野のゆりとソロモン

 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:28-31)

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 肉を持つ私たちは、どうしてもソロモンの栄華絢爛の方に目がいってしまう。
 ソロモンの繁栄、イスラエル王国の絶頂期。
 ここで、以前に書いたものを引用する。

 『ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。
 「ソロモンの栄華」というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。
 ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを損なってしまったのである。』
(以上2010年7月18日付より。)

 そこでイエスは、働きもせず紡ぎもせず、明日には燃やされてしまうような野のゆりの方を「神はこれほどに装ってくださる」と言う。
 神が恵まれた花の美しさは、ソロモンの虚栄とは比較にもならない。
 そして、野のゆりと同じように、神は「いのち」そのものをイエスを通して私たちに恵んでくださる。
 それがあれば、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を思い悩む必要もない。
 何故かというと、「いのち」とはそれらを自分で調達できる力、生きる力といっていいからだ。

 私たちは生きること、生ききることが大切なのであって、資産の大きさを競うために生きているのではない。後者こそ正にマモニズムである。
 私たちが何もできない者であっても、虚しさなく生きることができるよう、求める者に神は等しく必要なものを恵んでくださるのである。

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