イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
聖なる安息日
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)
---
十戒より。
休みの日、ある人は海や山で遊び、またある人は家で静かに過ごすだろう。
教会に礼拝に行く人もいるだろう。
働いている人も少なくないが、だいたいの人は職場が休みだから休んでいる。
しかし、安息日は単なる休みと違って、聖なる日なのだ。
すべてのものをお造りになった御父の七日目の安息、これを覚えよという。
この日、私たちは神の創造の御業に感謝するのである。
ところで私は、この天地をそこにあるものと思っている。
そんな私が、創世記を読んでも、天地や人を神が作りたもうたということが腑に落ちることはなかった。頭で理解はしても、どこか遠い世界のおとぎ話のようにしか感じなかった。
自分が生まれたときには、すでに天地はあったのだ。
このように創造がピンとこないのだから、安息もまた分からない。
この安息日という十戒の文言それ自体が分からないのだから、自分はなんと救われないことだろうか。
いったい聖なる安息日というものはどのようなもので、どう過ごせばよいのだろう。
いったい自分は、どれだけ創造主から断絶した存在なのだろうか。
このように、律法は人に罪を気付かせる。その罪に苦しんだ果てに、イエスの十字架と復活を通して、この創造主との和解に至る。義と認められ、もう断絶はない。
聖なる安息日を分からなくとも、そのときには赦してくださる。
御父は人を創造し、人を赦してくださる。御子をさえ惜しまなかったのだ。
それらすべての御業を覚えて、喜ぼう。
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健やかな一日をお祈りします!
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)
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十戒より。
休みの日、ある人は海や山で遊び、またある人は家で静かに過ごすだろう。
教会に礼拝に行く人もいるだろう。
働いている人も少なくないが、だいたいの人は職場が休みだから休んでいる。
しかし、安息日は単なる休みと違って、聖なる日なのだ。
すべてのものをお造りになった御父の七日目の安息、これを覚えよという。
この日、私たちは神の創造の御業に感謝するのである。
ところで私は、この天地をそこにあるものと思っている。
そんな私が、創世記を読んでも、天地や人を神が作りたもうたということが腑に落ちることはなかった。頭で理解はしても、どこか遠い世界のおとぎ話のようにしか感じなかった。
自分が生まれたときには、すでに天地はあったのだ。
このように創造がピンとこないのだから、安息もまた分からない。
この安息日という十戒の文言それ自体が分からないのだから、自分はなんと救われないことだろうか。
いったい聖なる安息日というものはどのようなもので、どう過ごせばよいのだろう。
いったい自分は、どれだけ創造主から断絶した存在なのだろうか。
このように、律法は人に罪を気付かせる。その罪に苦しんだ果てに、イエスの十字架と復活を通して、この創造主との和解に至る。義と認められ、もう断絶はない。
聖なる安息日を分からなくとも、そのときには赦してくださる。
御父は人を創造し、人を赦してくださる。御子をさえ惜しまなかったのだ。
それらすべての御業を覚えて、喜ぼう。
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健やかな一日をお祈りします!
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