義に飢え乾いている者の幸い

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

---

 イエスのなされた「山上の説教」の中の一節。

 罪( sin )というのは、窃盗罪とか、そういう犯罪(guilty)を指すのでは全くない。
 アダムの肉を持つ人間は罪(sin)の性質(肉)を有するがゆえに、神の怒りの下にいる。
 そのことは、神の律法や、更に山上の説教を人間が守り通すことのできないことから明らかである。
 このことを罪の下にあるという。

 罪の下にあるからこそ、人は神の御前に正しいという「義」をあえぎ求める。具体的には、律法をあくまで守り通そうとする。
 上の引用聖句にある「義に飢え渇いている」とは、まさにこの段階を指す。
 そして、イエスはこの段階にある者を「幸いです。その人は満ち足りるからです」と祝福している。
 アダムの肉が恵みによってイエスの十字架と復活を信じたときに「義」と認められて罪が赦され、律法は養育係としての役割を終える(律法そのものがなくなるのではない。参/マタイ5:18)。
 これが神との和解である。

 つまり神と和解するには、「義に飢え渇いている」という段階がどうしても必要なのである。
 その段階の向こう側に十字架と復活が臨んでいる。

---
[付記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年12月 1日
  [二版]2008年 3月 4日
  [三版]2010年 4月18日
  [四版]2011年12月24日(本日)

 少し筆を入れました。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 心の貧しさ 神の完全なる秩序 »