イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ペテロの号泣
「しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26:73-75)
---
聖書の中で、おそらく最も有名な箇所。
ペテロは、なぜ激しく泣くのだろう。
イエスを否んだ後悔からだとして、その後悔は何によるのだろう。
師であるイエスを裏切った後悔なのか、自分の情けなさへの後悔なのか。
かつてイエスはペテロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と怒った。
ペテロはイエスを(この時点では)人間であると思っていて、そのペテロの一連の行動は、もっぱら人間イエスへの情から出たものだ。
人は情で動く動物だとは思うが、相手であるイエスは救世主なのだ。
ここで、この救世主イエスが「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とペテロに言っていたのは、人間の肉の弱さについてのことである。
だから、じっさいに鶏が鳴いたとき、ペテロは自身の肉の弱さや罪深さに気付いて絶望する方が、少なくともイエスの弟子らしかった。
もしそうであったなら、号泣はしないだろう。声を失って立ちつくしてしまうような気がする。
ところが、イエスについてであれ、自分自身についてであれ、人を思ってペテロは激しく号泣した。
イエスと3年もの長きにわたり一緒にいて、ペテロはもっぱら情でイエスに接していた。
イエスとは何であるのかを、まるで理解していなかったのである。
しかし、復活のイエスと出会ったとき、ペテロは一瞬にしてすべてが分かった。
同じくイエスの弟子である私たちにとっても、その一瞬までが長かったり、短かったりする。
イエスは「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)と言っている。
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[一版]2016年11月 6日
[二版]2018年 8月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26:73-75)
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聖書の中で、おそらく最も有名な箇所。
ペテロは、なぜ激しく泣くのだろう。
イエスを否んだ後悔からだとして、その後悔は何によるのだろう。
師であるイエスを裏切った後悔なのか、自分の情けなさへの後悔なのか。
かつてイエスはペテロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と怒った。
ペテロはイエスを(この時点では)人間であると思っていて、そのペテロの一連の行動は、もっぱら人間イエスへの情から出たものだ。
人は情で動く動物だとは思うが、相手であるイエスは救世主なのだ。
ここで、この救世主イエスが「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とペテロに言っていたのは、人間の肉の弱さについてのことである。
だから、じっさいに鶏が鳴いたとき、ペテロは自身の肉の弱さや罪深さに気付いて絶望する方が、少なくともイエスの弟子らしかった。
もしそうであったなら、号泣はしないだろう。声を失って立ちつくしてしまうような気がする。
ところが、イエスについてであれ、自分自身についてであれ、人を思ってペテロは激しく号泣した。
イエスと3年もの長きにわたり一緒にいて、ペテロはもっぱら情でイエスに接していた。
イエスとは何であるのかを、まるで理解していなかったのである。
しかし、復活のイエスと出会ったとき、ペテロは一瞬にしてすべてが分かった。
同じくイエスの弟子である私たちにとっても、その一瞬までが長かったり、短かったりする。
イエスは「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)と言っている。
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[一版]2016年11月 6日
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