七度を七十倍するまで

 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)

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 ここでイエスが言っているのは、やはり行ないについてである。
 「人の過ちを赦す」という行ないを果たすことができれば神から赦され、そうでなければ赦されない。
 山上の説教での今までの箇所と同じように、ここでも「人の過ちを赦す」とはどういうことかが暗黙の内に問われている。

 「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21-22)

 アダムの肉に果たして、「七度を七十倍」ができるだろうか。
 律法は遵守することで救われるためにあるのではなく、白旗を揚げて降参し、どうしても遵守できない罪人であることを否応なく認めざるを得なくなる、そのためのものなのである。

 そのように律法が人を罪の認識に追い込む。
 そして「私は罪人である」ということに気付かされて初めて、私たちはイエスがどうしても必要になる。

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