私たちはこの方の栄光を見た

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

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 「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。
 個人的には、後者の方が分かりがいい。

 イエスが肉をまとっておられた頃(いわゆる公生涯)、イエスに会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
 しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
 イエスの中に神を見いだいたのである。
 そのような人々は、当時でもごく一部であったろう。
 対照的に、イスカリオテ・ユダはどうであったか。

 十字架で肉を処分して復活したイエスは今も、「私たちの間に住まわれ」ている。
 そして、(わざによってではなく)恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、イエスの栄光に圧倒される。
 そのとき突然、覆い被されていたものが顕わになって、聖書の一節一節を了解できるようになる。十字架の意味、復活とは、等。
 それは人知によるものではない。
 まことに「この方は恵みとまことに満ちておられた」のである。

 聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。

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