神の完全なる秩序

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

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 最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
 「善悪についての判断」を身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。人間は、アダムの肉を身にまとってしまったのである。
 そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
 その大支柱とでもいうべきものが、十戒(出20:1-17)である。

 この十戒に始まる律法群を守り行うことは、およそ不可能だ。
 更に、この「山上の説教」。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)

 「姦淫してはならない」という律法は、実にここまで厳格適用されるもの、イエスはそう説いている。

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 聖書を小馬鹿にする人々は、この箇所をあげつらう。
 だが彼らが考えるとおり、確かに左の頬を向けようとしてもそれができない。
 肉を持つ私たちには防御本能という肉が強く働くのである。

 であるから、神の完全なる秩序・律法それ自体を守り行うことというのは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、およそ実行不可能だと言うことが痛いほど身に染みてくる。
 パウロは書いている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

 実に人は、罪深い存在にすぎない。
 そして自分が罪深い、ということをその人に気付かせる(追い込ませる)がための、完全な律法なのだ。イエスは、この「律法を成就」するために来られた。
 この完全な律法に照らされて、自身の罪が否応なく明らかにされる。
 イエスは、このあぶりだされた私たちの罪を神の御前に赦すための十字架に架かって下さった。
 アダムの肉を処罰するための十字架だ。
 そうすると、罪とは単に指弾するためのものというよりもむしろ、解放されるためのものとさえ言えるかも知れない。

 そういうわけで、律法と十字架とはペアなのである。

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[付記]
 本日の記事の履歴は以下の通りです。
 [一版]2006年 9月 8日
 [二版]2007年 6月30日
 [三版]2008年 2月21日
 [四版]2010年 4月24日
 [五版]2011年12月25日
 その都度変更を加えています。

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