荒野の試み

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 悪魔とはどのような存在かを理解していないことを前置きしつつ。

 悪魔は3度イエスを誘惑するが、そのイエスは申命記のみことば(すなわち律法)によって誘惑を追い払う。
 イエスはこの状況でさえ律法を守り通した。
 「守り通した」というのは私たち罪深き人間からの感覚であって、罪をその肉に宿していないイエスは悪魔からの誘惑をそもそも誘惑とも感じていなかったのではないだろうか。

 しかし、あえてバステスマをお受けになったイエスは、この荒野での試練によって人間が日々受ける罪への誘惑を体験された。
 そして人間がその肉ゆえの罪深さに呻吟していること、そこから救われたいということを、イエスは荒野で深く理解する。
 その上で、いわゆる公生涯を開始される。

 神の律法を完全に守り通せるのは、その肉に罪を宿していない受肉した神の子イエスだけであり、一方私たちはその律法に照らしてあまりにも罪深い。
 もし、そのような私たちが荒野に出て悪魔の誘惑に遭ったらあっさりと乗ってしまうだろう。
 私たちアダムの子孫には肉に罪が宿っているからたやすく反応してしまうのである。
 そのような私たちでも神によしと認められて救われるためには、イエスの十字架と三日後の復活という救いのわざを信じることができるかどうかにかかってくる。

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