マウンティング

 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)

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 十戒より。

 高度成長期の頃、隣の家がカローラを買ったから我が家はコロナ(もっと高い車)を買おう、というのがとても多かったが、これは見栄を張るというだ。盛大な葬式を営んで大勢の人を呼ぶのが近所に見栄を張りたいから、というのを聞いたこともある。
 ちなみに最近は、ぶつけてへこんだ車を修理もせずに乗っているというのをよく見かけるようになったし、葬式はもっぱら身内だけのものになった。
 張る見栄もなくなったのかと思っていたら、最近はマウンティングという言葉がある。隣人に対する優位性をもっぱら言動で示すことと言えばいいのだろうか。しかしこの場合、それをする人が実際に優れているわけではない。

 ここで上の十戒に戻ると、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」のだから、これは行為の禁止ではなく、内面の動きを禁止していることになる。心の動きまでも御父が見通しておられることが、ここで端的に示されている。
 そして、ここで問われているのは、欲しがることそのものについてではない。隣人を見て同じものをとか、隣人のよりいいものをとか、隣人より上に立とうとか、すなわち隣人に対して相対的な比較をする心の動きが問われている。

 こんなもの守れるはずが、と言いたいところだが、実は自分にはこういう心の動きは少ない。もちろん全くないなんてことはないが、人より少ないと思う。
 お金は自分が過不足なければ十分と思っているので、人より高収入をとか、ましてや富裕層ランキングの類の相対化した競争には興味がない。本はよく買うが、それ以外のものは必要以上にはあまり買わない。
 それからなんだろう? 何かを持っているから他人より相対的に上だとは、・・・いやあ、思わないなあ。上にマウンティングという言葉を書いたが、よく知らなかったので調べ調べ書いたのだが、自分がこれをやることはほとんどないと思う。

 実はそのわけを自分自身でわかっている。
 自分の核を持っているからだ。
 イエスに救われて、それから改めて聖書を開くと、1行1行が今までとは全く違う意味と輝きを持っていた。その当時の聖書の見え方を書き始めたのが本ブログの始まりで、表面的な表現は変わっても書いている内容の根幹は当時と変わるところはない。
 自分は世界をどうとらえるのか。この切り口がこのときに与えられたのだと思う。
 それで、自分にとって絶対的な意味で大切なものは何か、という見方におのずとなった。この見方には、他者との相対性はあまり入らない。その絶対性の中で、分相応とか、自分とは何者かということも、自然と開かれていった。

 さて、マウンティングというものを調べていると、あーこれは自分もやられたなあ、確かにあれは不愉快だった、ということが書いてあった。
 その内容は省略するが、中身が全くないからこそ、このマウンティングという恐い者知らずができるのだろう。大体、人を小馬鹿にするなんてのは、人の足を引っ張って、それでやっと保てる程度の低い自尊心に理由があるのではないかと思う。
 なぜこんなことを書くのかというと、マウンティングする人たちもまた、何かの大きなきっかけで、自分のこんな心貧しさに気付くかもしれないと思うのだ。
 第一、自分がそうだったのだ。
 若い頃さんざんマウンティングした。いろいろな人を小馬鹿にしてどの人からも疎まれた。そのくせ、分不相応な高級車なんか乗り回していた。そのダメさに少し気付いて教会行って聖書に接したら、その自分のダメさに徹底的に打ち砕かれていくのだから聖書の力はなんと素晴らしいものであろうかと今は思う。

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 健やかな一日をお祈りします!
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