恵まれることについて

 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:17-20)

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 聖書には2種類の人々が登場する。
 一方は、イエスから「わたしについて来なさい」と言われる人々。
 もう一方は、イエスに弟子入りを懇願するがやりすごされてしまう人々。
(たとえば「そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。」マタイ8:19。)

 主権はどこまでも神の側にあるので、私たちの側から働きかけてもうまくゆかない。
 救いは正にそのようなもので、私たちが断食したり滝に打たれたりすれば救われる、というようなものとは程遠い。
 聖なるお方から救いの手が恵みによって差し伸べられるのを、祈って待ち続けるのみである。
 そうでこそ、全能者である神と被造物たる人間とが、本来的な上下関係を取り戻す。

 ではなぜペテロやアンデレが「わたしについて来なさい」とイエスから声を掛けられたのだろう。
 おそらく理由はない。
 ここでいう理由とは、たとえばペテロは屈強そうだから是非とも弟子にしたい、といった類の因果のことだが、もしそのような理由があって声こそを掛けられたとしたら恵みが恵みでなくなってしまう。

 恵まれることに理由は何もなく、誰もが恵まれる。
 ただ、恵みはどこまでも神の側に主権がある。
 だから私たちも、「わたしについて来なさい」と仰るイエスに出会うのを忍耐をもって待ち続けるのである。

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