(私たちひとりひとりではなく)大祭司である。
もっとも、当地はローマの支配下にあるので、裁判や刑の執行はローマが行う。
大祭司達にはローマ法に基づいた権限を有していないので、大祭司のこの宣告には実際上の効力は発生しない。権限を有するのは、あくまでポンテオ・ピラトなのである。
では、大祭司が「彼は死刑に当たる」と宣告してどうなったかというと、リンチが始まった。これは律法にもローマ法にもない。
みんなでやっちまえば、律法もローマも関係ないのだ。
今までの積もり重なった憎しみを、このときとばかりにイエスにぶち当てている。「当ててみろ。キリスト」と、小馬鹿にしたりもする。
ここまでのリンチには至らなくとも、むき出しのどす黒い憎悪をぶち当てられるという経験を、多くの人は持っているはずだ。
その経験は何に生かされるというのだろうか。
イエス同様に、もっぱら死ぬためにその経験が生かされる。
死んで、復活するためである。
当のイエスも、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)と祝福している。
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[一版]2016年11月 3日
[二版]2018年 8月 4日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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