闇から光を待つ

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:18-21)

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 光が来ている。
 逆にいうと、今まで光はなく、闇の中にあった。

 闇の世界での「悪いこと」、「真理」。
 光の世界での「悪いこと」、「真理」。
 イエスは裁きの席で、「十字架につけろ」と世界中から罵られる。
 あの狂騒の集団心理が、闇の真理、肉の真理である。
 一方、その十字架を全うし三日目に復活して肉を救うこと、これが光の真理である。

 様々な立場があるのかもしれない。
 だが、さばくことができるのは神だけであり、つまり光の側には「さばく」という最も強い権限に裏打ちされている。
 ここでは、イエスを信じないことが悪いことであり、イエスの十字架と復活を信じることが真理である。
 たとえば隣人を愛せないことが悪いこと、光を憎むこと、なのではない。

 そうすると一体、信じるとはどういうことだろう。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)

 イエスだけが罪深い肉を持つ私たちを救うことを信じること、イエスによる救いを求め続けることに尽きるのではないか。
 悪くない行ないといったら、その光がどこかにあることを信じ続けることくらいではなかろうか。どこに光があるか、今は分からないのだ。

 イエスの約束通り、求める私たちは恵みによって光照らされるときがやがて来るのである。

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