御利益宗教

 「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:1-4)

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 イエスの母は、言外に「どうにかしよろ」とイエスに催促している。
 それに応えて、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」とイエスは言う。

 10年ほど前、あるキリスト教書を読んだことがある。
 牧師さんが車に乗っていて事故を起こしてしまった。
 そのときその牧師さんは、「出発時にきちんとお祈りしたのに…」と途方に暮れた、そんな内容だったと思う。

 どうか結婚式が無事に終わりますように、交通事故から護られますようにという願い(祈り)は、御利益宗教以外の何物でもない。
 「あなたは神です」と持ち上げておいて、その「神」の力をもっぱら利用しようというもので、これでは人が神を使役する形になってしまう。
 人の方が神よりも上にいるこの構造が、御利益宗教の特徴である。
 
 イエス・キリストは、御利益宗教ではない。
 罪にまみれて死んでいた私たちに、「いのち」を与えてくださるお方、それが、十字架の死から復活したイエス・キリストなのである。
 わたしたちのあるじ、主なるお方だ。
 わたしたちがこの主に求めるのは、「いのち」以外の何であろう。

 結婚式をどうにかしてくれという御利益の願いには、そういう願いだとあなたとは関係がない、とイエスは母に言う。
 言った先から水をぶどう酒に変える奇蹟を起こすことには、イエスのあわれみを感じる。「それはそれとして……」ということなのだろう。

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